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Posted by あしたさぬき.JP at

ウォシュレットマップ

2009年01月27日

今日は、書きたいことが多すぎて、何を書こうか迷う。

レバレッジは途中にできんけど
また後日

ペンペンさんや自由席さんが来てくださっていいこともあったし。

事業全体でいい影響の事があったし、短期的にうどん店の売上も昨日今日は良かったし。

今日も、日経ビジネスがらみで

さて、ウォシュレットのあるトイレを備えたホテルやレストランを、それがないと困る人のためにUDの一環としても、地域の観光マップに入れ込んだらどうかと5年ほど前に、県の政策関係に提案したことがあった。

たみ家は、勤め時代の当時まあまあ自信あったが、あまり反応が良くなかった。


しかあああし

アメリカや中国の観光都市には、ウォシュレットのあるホテルだけを紹介した地図が出回ってるとこがあって、観光客からすごく喜ばれてるそうです。

日本だとノズルを知らない人と共有するのが嫌って人も多いかも知れない。
しかし、UD的な意味で、広めるべきだと思っていた。
それを人に優しい施設として公共が紹介しながら、ホテルなどに設置を誘引することができれば、公共の出費は版が変わる際に、既存のマップに設置マークを追加してそれに代えるだけでも良いのだから、費用対効果は抜群にいいのにねと思った。
少なくともやって悪いことは一切ない。

洋式をウォシュレット設置にどんどん変えていくことは、UDにもいい、外国客に喜ばれる、新しいTOTOなどのトイレは節水機能が抜群なので、流す水が昔のが1回20リットルなら、最新のは4、5リットルできちんと流せる。

5年前のたみ家の提案が

観光立国
UD
節水
内需拡大
(トイレの技術は日本が抜群なので)輸出拡大

今の世の中のテーマにすごくからんでるでしょ。
って当時の人にわかってほしいね。
しかも、費用が極少で、しかも補助金などなくても、一流を自負してるホテルやレストランならつけないと名折れなので、つけることを誘引している。

実際に、アメリカ西部や中国北部などはすごく水不足がひどくなってきたので、それまでTOTOさんがPRしてもダメだったのが、ブレークするようになって来たらしい。

快適で清潔で環境に良く人にやさしい、こういうもので日本は世界を魅了していかんとなあと日経ビジネスは言ってたような。
  

Posted by たみ家 at 23:15Comments(3)

レバレッジ 1

2009年01月25日

なんで、ここんとこずっと増収増益だったとこが急に倒産するのかと頭をめぐらせていた。

ずっと成長成長で、毎年儲かって儲かってでも、1年だめなら即倒産。

たみ家は商売をする前なら、まったく理解できなかったと思う。


ここ大雑把にいえば

負債が大きいほど利益が大きく、負債が大きいところしか儲からないから、経済全体が負債の大きさ競争になってしまっていたからではないだろうか。

もちろん、たまには例外っぽいとこもあるけど、負債を大きくできる人しか儲けることができないってのは、大筋ほんとではあるだろう。

同程度の能力なら、絶対に負債を大きくした方が勝つ。

たまに負債が小さい人で儲けてる人もいますが、その人は小さくても儲けることができただけの話。


この負債ってのは、借金の話だけではありません。

賃借で不動産を利用したり、人の労働力などを固定費化することも他人資本の負債化と同じようなもの。

ってことは、大きな工場を建てるなど大きな不動産を利用したり、たくさんの人を雇用したとこしか普通の事業は儲からないのは常識ですよね。

さて、このレバレッジなる言葉、ここんとこ、ブログのネタにしようと2人の方にお話しましたが、どう表現したものか。
  

Posted by たみ家 at 17:23Comments(2)

庵治 空き家見回り隊

2009年01月25日

今日、ちょい悪親父さんと笑っこさん達と活動してきました。

見所が多かったですねえ。

活動とは直接関係ありませんが、庵治は同程度の人口の地域に比べて大きな家が多いと感じました。
同じ程度の農村と比べると、農だけでなく、漁、石と産業が豊富だっただけのことはあると思いました。

