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Posted by あしたさぬき.JP at

ある意味地域興し

2008年05月30日

地域興しなんか、ゼニが回らんと成り立たんだろう。

ってことは、石油を探して油田探索するように

まち歩きの素材を探すために地域の魅力を探索するように

ゼニを回すためには、地域のゼニのありかと量と性質を探索せんと。

ゼニより大事なものを持っていることはいいと思うし、ゼニのこと以外に多面的な達成を目指して事業をすることも大事だと思うけど、ゼニを貶めたらいかんと思う。

ゼニを貶めたら、物事はうまくいかんような気がするんですわ。
福祉とか慈善といったものについても。

まずもって、自分らゼニに生かされてるわけですし、生活保護にしても災害救助にしても、ゼニの出所によって生かされているわけです。

先人にゼニのある国をつくってもらって、ゼニで世界的にも恵まれた部類の暮らしさせてもらって、ゼニで整備したインフラで生活して、ゼニ(資本)主義の果実を最も享受してる日本人が、いっぺん飽食したからって、ゼニを貶めるなんて、自分が人が生きてる関係を無視しとるんではないでしょうか?
社会と人との関係を無視して、社会的な達成をしようなんて、「そりゃうまくいかんやろ」みたいな気が近頃するんです。
  

Posted by たみ家 at 22:11Comments(0)

誰がゼニを持っているのか?

2008年05月30日

5月12日付けの四国新聞によると

香川県の1世帯当たりの平均預貯金残高は、1656万8千円だそうです。
これは全国1位だそうですが、39万円前年よりも減ったそうです。

1世帯当たりの人員が2.55人だそうですから、赤子まで含めた約100万県民の平均が700万弱の預貯金を持っているわけです。

って言っても、子供や学生や専業主婦は名目上口座を分けたりしてることはあっても、そんなに実質預貯金持ってる人は全県平均を押し上げるほどはいないでしょう。

実質、平均像を考えるなら、世帯主が預貯金のほとんどを一人で持っているのでは?

何人かの税理士に「香川県の預貯金の世帯平均ってどれぐらいと思う?」って聞いたら、「600万円程度」前後の答えがほとんどでした。
ご本人、どちらかといえば富裕層で、世の中のお金事情にかなり詳しい事務所のオーナー税理士が揃って、大きく外すのだから、よほど、県平均ほど預貯金を持ってる人が税理士の顧客に少ないのでしょう?
税理士は退職したサラリーマンの退職金とかはほとんど扱わないでしょうし。

この県世帯平均という情報はすごく価値の大きな情報だと思います。
重要な数字なのに、ほとんどのプロが気づかないし、誰が持ってるのかすぐにわからないのですから、流動性資産たるお金の世の中での位置や量を知っている人って、プロにも素人にもいないってことになる。
「統計の数字を知ったからといって何になる?」「統計の数字には裏があるから鵜呑みにしたって騙される。」

から

「現場からも統計からも実践的な思考ができるようになれる。」「統計の数字には裏があるけど、比較をすれば、裏を読む材料が見えてくる。裏があるから、裏を読むための材料になる。」

という風に考えてほしいと思います。

統計の数字を見たら、現場がわかります。
現場をよく見てたら、統計を見て「あれ?」って思うはずです。

「周囲にそんなに持ってる人はいないし、大企業の幹部に聞いてもなさそうなのに、100万県民の平均をそこまで押し上げるのは何?」

何であれ、統括する人は、すべての現場を見れるわけでも、キャリアの中で経験できるわけでもありません。
だから、報告の数字から現場を読み取ったり、違和感を感じないといかんわけです。
在庫の回転と客数と売上の数字の比較を見て、すぐに、「あっ!現場で料理の使いまわしをしとるぞ。」と気づかないといけません。

だから、責任ある人の一番大事な能力を3つ挙げるなら、その一つは数字を見て、「ああ、連携取れてないのでは?厨房の中で不仲があるな。」とか「今の生産数ならロスは減るはずなのに、増えてるぞ。機械どっか故障放置されとらんか?」って、等身大の世界のにおいを感じることだと思う。
統計の数字を雑学扱いしたり、バカにする人は問題だと思う。

たみ家のまわりには、1656万も預貯金を持っていると思う人がなかなか思い浮かびません。
こういっては何ですが、たみ家の知り合いにはけっこう社会的地位のある人が多いのですが、不動産をあわせた財産なら数千万でも億でも持ってるだろうけど、預貯金残高でとなると、自営業者で今時、そんなに潤沢なキャッシュを持ってる人はそういないだろうし、それぐらいキャッシュがあったら、事業家なら預貯金以外にお金を回すのではないか?
また、医師や社長や資産家ですごい資産を持ってる人はいると思うけど、これも預貯金で持つだろうか?
株や不動産の比率が高そうだし、全県平均を医師や調子いいとこの社長の人数で押し上げるとなると、数億じゃなくて、せめて十億以上の預貯金を持ってないと上げられないでしょう。
そんな人そんなにいますか?

零細企業に勤めてたり、儲かってない個人商店の人はほとんどは、200万円さえ預貯金持ってないと思うんですが、いかがでしょうか?
何にも引いてない状態での、平均年収230万円ぐらいの零細企業の人が預貯金持てるでしょうか?

生命保険も統計上の預貯金に入ってるんでしょうか?

預貯金ほぼゼロの県民もかなり多いでしょう。
まったくの予想ですが、100万人中、20万人や30万人はほとんど預貯金10万円以下だと予想してます。

割と大きい会社の幹部クラスに聞いても、ほとんどの人が、ほんとに預貯金1000万円持ってなさそうです。
土地買って家建てて、こども2人大学行かせてたら、預貯金で1000万現役時代には持てないのでは?


そうなると、大きな会社で退職金もらった後の世代か、親元から通ってる公務員夫婦とか、教職員夫婦とか以外、例外はたくさんいるとしても平均像を形づくるような数を持つ層は、ほかにはないのでは?

農家なんかは、資産はあっても退職金はないしなあ。

となると、預貯金の多い地域は、高齢化が進んでいる田舎の割には、大きな退職金を出せる大企業の割合が多く、生活費がかかりにくい地域となると、そこそこ田舎の割りに、大手支社が多く、公務員も多く、食費が安い香川が預貯金残高1位ってのも、そこそこ納得できる材料は出てくるなあ。
香川は高所得者に公立学校信仰が強いし。
たぶん大きい会社ほど、支店経済や出先機関や電力のお膝元の街では、安い社宅が充実してそう。
この人達は貯める気になったら貯まるだろうなあ。

出世してても、現役時代はローンやら大学行かせるやらで、キャッシュはそうない。
出世はしなくても、それなりの企業や公務員の退職後なら、老後の資金として余裕はあるかないかはともかく、キャッシュはある

そう思えば、いろいろ考えることが見えてくるかなあ。

商売や投資の話で、誰がキャッシュを持ってるのか?
財布の紐の固い層だったとしても、対象や性質がわかれば、どういう切り口や物語性で切り込んでいくのかなど見えやすくなるのではないか。

退職金以外に、全県を引っ張り上げるほど、10万人単位の人が2、3000万円以上の大金を使わずに預貯金できてる理由って
、考えられますでしょうか?