帰りに気になって、たこ焼き準備前に、寄り道で、初の大木戸。

参考になりました。

出汁、揚げ物の持ち帰りをお断りしていることと、玉売りは予約のみとしているとこは、なるほどと思いました。

実際、サービスとしてやってるとこは多いけど、玉売りは予約じゃなかったら売れるだけ赤字が出る店が多いはず。

玉売りは廃止した方がいいのか、やった方がいいのか、これは店の事情だろうなあ。

ラーメン屋で玉売りするのもうどん屋で玉売りするのも似てるけど、ラーメン屋はまず玉売りしないからなあ。
多くのうどん店は、製麺所よりもラーメン屋に近い構造で店をやっていると思うから、玉売りはしにくい店が多いだろう。
  

Posted by たみ家 at 16:44Comments(2)

「ゆとり」はたくさん本を読む

2009年01月23日

たみ家はテレビ見てないから、いろんな世間の常識や流行は、新聞か「あしたさぬき」の人のブログ上の話題で仕入れることが多い。

テレビではよく話題になってるけど、新聞やブログ上で話題になってないことは、まるで欠落することがある。

たみ家は、新聞で見て意外に思って「へえっ」って思ったけど、「これって、テレビ見てる人からすると常識なの?」
とも思ったことなんですが

いわゆる「ゆとり教育」下で育った20歳以下の人達は、たくさん本を読むそうです。
自分らの世代が学力が低いと言われ続けて育っているから、本を読んでないと不安でしょうがないと思う人が多いそうです。
「若者の活字離れ」とか言いますが、新聞の調査で、30代で本をよく読む人が1割ほどしかいない中で、ゆとりの人は3割だから、これらをどう評価するかは、かなり考えを要するところだと思います。
活字離れって、ほんとのところは30代、40代で一番激しく起こってるのでは?

昔から、先入観的に「インターネットに接続する人なんか若者が多い。」とか「2chに書き込みするような人は若者が多い。」とよく日常会話の中で聞かされてきました。

しかし、実際に2chに書き込みする人の年齢は、20代よりも40代ぐらいが平均像で、50代も20代に負けずに多かったと思う。

ブログでも、たみ家は、「あしたさぬき」ブロガーの方に60人以上、それ以外のうどんブログなどの方にも数十人計100名ぐらいのブロガーの方にお会いしましたが、20代の方って、2人ぐらいしかいませんでした。
10代にいたってはゼロです。
たみ家が100人近くお会いして、たぶん一番多かったのは50代の方だと思います。

「あしたさぬき」を見ていても、10代と思われる方は、ゼロです。
はっきり20代だと知っているのは、きゃんべるさんとお会いしたことのないカズキングさんだけです。
あと、5人ぐらい、てらきちさんや、るいまま組の方の中に、その他にそうだろうと思う方がいますが、はっきりはよくわかりません。

たみ家推定。
「あしたさぬき」ブロガーの平均年齢 45歳前後じゃないでしょうか。

そこまではいってないと思うけど、49ぐらいいってても、「ウソー」とは思わんなあ。
むしろ43ぐらいの方が、「ウソーそんなに若い?」って思う。

35歳以下と思った人でさえ、1割もいるかいないかでしたから。
しかし、直にお会いしたブロガーの方で65歳以上と思った方もいません。

20代よりは60代が圧倒的に多くありませんか?
10代よりは、70代以上の方が多くありませんか?

日常会話で、常識のように語られていることは半分ぐらいウソだと思う。
そして、たみ家はテレビで語られる常識は、まったく知らない。

さて、常識をどうやって形成していこうか。

やっぱり疑って、ほんとに数えてみることが大事。
たみ家の推定も大間違いかもしれないし。
  

Posted by たみ家 at 03:34Comments(0)

算数と雑学が世界を平和にする?

2009年01月22日

たみ家は、商売人ぽい考え方になったと思うことの1つに

レンタルビデオ屋で
「水曜日 アダルト 半額 火曜日木曜日 旧作 半額」
とか書いてあったら

「その日行ったら得だなあ」とかじゃなくて

「ああ、火曜日~木曜日に客が少ないから来て欲しいのね たぶん困ってるのね。でも、どうして、アダルトが週1で、旧作が週2?本数、返却期間、客層、利益率などいろいろあるけど、得するように仕組んでるはずだから、何がどうなってるんだろうね?火曜日に借りて1週間でも、1泊2日でも2泊3日でももう一回、お客が少ない日に来るわけだなあ。アダルトと旧作で客層ってどう違うんだろうね。」みたいなことしか考えなくなった。
正解かどうかはまったくわからないけど。

で、
「じゃあ、うちがレンタルビデオ屋さんとコラボってできん?客が少なくて、わざわざそこを何とかしたいんだって店先に書いてあるんだから、して欲しいことをこっちが考えて、こっちも得するいい話を持っていける可能性はあるだろう。」
とか考える。

相手が得することを考えて持って行かないと、協力は取りにくい。
だから、他人の営業のことを理解できる素養がいる。
だから、自分のこと以外にいろいろアンテナがないといけない。
「両方得する話で、ビデオ屋にうどん屋が喜ぶ話を持っていくとしたら、それは何だろう?」

「そして、うちが値引きするのと、向こうの店で広告してもらうのの損益はどうなの?」って性質の違うものの比較の大まかな計算もすぐにできないといけない。
暗算ですぐにできるぐらい低ストレスでやらないと、何も本格的な話じゃないんだからわざわざ書いてたんでは、習慣的に考えるにはいたらんと思う。
たみ家は、店で作業中に暗算でやってるから習慣になるけど、手を止めて筆算したり、計算機使ったのではやらないし、低ストレスにならないから、そういうことが好きにならないと思う。

計算と雑学というか幅広い関心がない人の話は
すぐにゼロサムになりやすい。
つまり
他人の得する話は、自分が損する話。
別の言い方をすれば
奪い合い

もちろん奪い合いが悪いってわけではない。
しかし、それは、既存の枠組みを超えて、全体を発展させるという意味では足りない。
自分が得する話で、他人も得する話を考えようと思ったら、計算しまくらないといけない。

たみ家は
昔からお店とかやってる人と話してると、ゼロサム型の思考をする人がやたら多いと感じる。
世の中が成長してるときはそれでも良かったのかもしれない。

ウィンウィンの話をどんどん考えて持っていけるような人って、なかなか少ないなあと感じる。

たみ家はそこには、雑学と暗算力ってのは重要なカギになるような気がしている。
  

Posted by たみ家 at 06:21Comments(2)

みんな知ってる

2009年01月22日

①みんなが知ってる

②みんなが知ってることをみんなが知ってる

③みんなが知ってることをみんなが知ってる ということをみんなが知ってる

「儀式は何の役に立つか」っていうような名前の本の書評で、このようなことの違いが大事って書いてあったのがすごく印象に残っている。
本自体はまったく読んでない。

山越さんとかに多くの人が行くのは、③になってるからだと思うことがある。
いろんな流行には、③が関係してると思うし
テレビ媒体の広告が、他の媒体のものに差をつけるのは、③になりやすいってことはあると思う。

もし、日本の普通の民放のチャンネルが、アメリカみたいにたくさんあったら、同じようなことが起こるんだろうか?


「ダイエットカフェ公園通り」や「たこ焼き てつお」に、来る人に、もともとの知り合いよりも、ブロガーの率が高いのは、ブロガーが情報発信型の積極派が多くて、記事にするって動機があるってのもあると思うけど、

誰かが知ってることを知ってる ということを知ってる

たとえば、自由席さんが知ってるってことを、るいままさんが知ってるってことを、ペンペンさんが知ってる
って段階にすぐにいたる。

このことの意味は、大事だし、いろんな領域に関係してると思うので、折りにふれ考えていきたい。

ブロガーで無料券を渡した人で、「ダイエットカフェ公園通り」に行った人の率は、10割に近い。

しかし、たみ家がそれ以外で渡した人では、どんなに近くに住んでいようが近くに勤めていようが親しかろうが付き合い長かろうが1人も来てない。
たみ家の人徳がないんかも知れんけど、人徳がないこと自体はブロガーとしての付き合いでも変わらんはずやから、それは関係ないやろ。