また、事業家や資産家でなく、事業や投資に不慣れな層だから、預貯金の比率が高いのであって、情報を持っていて、ある程度目端の利く人なら、ある程度ポートフォリオ的にリスク分散はするにしても、資産の3割もは預貯金で寝かせてはおかないのでは?

親元暮らしで、同居で、土地はもらって家建てたそこそこの給料取りなら、現役でも持ってるかもしれませんが、10万人はいないと、億円単位以上ないと平均は引き上げられないので、やっぱり主に退職金が、香川の預貯金残高を支えてるとしか思えないのですが、たみ家予想どうでしょうか?
  

Posted by たみ家 at 02:25Comments(2)

ネギを英語で

2008年05月30日

近頃、いろいろお客さんの幅が広がったというのか、交流を通じたお付き合いからの来店などもあったり、飲食店冥利という楽しみのようなものが増えたと思う。

最近、ときどき、某公立中学校に英語教員として来ているアメリカ人男性の方とお話をすることがある。

うどん屋にも、明らかに外国人と思われる方は年に100人は来店されます。
100人って多いような気もしますが、数百人に1人以下の割合です。

ところが、外国人も、日本にわざわざ来られる方は、けっこう日本語勉強してたり、引率の通訳的な方が日本人か外国の方かグループの中にいらっしゃったり、留学か就労のために日本に住んでたりで、ほとんどの方がかなりの日本語レベルにありそうです。

だから、たみ家も英語で無理に話すことに挑戦したりはしません。
うどん店開業が現実味を持ってからは、勉強まったくできてないし、困らんのだからまあええやろと思ってました。

ただ、悩ましいのは、食べ物の単語です。

「これ何ですか?」と聞かれた場合、単語を知らないと答えようがないし、これから勉強しようとも思わないのに、普通の英語の勉強の過程では出てこないような単語が多い。

「ゲソ」とか「きつね」とか「かけうどん」とか「ざるうどん」とか「湯だめ」とか、釜揚げや湯だめやざるなどのつけ麺系の「つける」って表現がよくわからない。

そこで、いくつか、そのアメリカ人教員の方に聞いてみました。

今回は、うどん特有のでなく

「ネギ」と「大根」と「梅干」

けっこう、アメリカで見ないものについては、アメリカ人でも英単語がなかなか出てこないようです。

ちょっと考えた末

ネギは「グリーンオニオン」かな?
(きんじさんからのアドバイスによると和英辞典では Scallion だそうです。)

大根は「ジャパニーズラディッシュ」かな?ちょっと自信なさそうです。

梅干は「ドライドプラム」かなあ?と来て、たみ家が、「直訳だとそうかもしれないけど、どう見ても乾燥してないし、梅の漬物って感じで、プラムピクルスみたいな感じから持っていくのでは?」と疑問をぶつけると。

ああ「ピクルトプラム」って聞くことあったなあ。

日本にしかないものは、なかなか出てこないので英語の勉強になるなあとアメリカ人の方から意外な言葉が聞かれました。

ネギがオニオンという発想はたみ家からは抜けてました。
また、大根がラディッシュか。。。とこれも発想外でした。
大根って、原産は中東か地中海沿岸とかあっちの方だと思うけど、西洋から見ると日本に代表されるように見えるのだろうか?

まあ、日本人から「英語でこれなんて言うの?」ってよく聞かれるでしょうから、こういうことは、6月から西讃の国際交流センターのようなとこに転職される彼には大事なことかもしれませんねえ。
  

Posted by たみ家 at 00:12Comments(2)

キャラクター紹介

2008年05月27日

突然ですが、うちの看板のキャラクターの紹介をさせていただきます。

どんぶりを暖かい家に見立てて、なかに笑顔がいっぱいなんですが、

上が「にっこり」さん、左が「なっとく」さん、右が「うっとり」さんです。

色は、それぞれ、太陽と海と大地で、どんぶりの中に、太陽と海と大地の恵みがたくさんって意味もかけてます。

位置も、上に太陽があって、下側に海と大地があります。
で、ギリシャ神話でも、日本神話でも、海の神は男っぽく、大地の神は女性的だったと思う。

たみ家作ではあるんですが、意外にいろいろ意味を持たせてるでしょ
  

Posted by たみ家 at 20:24Comments(6)

環境ゲームをつくってほしい 2

2008年05月26日

ゲームで、ゲームプレイヤーが、ゲーム中の都市を代表して、環境にいい暮らしをしたら、都市環境がよくなって、それにあわせて、地球も連動してよくなったり、環境によくない暮らしをしたら、逆になるようなシミュレーションゲームを、いろんな環境負荷を計算して、プログラムに組み込んで、つくってほしい。

たとえば、割箸をまったく使わずに水で洗う人の街は、緑は減らないけど水が汚れたり涸れていき、車を使わずに歩く人の街の空気はきれいになっていくけど、生産性が悪くて街が発展しなかったり。

これに個人の楽しみやタイムイズマネーや所得・資産などの要素もおりまぜる。
だって、1日中何もしなければ、環境負荷は減るけど、生活できないし、それでは幸せにはなれないもんね。

「「セカンドライフ」みたいな擬似の高度なゲーム的な世界があるわけだから、個人の生活での環境への取り組みについて科学的な裏づけのある影響をきちんと組み込んだうえで、デフォルメして、街や地球環境を良くしながら、生活も楽しんで、幸せになろうとするようなゲームってできるんではないでしょうか?

こういうゲームで、環境問題の勉強をリアリティーを持って、体系的に楽しみながら学ぶとおもしろいと思う。

割箸を1日3食使ったら、画面のどっかの中国の森林が見えるように減るし、牛肉食をやめたら、地球の緑が増えたり、空気がきれいになったりして。

地球環境の良さと、都市の環境や発展と、個人として生活を楽しめたかと、ゲーム中に得た財産か何かをそれぞれポイント化して、合計点が多い方が勝ちで、環境負荷などを学んで正しい取り組みを知ればどんどんゲームで高いポイントを取れるようになって勝てるってのはどうでしょうか?

環境問題ばっかり、取り組んで、環境税かけたり、生産を縮小したために、街に学校や道路ができなかったり、何が何を犠牲にするのかなどもゲームの中でビジュアル化されたらおもしろいと思う。
  

Posted by たみ家 at 23:46Comments(2)

環境ゲームをつくってほしい 1

2008年05月26日

うちの店の水道料金は、基本料金が口径13mmの枠で、従量料金の方は、1リットル0.2円の上水道料金がかかります。
それに対し、下水道使用料が、0.16円ぐらいかかります。

うどん店の割箸は、1膳1円ですが、これは完全に民間取引ベースの数字。

水道料金は、ライフラインだから、独立採算をとってるとはいえ、良心的に抑えられているのではないだろうか?
上水道や下水道の整備には、税金が入ってると思うので(下水道は間違いなく)、水道料金以上のお金が実際にはかかっているだろうから、2リットルも水を使えば、割箸1膳分の水を使うでしょう。

箸や箸袋や箸箱を単独で洗えば、すぐに割箸1膳分ぐらいの料金の水を使用するでしょう。

コスト意識や成果意識を持って、環境対策に取り組むなら、水の料金や、箸の重さなどを調べずに、語ることは許されないと思う。

90円ぐらいの切手貼って使う長い封筒(角3だったっけ?)やA4用紙や割箸などの使用1単位の値段や重さを知らずにオフィスの環境対策を語るのは問題があると思います。

それぞれ、6、4、4gぐらいでしょう。

絶対に知らないといけません。
いくら念押ししても足りません。。。。。申し訳ないですが。。。絶対です。

多くの関係の中で、何かを犠牲にして、何かを減らすから、環境問題なんです。

だから、犠牲にする量の関連をピックアップして、いろいろ比較して、ベターなシステムを探すことが環境対策なんです。

環境対策は比較することとイコールだから、比較の数字を知らずに対策をとることは背理なんです。

オフィスで封筒とビニールを分離すれば、その間、人件費と光熱費がかかるわけです。
だから、製造段階までさかのぼって、取り組みを要求しないといけないわけで、クーラーかけて照明つけて、人件費発生してる場で、はがしていることで何となく環境にいいことをしている気分になってたら、本当に大事なことが見えなくなり、事実として冷酷に環境は悪化するでしょう。
環境は冷酷なので、人と違って、間違ったことでがんばってることを情では評価してくれません。

比較するってことは、単位と数量を知らないとできないんです。

こういうことからも、産業分野はCO2排出量を大幅に減らしてるのに、家計部門は大幅に増やしているのではないでしょうか?

水不足のときに、いくつかの飲食店が水をたくさん使うので、営業を自粛するって話が出ました。

逆に、それぞれの家で食事するのやめて、住民全員が飲食店で食べたら、水の使用効率は上がるんじゃないでしょうか?
営業を自粛じゃなくて、自炊を自粛すべきでは?

うどん屋はたくさん水を使うといわれますが、数百食の食事を提供する割合からしたら、各家庭で自炊して洗い物するよりも、1食当たりは、断然水の使用量が少なくすみます。

うちの店で、トイレから洗い物から、水まきや、釜の水や麺の洗いまで全部含めても、うちの上水道の料金って、1日当たり200円ちょっとですよ。

渇水になったら、自炊は自粛で、家で弁当作って持って行くのも自粛で、みんなで外食ってことにしたら、うどん屋じゃないとこに行かれそうだけど、渇水なりの楽しみができるし、景気がちょっと上向くかも、転んで、ドロだけでもつかんで起きよう。

それに、営業やめたら生活の糧を失う人に犠牲を求めるよりも、薄く広く、消費者全体の枠で(もちろん飲食店の人も場所を変えれば消費者です。)、効率を高めながら対処する方がよっぽど公平性や社会正義にもかなう。

見た目でものをいう人が多いけど、環境対策って、目で見えない関係をとらえて比較することで、目で見えるものをそのまま追うとたいてい失敗するようにできてると思う。

牛肉食をやめるとか、毛織物を着るのをやめるとかどうだろうか?
牛と羊が生育中の飼料栽培での水の使用など環境負荷の面でむちゃくちゃ大きいと聞いたことがある。
牛肉食も毛織物着用も、明治まで日本人ほとんどやってないから、どうってことないんでは?

鶏肉と豚肉と化繊でやっていきましょうよ。

経済面やアメリカとの関係なんか考えたら、難しいと思うけど、世界中で牛肉食やめるように、動物愛護団体のフォアグラ禁止みたいに、環境保護団体がうったえてみればどうでしょうか?

環境問題に取り組んでるNPOで、牛肉食の禁止を捕鯨禁止みたいに声高に唱えてるところあるんでしょうか?
グリーンピースもほんとうに環境を大事に考えてるなら、同時並行で、牛肉食の禁止でもとなえればいいのに。

箸や鯨よりは、牛肉食をやめる方がたぶん、100倍以上効果がありそうに推測してます。
  

Posted by たみ家 at 23:08Comments(0)

風景の言葉 1 背景に決められる「自分」

2008年05月25日

「ほんとうの自分」って言葉を使う方がときどきいらっしゃいます。

「ほんとうの自分」っていうことは、「ほんとうでない自分」がいるってことでしょう。

じゃあ、誰かが、何かが、ほんとうの自分を出せなくしているということでしょうか?

それとも、過保護とか、過度の期待とか、いじめや虐待など、育ってきた環境が、ほんとうの自分を変えてしまったのでしょうか?


たみ家は、「ほんとうの自分」って言葉は使いません。
「ほんとうの自分」しかないと思ってるからです。
立場が弱い状況でへにゃへにゃしてるときも、「そういう状況でそうなるのが自分なんだなあ。」と思ってます。

自分より強い人や苦手な人の前でも毅然と振舞う人はいるし、言いたいことが言えない人もいる。

「強い人の前では自由に振舞えない。」それがその人のほんとうの姿なんでしょう。
その理由は、その人の中に何かあるはずです。

また、誰もいない一人の部屋でもきちんとしたかっこうをしてないと気がすまない人もいます。
態度や行動は必ずしも誰かに制限されてるってわけでもないでしょう。

「ほんとうの自分」って言葉を無自覚に使う限り、ほんとうの自分なんて見つかりようがないのでは?
もし、見つかったような気がしても、それは「ほんとうの自分」というより、周辺の環境が自分にやりやすいようになった状態でのやりやすい快適な自分ってことではないでしょうか?

コギト・エルゴ・スム

絶対的な自分から出発するって、なかなか実際には少ないと思う。

育ちや環境と自分の属性がからみあって、背景に決められて、そのときどき、選択して行動するすべてが「ほんとうの自分」であるって考える方が、正しいのではないでしょうか?

なぜ、「ほんとうの自分」って言葉に疑問を投げかけるのか?