「シナジー」といわれる概念の重要な一部かと思われる「未利用資源の発見と活用」と「掛算的進化」みたいなことをテーマに、何となく妄想していたが、こういうことに自分の今までのレベルを完全に越えて、きちんと決着をつけにいく意味でも、もっと勉強したいと思う。
  

Posted by たみ家 at 06:00Comments(0)

好きなものがなかった

2009年01月21日

前も書いたことがあるけど

たみ家は、趣味がない。

多趣味に思われることが多いけど、特に好きなものがないので、いろんなことをやっただけかも。

高校までは趣味があると思っていた。
好き嫌いがはっきりしてて、好きなものしかやらないタイプだと思っていた。

しかし勤めに入って思った。

好きなものなんかなかったんだ。
努力して成長することや成長を通じて今まで見たことのない領域を見ることが好きだったんだ。

だから、ただの趣味としてのんびりと学生時代よりも少ない練習時間で低いレベルで本気で試合やそれに向けての準備に取り組めない状態でやるのは、退屈でしかなかった。

新しいものが見たかったり、成長したいなら、高校の部活と違って、社会人はいろんなことを自分のペースで取り組めるので、苦手でとても取り組もうと思えなかったものや、やったことないようなことばかり選んでするようになった。

きちんとした教え手がいて、ある程度の時間をかけてやったら、何でもおもしろいというかおもしろいと思えるようになった。
自分の人生で、1番、2番、3番目に苦手だと思って毛嫌いしてたものが、全部、けっして上手なわけでないけど、苦手意識がなくなっておもしろいと思うようになってからは、それより苦手なものはないんだから、どんなものでも、全部おもしろくなれる。おもしろくないものなど世の中にないと思い込めるようになってきた。

そうすると
自分には、好きも嫌いもない。
苦手も得意もない。

事実、もともと得意なものは、長くやってなくてもそれなりにやれて、もともと苦手なものは長くやらないと全然ダメダメになった。
しかし、苦手なものばかり最近まじめにやってて、学生時代にやってたことは極力さけてきたので、ほんとに苦手なことと得意なことが、ある時点ではほんとに同じぐらいになってしまった。

また、新しいことや苦手なことに取り組んでるときは、常に周囲が先生なので、謙虚な気持ちで取り組みやすいのが人間関係的に良かった。
自分が教える側にまわったり、諸先輩よりも上手だったりしたら、若輩ものとして居心地が悪いこともあったから、できるだけ苦手なことをしたかった。

じゃあ、好きも嫌いもなければ、得意も苦手もない。
それで、すべてのことはおもしろい。
おもしろくないことなどどこにもない。
と思えたら

じゃあ、どうせなら、人の役に立つことを好きになろうと思うようになった。
それまで、あまり好きで勉強した意識はなかったけど、好きになろう。

それで26歳ぐらいから、勉強を何よりも好きになることに決めた。

実際には、遊んでた時間が長かったけど。

しかし、合コンしようが、スキーに行こうが、テニスをしようが、楽しいけど、それが人の役に立つ喜びや長い成長につながってる実感などなかった。
だだの点だった。

しかし、勉強はそれ自体が楽しいし、人の役に立ったり、広い世の中とつながってる感覚を与えてくれ、長期の成長に結びつく立体的な最高の充実感をもたらした。

学生時代にあれほど熱心に取り組んだスポーツが、エロビデオだとしたら
勉強は、最愛の人。
ぐらいの充実感の差を感じた。

でもやっぱり好きなものはないのかもしれない。
勉強が好きなんでなく

人の役に立ってる感、成長してる感、広い世界とつながってる感が好きなんだと思う。

勉強は、自分のペースでやれる。
1人でもやれる。
起きてる時間のほとんどを使おうと思えば使える。
コートやグラウンドはいらないし、筋肉の衰えや怪我でできなくなるような危険も少ない。
少々歳食ってもやれる。
涼しい部屋でおやつ横にしたり、快適な環境を整えてやれる。
しかも、スポーツや恋愛と違って、敵が邪魔したり、合意に達せずとかいうのがないので、やったらやっただけ上手くいくものの最たるものが勉強。
そして、複雑多岐にわたって関連分野ややるべきことに際限がない。

おもしろいことの条件がすべてそろってない?