たみ家は、実用性につながりようのないことはあまり言いません。

自分が出せないのを何かのせいにするより、それも自分と認める方が行動の責任を明らかにするし、選択するそれぞれすべてを自分だと認めることによって、周囲との関係を自覚し、より自分の考え方や判断の意味を主体的なものにするからだと考えています。

人間はどこまでいっても、周辺環境や人間関係など背景に決められた中での自分しか持ち得ないのだから、それ以外の「ほんとうの自分」って、考えてもどうなんだろうと思ったりします。

何かうまくいかないのは他人のせいなんかい?
と、人は誰しもどこかにエゴイストなとこがあるので、そう思うのは、それで自然だと思いますが、自分の考え方の傍流がそうなるのはいいけど、主流の部分がそれだったらどうだろうかと思うとこはあります。


これが環境観や経済観や国や地域などの共同体観などにもからんでくると思ってます。

自分観があるから、周辺に対する観があるわけですから、当然といえば当然かも。

この話は、けっこうウケ悪いんです。
なぜ、ウケが悪いかは、どこか、人を個の生き物としてとらえたときに、折り合いがよろしくない考えなんでしょうね。
ただ、世の中の多くの問題の大きなもので、さらに深刻なものは、個の人間と巨大化しすぎた社会のギャップからうまれているように感じてます。

背景に規定されて、その中で、主体性を交えて、形作られる自分、その一瞬一瞬がすべてほんとうである。
はて?どこが折り合いが悪くて、どこにギャップがあるのでしょうか?
なかなか短くすっきりとは書きにくいですね。
  

Posted by たみ家 at 07:54Comments(2)

こんなことがあってもええんか

2008年05月25日

ひええええっ。うちのブログの検索ワード数で
「nyanya」が「たみ家」を抜いてしまった。

こんなことがあってもええんかああっつ。

ええんです。

テレビ見た人が「nyanya 高松」とかで検索かけまくっとるなあ。

ご報告ですが、テレビ放映の翌日は、かなりお客さんが増えたそうです。
倍ぐらいは出たかとのこと。

昨日は、雨だったので、どうかと思いましたが、何らかの変化はあったようです。


さて、今日は、栗林小学校区の運動会。
できるんだろうかと思ったら、ここのブログで、どこか昨日でもやったって書いてありました。
うっそおおん。

いつの間にグラウンドの水はけって、そんなに改良されたの?

県営球場(サーパススタジアム)の近くの多目的広場とかいう手前のグラウンドでソフトボールしたときは、台風の後、雨がやんだら、10分ほどでやれるほど、水はけがよかったけど、そこはかなりテクニシャンな土の入れ方してたそうです。

昨日でできるんなら、今日はできるだろうなあ。

体協の人に呼び出されてるから行かないと。
  

Posted by たみ家 at 07:17Comments(4)

うっかりテレビにうつる

2008年05月23日

昨日、VOICE21のnyanyaのとこで、うつってしまっとった。

近所の飲食店のもんが、あんなとこでうつってどうする。

近所の人に、「見たで!」と思われまくってるだろうなあ。

何人かには、チェック入れられましたし、長いこと音信不通の人にまで、「あっ!」と思われたに違いない。


「ああ。指名手配されてなくてよかった。」


いろいろ編集が入って、切り貼りされてるんで、たみ家がなんで、手をたたいてたのか。。。かなり不審な動きをしとったなあ。


さて、テレビ取材の直後って、ほんとに人が大挙するのかな?

今から、ちょっとのぞいてきます。
  

Posted by たみ家 at 20:34Comments(2)

これは特技?

2008年05月23日

ときどき、店の作業所の板の間で、新聞をひいて仮眠する。

板の間で枕代わりに、仮眠だから何でもいいやと、たまたまそこにあったガラスのビンを一時的に枕にしてみた。

疲れてたのか、うっかり、ガラスのビンを枕に5時間ぐらい寝てました。

それから、仮眠のときはガラスのビンに直接頭を乗せて、枕にしてるんですが、それがけっこう快適なんです。

ガラスのビンを枕にするとか、それで、何時間も寝れるって、特技じゃないかもしれないけど、珍しいんでないだろうか?


最近、自転車がなくなりました。

それで、店と家の間を歩いて行ったり来たりしてます。

ちょっと急いでみたんですが、うどん業を始めてから、年に数回しか靴をはかずに、360日はサンダルを履いているので、ふと走ってみたら、サンダルが靴のように足と同化してて、「あれ?サンダルでえらい速く走れるようになったなあ。短距離走できるかはわからないけど、普通に靴はいてるときと同じ感じで、ジョギング数キロぐらいできそう。」と思いました。

庵治マラソンとか、靴はかないといけないルールってあるんだろうか?
やりませんが、サンダルで庵治マラソンとか完走してみたいなあ。

サンダルはいてる人に並走されたら、いややろうなあ。
沿道に観衆がおったら、ちょっとした仮装や裸足より、驚かれるかもなあ。
盛り上がるというより、みんな、下の方見ながら指差して、ひそひそ。。。ひそひそ。。。くすくす。。。って感じかなあ。

すごくばかばかしいけど、特技?
  

Posted by たみ家 at 05:14Comments(6)

切断してはいけないものを切る

2008年05月21日

長いつきあいの方は、オセロの話は既出かもしれませんが。

オセロって、やったことある方すごく多くないですか?

戦術で一番だいじなことって何だと思いますか?

基本的に、残り数手になるまでは、少なく取った方が勝つということです。

最後には多く取った方が勝つゲームなのに、原則、終盤までできるだけ少なく取りたいと思いながらやるゲームです。

隅を取ればいいとかいう方もいらっしゃいますが、隅を4つとも取らせてもそんなに困ることはありません。

開始から、双方あわせて、数手目ぐらいで事実上、大勢が決まって決着がつくことも多い。

将棋や囲碁と違って、オセロって、2、3手目から意味のある手を打ち続けてる人ってすごく少ないんです。


オセロは、最後まで埋まっても64石しかありません。

すると、終盤には10石ぐらい返す手はいくらでも出てくるので、打った1石と増やした10石と相手を減らした10石で、1手ですぐに21の差が縮まります。

10石以上返す手の連打なんて、終盤にはオセロではざらにあるので、64石しかないなかで、2手で40差ぐらいひっくり返せるので、いい形をつくっておけば、終盤で相手が40石で、自分が15石でも全然問題ないんです。
というより、普通、15石の側が勝ちます。

じゃあ、原則いい形ってどういう形なのか?