何よりも、フランシス・ベーコンの「知は力なり」じゃないけど、勉強は、必ず自分のためにもなるし、他人の問題を解決させる力にもなる。
やさしさなんて、解決できる力がなければ、思っても、それを実現させられないじゃない。
そういうことで悔しい思いとかしたことがあると、「やっぱ勉強ってやさしさだなあ」とか思うこともある。
  

Posted by たみ家 at 23:13Comments(0)

数学を学びたい

2009年01月21日

3年とか5年とか、
誰とも会わなくてもいい。
他に何もしたくない。
メシもトイレも風呂も全部いらないという気分で

毎日、毎日、朝起きて、寝るまで他に何もない部屋で
同じ姿勢に疲れたらちょっと散歩や体操して

ずっと数学に取り組んで、自分の行ける最高の高みに到達してみたい。

とか、今、魔が差したように、いい歳こいてそんなこと思いました。

たみ家は、文系で、数Ⅰまでしかやってなくて、空間ベクトルとか、基礎解析とか、履修したけどどうでもいい人間になってました。
数学ができない、または数学を知らない人間です。

まあ、知ってる範囲の算数を実生活の中で手早く組み合わせたり応用するのは苦手じゃないと思うけど、数学を知らない。

文系法学部出で、学校の勉強を高一から完全に投げてて、数学してないので、ちょっとまとまった時間を集中投下して軌道に乗せる時間がいるだろうけど、そこを越えたらたぶん、たみ家は一気にぐんぐん行くと思う。

なぜ、数学なのか

自分が今の世の中の問題意識に対して、最高の貢献をするとしたら

・ダイレクトに自分で新しい商品をどんどんつくり出していくか
・様々な分野のつなげたらいいけどつながってないものを良い形でつなげていくか
・社会学分野で、地域振興に関する理論で、前人未到の領域を目指すか

この辺りだと思う。

今のあり方がけっして悪いわけじゃないし、気分もいい。

しかし、今ある問題意識を打開するような決定力を持つためには、地の頭をはるかに高いレベルにビルトアップしなければ、難しいよなあ。

高松から移住したくないので、香川大学の工学部とか選択肢になるのかもしれないけど、現実に受験とか入学とかできるのだろうか?

とにかく、ものづくりのセンスと、数学的素養を高めたい。
そして、そういう分野に強い人達の話を高いレベルで理解できる人間になりたい。
限界や極限に挑戦したい。

英語で工学や数学の世界に発信できる論文を書きたい。

この衝動はときどきとても強くなることがある。

世の中には人を使って、いろんなことを実現してる人がいるけど、たみ家は、自分の中に決定力を持てるようになりたい。
  

Posted by たみ家 at 22:24Comments(0)

記憶に残る聞き間違い

2009年01月21日

ある人から聞いた話ですが

ある日、大学時代、夏の昼間っから、半同棲してたカノジョと情事の後、何をするでもなく、布団の上でゴロゴロしていた。

貧乏だったのか、そこにはエアコンもなかった。

男が、布団が暑苦しく思い、「邪魔や」と叫んだ。

女は「何が?」と聞いた。

そして、男は、「布団や!」と言って、布団を足ではねのけた。

すると、女は、しばらく無言になり、小さな嗚咽をもらしはじめ、声を上げずに泣き始めた。

男は、なぜ女が泣くのか見当もつかない。

男はあわてて
「何?どうしたん?何?」と聞き返す。

女は、「帰る。もうここには来ん。痩せるまで え。ちもせん。」
と言って帰ろうとする。

男「意味がわからん。なんで痩せる話なんやっ!」

女、涙声で「だって太いって言った!」



どうも
布団が邪魔だったのを、私が太ってるから布団が狭くて暑苦しいと言ったと思ったらしい。

「布団や!」が「太いんや!」に聞こえたそうです。

その後、どうなったのか、よくわかりませんが

ふと、コンプレックスを前記事で話題にしたので、思い出しました。

カノジョは、ちょうど太り始めた時期で、そのことをかなり気にしてたから、そんなことになったらしいです。

コンプレックス恐るべし。

未だに、聞き間違いネタで、こんなに記憶に残ってるのはないなあ。
  

Posted by たみ家 at 00:55Comments(0)

コンプレックス

2009年01月21日

「ユング心理学」(放送大学教授 大場登著)って本が家にいつの間にかあった。

たみ家は買ってない。

他の人が買って、置いてあった。

ユングって、聞いたことはあるけど、20世紀の心理学者ってぐらいの知識しかない。


前から日本では、「コンプレックス=劣等感」みたいに扱うけど、劣等感は、いろんなコンプレックスのうちの1つで、マザーコンプレックスとか、濃密でうまくいってるような関係でもコンプレックスは生じる。
劣等感じゃなくても、ケンカや離婚や死別、そのほか様々な苦労ごとでも生じる。
トラウマもコンプレックスができる1つの要因ではあるけど、必ずしもトラウマがいるというわけでもない。

たみ家も、コンプレックスを劣等感と訳すことは誤りで、これは正さないと、コンプレックスをテーマにまともな議論ができんと思っていた。

パラパラと読んでみると
「コンプレックス」とは感情のコントロールが効かなくなるような心理的渦みたいなものらしい。

そのことになると、その人が通常行うような域を超えて、過大反応をする。

そして、その過大反応がさらなる葛藤や軋轢を通じて、傷を大きくし、渦が大きくなる。

コンプレックスがあると、それを大きくするような外的要因を引き込みやすいので、心理的渦にエネルギーが供給され続け、巨大な台風化することがある。

心理的渦は飛行機が飛んでるときの乱気流のようなもので、普段は平穏でもその渦に巻き込まれると機体が不安定になるように、何かその要因に遭遇すると対人関係の中などで言動や心が不安定になる。

誰かが熱弁したり、妙に力入れてしゃべることには、たぶんコンプレックスがあるんだろうな。
これは、間違いなさそう。

そうすると、対人関係の中で、いろいろ見えてくるものはありそうだし。

おぜにさんの種にもなるのかもね。


確かに、たみ家の場合も熱弁したり過大反応することには、たいていコンプレックスがくっついてるな。
しかし、必ずしも、劣等感から来るってわけではない。
うまく行ってて好き過ぎることからも来るし。
劣等感と関係ないジレンマみたいなことから来ることもある。
劣等感というより、苦労したなあと思うことから来ることが多いかな。
何かうまくいってないまたはいかなかった要因があることが多いが、それは劣等感のときもあれば、それ以外のことも多いと思う。

わかって欲しかったのに、わかってもらえなかったとか
協力して欲しいと思ったときに、思ったより協力者が集まらなくて、うまくいかなかった記憶。
こんなんはあるかな。

わかってもらえなかった思いがあるから、そのことで何かうまくいかなかったから、言葉が多くなるってのはある。

そう思うと、地域を良くすることに必死になるなんてのは、コンプレックス増やすな。

わかってもらえんことも多い。
そもそも自分の立ち位置さえわかってもらうのに時間がかかる。
協力集まらんことも多い。
自分のことだけするなら葛藤の場も少ないが、地域や社会のこととなると葛藤のネタが無限にある。
しかも、自分のことじゃないから、コントロール不能なことが多いから、解消がしにくいことも多々ある。

そりゃ、そういうもんだろって気もする。
かなりの部分は自分の不徳の致すとこって気もする。

コンプレックスかあ。
それも悪かあないかもな。
  

Posted by たみ家 at 00:15Comments(0)

遡上経営 業務スーパー ブラトップ うどん たこ焼き

2009年01月17日

服の小売では、ユニクロさんが1人勝ちだという。

イオンさんは、PBのトップバリュをNB化しようとしてるとか聞いたことがある。

売るってことだけでは付加価値が小さいので、メーカーもやらないとしんどいと。

原材料をつくることから最終消費までの流れを、売るってことだけではやっていけないとか、機動的に品揃えしたいからとか、さかのぼってやることを増やして行こうとするのを「遡上経営」というらしい。