自分の色が①少なくて、②内側に入っていて、③色がばらばらにならずにつながっている

こうなってたら、相手に4隅あげていても、どうってことはありません。

①~③を意識してる人と意識してない人がやれば、かなりの確率でしてる側は相手をゼロにできるし、はじめからハンディで4隅あげていてもたぶん、勝てるでしょう。

たぶん、意識してる側は、4、5手目ぐらいで、「ああ終わった。もう逆転の余地はない。」と思うことも多いでしょう。

自分の色の石は返せないんです。

だから、残り10マスぐらいより前に石の多くなってる方は、相手の要求どおりの手を打ち続けることになります。

オセロって、基本的には、少なく取り続けて、相手の形や手を誘導して、自分を有利な状況にしていくゲームなんです。

それが最後が多い方が勝つゲームであることで、多くの場合、何をやったら有利になるかが意識されずにされてるゲームなんです。

オセロのことが言いたかったんでなく、

環境問題や公共投資やうどん屋の営業のことを書いたつもりです。

長いこと言われ続けているのに、なぜかうまくいってないことって、切断してはいけない関係を部分に切って、関係や構造をとらえられてない分野に多いと思います。

商売でも、人間関係でも、もっと狭くいうと恋愛でも、先に与えるからとか、与える力か何かがあるから、いろんなものが集まってくるってのも、オセロに似てるかも。

人間関係や商売のことは、多くの方が悩んだことがあったり、ゼニが動くので、昔からよく研究されてるし、気にかける方が多い。

たみ家よりも、商売や人間関係のことは、豊富なノウハウやちょっとした機微に敏感な感性を持たれてる方がとても多い。

でも、オセロでは、我先に、意味を考えずに、先に奪おうとする。
まじめにやったことある人ほとんどいませんから。

商売や恋愛や人間関係は重要であり、わがこと

オセロはどうでもいいこと。

環境問題や公共投資は、重要なことだけど、わがことでない。
たくさんの人が複雑にからんでいるからこそ、責任や関係が分散されて、わがことでなくなるので、余計に難しい。

だから、大事なのに、とても、遅れているというか、うまくいかないことが多い。
  

Posted by たみ家 at 21:11Comments(0)

スーパーの家賃

2008年05月21日

最近、街中のコインパーキングの利用料金を近隣商店が負担して、事実上、自分とこの駐車場化することの可能性について書いてきました。

うちは、利用料金の負担が売上の1割以内におさまっていればいいという基準を立ててましたが、駐車場の便益を店舗物件の便益と考えて、(家賃は売上の1割以内で合格と聞いてきてたので)駐車料金も家賃もだいたい同じという考えにもとづいています。

2、3年ほど前のTKCの資料で、うどん・そば店の粗利の平均が68.5%、家賃の平均が7.6%ぐらいってのを見たことがあります。
7.6%ってのは、自分の家で家賃がほとんどない店もそれなりにあるだろうから、家賃払ってるとこで1割って数字は妥当なとこだと思います。

ただ、うどん・そば店の粗利って、今頃は68.5%も出てないと思います。
特に、香川県のセルフ店で百円台でおさまってるとこは出てないと思います。

スーパーだと居抜きだと売上の3%ぐらい、そうでなければ、5%前後のとこが多いと、日経流通新聞に書いてあった。

物販の粗利は、3割もないだろうから、7割弱の粗利の飲食店とは、出せる家賃が違うのだろう。

たみ家は、飲食店について、家賃の「売上に対する比」って考えは持ってましたが、ほんとうは「粗利に対しての比」が大事なんでしょうね。

仕入での価格交渉力が弱く、末端にあって、価格に転嫁しにくい零細飲食店としては、インフレトレンドの中で、仕入で規模の経済を発揮するチェーン店や自家で行い家族労働力が比較的豊富な製麺所型店との競争ということを考えると、売上の1割って考えより慎重に考える必要が出てくるかもしれない。
8~9%ぐらいには抑えてないとマズイだろうか。

その考えで、中央商店街などで、物販のお店が駐車場の利用料金を負担するとしたら、売上や粗利の何%ぐらいなら負担できるんだろうか?

これがわからんと、街中でのコインパーキング利用を通じた活性化策を考えるに基本的な計算がしにくいなあ。

物販の家賃はどれぐらいでおさまってないといけないって相場は、どうでしたっけ?
  

Posted by たみ家 at 05:50Comments(0)

自転車がなくなる。

2008年05月19日

飲んで、途中のどっかに停めて、歩いて帰ったわけでもない。

というか、どこにも行ってないのに、停めてた自転車がなくなる。

まあ、いわゆるトウナンってやつですなあ。

以下、声にも出さなかったひとりごと

「ああっ。ついにとられたかあ。いや。なんとなくいつかそうなると思ったんだよね。」

「ううん。買うか。いや。これは神のお告げやろ。今まで、やせるとかレフコ行くとか、走るとか言って、結局やってないもん。
そうそう、結局、頭ではやりたいけど優先順位が低いっつうか、根ではしたくないっつうか、やるのが好きじゃないんだよね。だから、するしかない状況でしかできないのさ。はははっ。」

「そうやなあ、今日、レインボーロードのコジマ行くんだよね。歩くか。これはやせるかな。」

「そうそう、『まち歩きせよ』という神のお告げも入ってんだろうなあ。最近、仕入も合理化されて、回数の多い品目は全部、配達してくれてるから、急ぎ自転車がいるような用事はそうないね。慣れたら、手続きに、税務署や、市役所や、サンポートの労働基準監督署や常磐街の仕事プラザに行くのも苦にならんかもね。」

「ああ。ただ、暑い夏の前に手続きは済ましときたいねえ。それに、粉のついたジャージやTシャツで合間にちょっと買い物に行くときも、自転車ならじっと見られることもないけど、歩きだと、南新町や丸亀町を通るのはちょっと辛いかもなあ。」

などなど、運命を受け入れつつ、いかに適応していこうかなどと、悩みつつ、万歩計がほしいと思うたみ家でした。

万歩計って、どこで売ってるんやろ。
してる人をいっぱい見るけど、興味がなかったのもあってか、実物売ってるのまだ見たことないですねえ。
  

Posted by たみ家 at 20:43Comments(9)

高松市都市マス(素案) 駐車場の予測は?

2008年05月18日

先般、書いたとおり、5月8日の高松市都市計画マスタープラン(業界語で「都市マス」)(素案)の説明会で、

たみ家は、市当局に質問・要望しました。

「今後、20年を見据えての都市計画ということなら、20年後の社会予測を可能な限りしたうえで、策定してもらいたい。当代その分野で最高の頭脳を集めて、兆円単位の巨額を投じた瀬戸大橋の通行予測でもあれだけ外れるのだから、厳しい財政にあって、効果的な投資をするためにもある程度きちんと予測をして、その予測、ならびに市が地域や社会の将来的な方向性をどうとらえているのかについて、可能な限り重要な関連データを数値化(中央通の通行台数や自動車保有台数や中心市街地の人口など、イメージでは数百項目)して、数字の根拠も含めて、広報やHP上など何らかの形で示してもらいたい。

たみ家がなぜそこを言うか。
行政の人は各々の狭い専門分野にはそれなりに詳しいが、それ以外はまったくの素人か素人以下のことも多く、それらの専門分野を持つ関係者たちの考えが、関連を吟味されないまま雑に統括されて、広い関係のことを巨費を投じて行う