業務スーパーを全国に展開する神戸物産さんなんかは、エジプトのナイル河畔の広大な国有地をエジプト政府から買い上げて灌漑施設をつくって、自社農地にするなど原材料づくりまでどんどんやることで低価格を実現しているらしい。


ユニクロさんが自社でつくって売ってる「ブラトップ」って、ブラのカップが、キャミソールかなんか知らんけど服の裏にくっついてるのが売れてるらしい。
ユニクロさんの中でも3年ぐらい前からけっこう売れてたらしいのだが、下着としての位置づけで販売してたがあまり注目されてなかったらしい。
それが、お客さんの声で高い評価を集めてから、大々的に押していくようにしたら大ヒット商品になったらしい。
きつく寄せて上げる下着が多い中で、「楽に着たいんです。」という声が多く聞かれるようになってきたのだという。

あれは、ユニクロさん以外が真似しようとしてもつくりにくいものらしい。

服づくりと下着づくりのノウハウを両方持ってるところがほとんどない。
例えば、トリンプさんとかワコールさんとかは、服をようつくらんかも。

またブラのカップサイズを細かく取り揃えて、服の色もいろいろ用意して、かつ、下着とカップを縫い付けるという手間な、高コスト構造の商品を低価格で実現できるのは、全国に700店の販売網を持つユニクロさんの規模がないとできないらしい。


うどん店はどうか

小麦粉からうどんをつくって、メーカーをやってる。

もちろん、小売もやってるが

外食だから、サービスもやってる。

一箇所で、メーカー、小売、サービス業までのラインをこなしてる。

農家もやってて、野菜とか自分でつくってたら、さらに遡上してるし、製粉会社さんなんかがうどん屋やって粉づくりからやってたら、メーカーとしてはさらに溯上してる。
まあ、農業や製粉の方が一般的に土地や設備が大きいので、遡上でなく、それらが川下りして、うどん屋を始めるってパターンでしょうが、ラインを長く占めてることには変わりない。

メーカーとしての付加価値づくりまでやってるから、あんな小さくて非能率な構造のうどん店がやれてる。

かけ100円台では、家賃の有無などによってサービス業としての付加価値を出せてるかどうかの別れ目になる。
うちなんかは、サービス業としての部分を出せてない。

また、天ぷらや惣菜などに、外注のものがあると、そこはメーカーとしての付加価値が出せてないことになるので粗利はたいへん薄いものになる。

メーカー、小売、サービスをほぼ全品目でやれて、それぞれの付加価値を充分に出せてたらけっこううどん屋も儲かるかもね。
しかし、これはかなり豊富な労働力を要するし、小さな個人店舗としては設備投資が大きい。

ほんと小さな家族だけでやる店でもうどん屋の開業費は、準備期間の生活費なども合わせたら、全部設備や道具が残ってるような居抜きでも800万、たいていは2000万ぐらいかかる。

本やコンサルが「300万で」とか言っても、それは気軽に開業させようというウソで、どんなに完全に設備が残ってても、800万はかかると思っておいた方がいい。

野球のイチローでないけど、最高の成功例を探せば、そりゃあ200万でも100万でも例はあるだろうけど、300万だと思って800万だったら頼る人がいなければ、破産とかホームレスだから、最高条件の居抜きでも800万はかかるものと思っておきましょう。

家族労働力が多いか資金が豊富かでないと、なかなかやれん。


たこ焼きも、あれはあれで、メーカーと小売とサービスを一箇所でこなしてるといえる。
あれは、ほんまに祭りの屋台見たらわかるように、設備費だけなら30万で開業できるのはあながちウソではないな。
もちろん、賃貸なら、保証金とかいるから、100万はいるでしょうが。

これに、売上から生活費が出るまでの生活資金入れたら、やっぱり数百万はいるでしょうけどね。
生活費他から得てて、自分の家でやるなら、30万はウソでないな。


しかし、低投資といっても、たこ焼きは売れんとこはとことん売れんのはわかる。

また、注文聞いてから焼き始めて売ったのでは、売上をローソンバイトした方がマシという程度の利益を出すのが難しいかもしれないし、どうせ待つからとまたお客さん離れを起こすかもしれない。