行政の大きな失敗ってかなりのものが、それかそれに根を通じることで起こってるような気がします。
予測がきちんとできてたら、大きな失敗はしないし、外れたとしても数字を出すために深く吟味してたなら、変化に対して柔軟に対応できるでしょう。

よく、予想は外れるから予想しない方が柔軟に対応できるとか言う人がいますが、それはないだろう。

考えたり、詳しい人よりもそうでない人の方がうまくいくって。。。。。ギャンブルのビギナーズラックじゃああるまいし。。。こんなとこでいう話ではないわなあ。。。

大西市長は
「将来の状況を考えてやることは大事だ。しかし、社会予測は難しい。また、今の世の中がどうなっているかや、将来の予測がどうかでなく、都市計画というのは、われわれがどうしていくのが望ましいかを考えることにある。」
という旨、回答されました。

それはそうでしょう、が、たみ家は、行政が失敗する理由の重点がそこだから、失敗の可能性の根本には細心の注意を払って、直感的に考えられたり、従来、行政内部で常識と思われた水準以上に、力をきちんと入れて下さいと言ってるわけです。

瀬戸大橋の通行台数なんかは、予想は1日3万台が実際は、1万数千台、R11でいうと、高松市の五番町交差点ぐらいと思っていたら、津田の辺りぐらいの台数になったってとこでしょうか?
これなんか、産業の空洞化や人口減少や海外旅行の廉価化のような社会の大きな流れ、四国の人口や生産力のような地域の基礎的条件に反しているから大ハズレしたのでしょう。

社会の大きな流れや地域の基礎的条件に沿わないことが成功したり、花開くなんて、ないでしょう。
だから、「どうしていくのが望ましいか」こそ、予測を入念にして予測に7割ぐらいは力を注ぐ必要があるわけです。

もっとも、正直に言えばつくれないから、だましてつくるために過大な予想を発表するってのが、ときには、政治の世界のほんとうなのかもしれません。

だから、市民もまじめに考えて、チェック入れんといかんわけです。
国も市もいつもいつも、自分の利益や立場よりも、人々のために考えてくれてるってのは、建前ではそうかもしれないけど、ほんとに期待するのは、甘えでしょう。

餃子やお菓子の工場の人が、自分の雇用や給料を犠牲にしてまで、消費者の安全や美味しさで喜んでもらいたいって気持ちを優先することをみんなに期待できないのと同じで、自分ができないレベルのことは、警察も先生も政治家も役人も、そう違うレベルの人がなってるわけないんだから、本気で期待してたら、甘えだと思います。
彼らは自分の立場が危なくならないような話では、けっこう、まじめに善人だと思いますが、見えないとこで何かを犠牲にするときは。。。。。まあ、普通以上か以下かはわかりませんが、いたって普通前後のことしか考えないでしょう。

素朴な疑問ですが

燃料高・鋼鉄など原材料高で、人口が減っていて、まとめ買いするような大家族も少なく、人口の高齢化で人々の胃も小さくなる中で、郊外のロードサイドの大型小売店舗って、20年後も隆盛を保つのでしょうか?

イオンなど大店も、サイゼリアのような郊外型店舗が多いチェーンの飲食店も、出店の街中回帰を検討していると聞きます。
このトレンドは、短期のものなのか、20年後の2028年をはさむ前後やそれ以降も続くのか?

建築物の寿命って、普通、20年より長いんだから、20年先ぐらい読めてなくて建物つくるって、個人なら住宅ローン組めんがな。

また、中心市街地やその近隣で、町工場や中小零細企業などがどんどんなくなって、土地ができればマンションが建つように、そのパターンで小さいコインパーキングが今の勢いで増え、競争原理で値下げが進めば、2、3年もすれば、中心市街地に使い勝手の良いポケットパーキングの整備なんか、地価の下落基調ともあいまって、わざわざ整備に行政が肩入れしなくても簡単にできるのではないでしょうか?

20年後には不要になるものを市民の負担も入れてつくって、現在営業しているホテルや小売店や飲食店が数年ももたずに淘汰されるような投資にならないのだろうか?そうなると、街にかかわる多くの人が負ける投資になる。
確実に勝つのは、工事関連業者だけでしょう。
内需喚起というか地域の景気対策や政治的な意図などを含めたら、たみ家に理解が届かない話なのかもしれないし、地域には新陳代謝や外からの投資も必要でしょうから、正しいのかもしれませんが、みんなで負け負けの投資にならないか気になるとこです。

個人の土地でも、少子高齢化の中で老朽化した建物をつぶして一括借上方式で、場合によっては解体費も業者持ちで、帰って来ないこどもに将来につなぎつつ、生きてる間は固定資産税の負担を減らしておこづかいを得るような選択をしたい人はどんどんでてくるでしょう。

また、インターネットショッピングやカタログ通販、テレビ通販など、店舗でないとこから、商品を購入する比率もどんどん増えてくるでしょう。

中央商店街の空き店舗は、平成2年から15年ほどの間に約3倍になったそうです。

上に書いたようなことは、それぞれ、切れ切れに、断片的にわかってる人はいると思います。

ただ、わかってる人ってほんとうに少ないんです。
たみ家もわかってるのかと言われると困ります。

誰もわからんし、わからんでしょうがないような、広範で複雑なことをやっとるわけです。
だから、「それでええんだ。しょうがない。」でなく、現実の問題に対する人の無力さについて謙虚でありたいと思います。

また、社会の予想は関連主体や不確定の条件が多すぎるけど、「ある人や勢力の意図」ってのは、割りにメッセージを受けた人にはよくわかります。
ここらも、社会のことを読めないまま、特定勢力の意図に押し切られて、外してしまうゆえんでしょうか。
社会そのものが見えなくても、言われたことのお使いはできるから、顔の見える関係の中で言われたり、わかったり、しやすいことはするということに、政治と行政の関係ではなりがちなのではないでしょうか。


「謙虚」っていう言葉は、人に対して控えたり、かしこまる以上に、現実の問題に対する無力さを感じる意味でそうありたいと思う。
  

Posted by たみ家 at 10:08Comments(2)

駐車場利用実績

2008年05月18日

5月10日からの新設駐車場(まるでうちがつくったかのような書き方)利用実績。

13台 26名 売上 8720円 値引き 700円

たみ家の予想はほぼ当たってます。
1台 700円、控えめで 600円
1台当たりの人数 2名 控えめで 1.8人

でしたから、
たみ家はたいてい、控え目の方の数字で、人には言ってました。

会計の保守主義ともいいますし。

甘い方の数字を言うと、人によっては甘ちゃん扱いされそうなので。

実は、13台中、お客さんの方から申請されたのは、たったの4台です。

路上駐車してる方に、「当店の駐車場なので(説明がめんどうなのと、後への影響が無いと思うことから、一見の方には、言い切っている。)無料になるので入れてください。」
と、こちらから誘導した場合。
で、無料になると言い切った場合には、20分を超えた滞在の方には、100円でも負担させていただきました。

近隣の他の駐車場に停めた方にも、2回ばかり、「次回からはすぐ隣に駐車場ありますので、こちらでどうぞ。」と説明しながら50円引きました。
実のとこ、南北の筋しか通らない方には、あの位置の駐車場って存在に気づかないみたいです。

また、実際に隣の駐車場に停めた方でも、この方は停めたと思うのに申請されなかった場合は、「お車を隣に停められてますか?」とこちらからうかがって引きました。

それでも、売上の1割には余裕でおさまってます。

店内に駐車料金負担の旨を書いて、2箇所貼り紙はしてますが、たぶん、申請されなかった方は他にもいらっしゃったと思います。

長時間滞在に対して100円以上引くことは全然おそれなくてもいいと思います。
その何十倍も、停めてるのに申請されない方の方が多くなると経験的にも思うので。

4台申請された方のうち、この土曜日が2台なので、申請は増えて来てる感じですし、周知が広まればまだまだ何倍も利用台数は増えると思います。
今のとこ、1日、2台いってるかどうかぐらいです。
20台はいきたいですねえ。
  

Posted by たみ家 at 09:07Comments(2)

新考案 ヤンキーフットボール♪

2008年05月15日

前記事と前々記事を引きずって、妄想的提案を

バウンドさせる球技は原則、球でないとやりにくそう。
予測がつきません。
ゴルフなんかどうやったらナイスショットになるのか、たぶん、最後は大穴かかごに、浮かせて直接入れることになりそう。

ラグビーやアメフトは例外だけど、フットボールで主に手を使って運ぶこと自体が例外だから、ええんです。
バウンドの不規則性をある程度抑えるのと、速く走れるスピード感のある競技にすることの落としどころがあの形でしょうか。

ラグビーが、フットボール中に興奮した子が手に持って走り出したのが由来で、ボールの形も例外なら

ヤンキーが授業を妨害しようとして、教師の備忘録かノートを持って、焼却炉に向かって走り出すのが由来という「ヤンキーフットボール」はどうでしょうか。
本型のものをパスしながら。。。形に角もあるし、名前の通り、格闘技のようなすごくはげしいスポーツになりそう。
愛好会や小中学生の試合は、角を丸くしま~す。

しかし、どうやって蹴るんや。

すりラーフットボールとか、どうでしょうか?
すりの人が財布を持って走って、仲間同士でパスしあって、財布には現金が入ってて、トライと同時に財布を開いて、現金の多少を競う。

3や5の倍数ごとの回をダブルポイントとかにしたら、選手交代の妙がありそうだし、主催者が各ピリオドの前に、選手と観客には秘密でダーツかルーレットでもして出た数字の回の財布にボーナスビッグポイントとかあったら、3や5の倍数で全力出すけど、どこでもそれなりに気を抜けないし、財布を開けてみる選手と観客側、両方の興奮もありそう。

まあ、蹴りにくかったら、無理に蹴らなくてもいいと思う。
財布が宙に舞うすりラーフットボールは教育に悪そうなので、アンダーグラウンド化するかもしれないけど、たぶん、おもしろいと思う。
  

Posted by たみ家 at 08:44Comments(0)

球を使わない球技

2008年05月15日

前記事で「球技は球を使う」って当たり前っぽいことを書いたら、例外が気になってくる。

ラグビーは、ラグビー校でフットボール中に興奮した子が、手に持って走り出したのが由来とか聞いたことがあるから、歴史は新しいはず。
たぶん、そっから発展したアメフトもそうだと思う。

楕円っぽい形は、脇に抱えて速く走りやすい形で、球だと走るのが難しいからだと思う。

球技が球を使う、もう一つ大きい理由は、いろんな接面に対して、球は接点が小さくいられるから、空気や地面などへの摩擦が少なく、動きにスピードや変化が出やすいからだと思う。

まあ、これが最大かもねえ。

すると、アイスホッケーやカーリングのような、地面を這わせて浮いてもらっては困るものは、球だと下の方を打ったら、浮いてしまうし、浮きすぎると落下時に氷の上だとリンクが傷むってのもあると思う。
だから円筒っぽいものを使うのだと思う。

あと、バドミントンとかインディアかのような、羽根を使うものは、滞空時間も長くしたいし、からだへの衝撃を小さくしたいのもあると思う。

大きくて軽い球はスピードが出ない、でも大きくて重いボールでスピードが出たら、巨漢で動きが速い人しかできなくなるかもしれない、その手のスポーツでは、オグシオは現れそうにない。

でも、小さくて軽いボールも、卓球のように、短距離ならスピードが出るけど、遠くには空気抵抗に勝てず、飛ばない。

で、小さくてある程度重みをつけたいのだが、見えないし、危険かもしれないし、速すぎて滞空時間が短くて競技にならないかもしれない。

そんなんで、羽根をつけるのかなあと思う。

変幻自在な転がるような動きはしないけど、バウンドしたものを打てないルールなので、それでいいんでしょう。

やる人と道具とルールが関連するってのは、万事に通じそうだし、原則と思われることに例外があれば必ず目的や意味があるってのも、万事に通じてて、けっして無いとまでは言わないけど、たまたまとか深い意味は無いってのはそうはないなあと考えさせられると思った。
  

Posted by たみ家 at 08:07Comments(2)

球技はなぜ「球」を使うのか?

2008年05月14日

誰かに聞いたわけでも、調べたわけでもなく、朝、「乗じて、積にすることが大事」という旨を書いた前記事のことをふと思い出して、店に向かう途中で考えました。

いろんな、情報や経験を足し算だけで広げっぱなしにせずに、掛け算的に乗せて立体的にしたり、高みを出して視野を広げる必要がある旨書きましたが、「掛け算の利点の1個大事なことを書き足らなかったなあ」と道すがら気になってました。

平面に広げっぱなしにするのと違って、立体的に積んだ立方体・キューブは、中心から離れすぎたところが比較的少なくなるので統制が取りやすく、無駄の少ない資源投入がしやすい。

余談ですが、英語で2乗するのをスクエアするとか、3乗するのをキューブするといいますが、こういう感覚は好きです。
2 cubed is 8.  2を3乗すると8.  みたいに。
それにしても、英語はペンタゴンとかヘキサゴンとかマーチとかジュライとか、単純に、数を頭につけてくれないから覚えるのが面倒ですね。

さて
近隣で、大型店ができたり、ごっそり番町周辺や区画整理された地域などにオフィスが移転した場合などの立地の周辺状況の変化に対するリスクをもろに受けた場合に移転資金の千万単位のお金が出せるかというテーマについて、基本線で早いうちに多店舗化の目鼻をつけておきたいたみ家に対し、某ご意見番の方が、「現実的には1店舗での繁栄を狙う方がうまくいくのではないか」とおっしゃるのは、ここら辺の理屈ではないでしょうか。

すると、「理論上、究極に中心から遠いとこが少ない立体は、球になるなあ」と思い浮かびました。

たぶん。。。球は、各点の中心からの距離の2乗の総和が最小になると思った。

たぶん。。。球は、各点同士の距離の2乗も最小でないかと思った。

ということは、経営者から見て統制が取りやすく、リスクが少ない。

構成するものの分散や標準偏差が最小で、それぞれの結びつきの密度も均質に高いということであれば、弱点が少なく、外からの衝撃にも強いんではないだろうか。。。など栗林町の家から高徳線の高架の手前に差し掛かったとこで、「ははああん。だから球技って、球を使うのか。分散最小にして、結合が均質・強固で外からの衝撃に強い。だから蹴ったり、打ったり、投げつけたりできるんだなあ。どの面もなめらかで、人体に当たったときに角がなくてやさしいのもあるし、どの面も同じ条件だからルールを整えやすいってのもあるだろうけど、外からの衝撃に強い構造ってのは大きいだろうなあ。」

「ううん。4/3πr3乗かあ。身の上に心配ある身とか、昔言ってたけど、それをしたら、理論上、統制が取りやすく、内も外からの面も均質でソフトで、外からの衝撃に強い組織ができたり、蹴っても叩いても壊れないボールができたりするのかもなあ。」

「だから、球技って、球を使うのか。羽根を使うのは、滞空時間を長くして、やりたいルールと現実の人間の反射神経の限界の調整をとるためとか、球以外もあるけど、何か都合が悪いから、形で調整してるのかなあ。ふむふむ。」

とか思いながら、店までたどり着きました。

ここら辺りは、全部頭の体操というかお遊びで、経営論でも何でもないんですが

実際のとこ組織が球にはなりませんわなあ。

建物建てるのには下を固めんといかんのに似て、いろいろ経験をしたり実績ができて底辺が広がって、はじめて上に積んでいけるから、ビル型かピラミッド型か円錐型みたいにしかならんわなあ。

よく、皿が広くないと料理は盛り付けられませんって例えに似てるかなあ。

皿を広げっぱなしってのではいかんだろうけど。
ここは限界効用逓減の法則が出てくるかもなあ。

また、あえて無理して、4次元以上のことを言い出すと、時間との制約ってのがあって、短期に仕事を仕上げる話や長期の大きい計画と自分の人生の設計図を照らし合わせるような話が出てくるのかなあ。
  

Posted by たみ家 at 22:54Comments(0)

加減乗除

2008年05月13日

小学校の何年のときかの算数で初めて、四則演算の「加減乗除」や
答えの方の「和」、「差」、「積」、「商」を聞いたときに、「加減」と「差」しかピンと来ませんでした。

当時、「和」は和式トイレの和か、平和の和ぐらいしか意味を知らないので、「足したら日本、足したら平和。意味わからん。」

「のびたのものはオレのもの。オレのものはオレのもの。」
確かに、2人のものを足したら、ジャイアンには平和かもしれないけど、そういうことではないだろう。
今は、足し算の答えが「和」になるのはまったくわからんではないけど、しっくりきてるとまでは言えない。

今は、「乗」と「積」はすごくしっくり。
ほんの最近になって、心にしみわたるぐらいしっくり。

色々な知識や人脈やお金や努力があっても、加算だけでは、成功はしない。
乗せて、積んで、掛け算関係になってるとこがないと。
乗せていくには、きれいに乗せないと、次を積めないし、広げるだけでなく、乗せて積んで高くなるから、立体化するし、視野も開けるってありそう。

「足し算だけではいかん、掛け算関係になるようにしていかんといかんなあ。」と、商売始めて、身につまされまくって、「ああ、乗せたら積やなあ。加えるばかりじゃなく、きれいに乗せるようにしないと。駐車場ができたのをちゃんと活かさないと、せっかく本や冊子にどんどん載せてもらったのも、ちゃんと店を整えて、人員体制を整備したり、設備を更新して、メニューなども考えて備えないと、掛け算にならん。」
など思うこの頃です。

やっぱり、商売がうまくいってる人は意識してるかどうかはともかく、どっかで掛け算関係が発生した人だと思う。

能力、意欲、時宜、人柄、仲間、対象の性質、戦略など、いろんなものが掛け算掛け算で連なっていくから、兆円単位の企業がたくさんあるんだろう。
いかに、古い会社でも足し算ばっかりでは、そこまではいかんだろうなあ。

そして、「少数の勝者に対して、多数の敗者」という一般的構図は、大雑把に言えば、「掛け算がうまくいかなかった多数と掛け算がうまくできた少数」ということではないのだろうか?

さて
いまだに、割り算を「除」っていうのが、よくわかならい。
答えが「商」っていうのもわけがわからん。
昔の商売だったら、売上の足し算の結果の方がよっぽど「商」に近いような気もしますが。
  

Posted by たみ家 at 19:55Comments(0)

国境と競争

2008年05月13日

たみ家は、かっこつけるわけでも何でもなく、国境ってあまり意識してない。

実際に、インターネットや環境問題、疫病、経済的取引など、自分にとって身近だったり、危険なものほど、国境が関係なく、原油高や需要増や異常気象など国外の事情に、左右されてて、国境が問題になる場面の方が逆に少ないとさえ思うことがある。

自分に関係がある地理的枠組みといえば商圏・近所か、世界かがあって、人情的には、次に香川・高松ときて、日本って枠組みは3~5番目だなあと思う。
四国をどこに入れようか。

教育についてよく、過剰競争とか過当競争をあおるのは良くないという、言い方ががある。

「過」は良くないと思うが、「過」は主観で左右されるし、必要性でも違うし、する側の納得性でもかなり変わる。

「過」は良くないのだが、高いレベルのものを「過」でなくする方法は、今の私たちの置かれてる立場からすると必要だと思うし、それはできると思う。

また、競争によらずに、一律に、工夫して、もっと楽しく楽して効果をあげる方法もいくらでもあると思う。

理想は、個人間の競争意識を駆り立てずに、レベルを高めて、格差も小さくすることができればいいんでしょうね。
たみ家はそれもできることだと思ってますが。

それはさておいて、競争自体は、国境の中でしているものではないと思う。
うちでさえも、直接ライバルはいないが、仕入や燃料などの問題もあるし、コンビニには輸入品の競合商品がたくさんあるかもしれない。
また、最近は、外国人がパートの面接に来るようにもなった。

国境というものに意味があまりないと思えば、何が必要か考え方が変わるかもしれないし、あまり変わらなかったとしても、方法論が違ってきはしないだろうか。
  

Posted by たみ家 at 08:39Comments(0)