焼いて保温して、時間が一定以上経ったら捨てるという方針なら、焼いたものの7、8割方捨てることだって場合によっては覚悟した方がいいかもしれない。
しかし、田舎に行ったら、それでも売り切ることを優先するとこが多いから、たみ家をして、「高松の飲食業の中で、たこ焼きが最も。。。。。(書かない。)」とか「無料でもいらない。一皿食べるのが苦痛だったよ。」と言わせた店が多かったゆえんかも。

7割捨てることを覚悟するぐらいなら、価格を下げて原材料を良くするか、おぜにさんかけてでも上手に広報するか、何が何でも評判をとっていった方がいいかもね。
その辺の感覚がまだつかみきれない。

たこ焼きは、少人数かつ短い労働時間で、工場、小売店、サービスショップの三つを同時にこなせる業態だけに、その特性を活かせるようにしたいね。
  

Posted by たみ家 at 06:34Comments(4)

事後報告

2009年01月16日

誰にも告げずに、開けてしまいました。

ご協力していただいた皆様方
すいません。

なんと、初日から黒でした。
たったの500円ほどですが。

うどんがすっきり早く終わって、(細々とした用事が多い時期で)用事がすっきりしないと開けられないので、宣言ができてませんでした。
あと、知人に頼らずに、初日の純然と自然な流れを見たかったんです。

マジ楽しいっすわ。

ある人に、「君があまりにも楽しそうに焼いてるのが見えたから、思わず車駐車場に停めて来ちゃったよ。君、得だねえ。」
とか言われるし。



「イオンの誤算」の続きをもうちょっと詳しく書くために、もう一回、銀行で読もうと思ったら、なんでかなくなってた。
  

Posted by たみ家 at 08:48Comments(2)

「イオンの誤算」

2009年01月15日

銀行の待ち時間の日経ビジネスから
特集「イオンの誤算 ~見果てぬ夢」

トリビアですが
イオンが全国都道府県でないのは唯一


福井だそうです。

イトーヨーカドーもないそうです。

北陸は全国でもトップクラスに豊かな県が並んでますが、どういういきさつなんでしょうね。

「イオン」とは、ラテン語で、「永遠」だそうです。


イオンの不動産業とかワオンは有名ですが

イオンのすごさは、「総合小売業は儲からない」と見切りをつけて

不動産業と金融業の相乗効果を出して、出店規模を高めながら、価格交渉力をつけていくという新たなビジネスモデルをつくったことにあると書いてありました。

続く

ですが、この考え方は、うちごとき零細でも応用できるような気もする。
  

Posted by たみ家 at 06:38Comments(0)

さぬきうどん全店制覇攻略本2009

2009年01月14日

ずっと書き忘れてましたが、うちで販売してます。

書店にはないことですが、うちで買ったら、かけうどんが2玉までおまけでついてきます。
  

Posted by たみ家 at 06:53Comments(0)

今日の四国新聞

2009年01月12日

真ん中の方に
乙武洋匡さんの寄稿と
仏像ガールの特集があった。

たみ家的には、かなり泣かせるものだった。

乙武さんの著書とか読んだことなかったけど、中学のときにバスケットボール部に入ってたのか。
今の子どもに、
「自分で考えるようになってほしい」
「困難に挑戦してほしい」
の2つを強く願っていると書いてあった。

仏像ガールってかなり有名だったらしいけど、テレビ見たことないので、知らなかった。
仏像5000体見たそうだけど、香川は、仏像の名作が多いから、来てるのかな?
著書があるらしいから見に行こう。


祝日なので、久々に近所のM下さんに視察に行った。
たこ焼きのときには、いろいろ行っても全然いい店があると思わなかったけど、うどんはやっぱりしっかりした店が香川にはたくさんあると再確認。

残念ながら、高松にも香川にもたこ焼きでM下さんのレベルに行っている熟練度の店は、皆無に近いと思う。

ピッチャーに例えて、仮に、うちと比べて、球の速さとか変化球の鋭さとか、三振奪取率みたいなことで美味さを比べると、どうかわからないが、防御率とか試合をつくる上手さとか、そういうものが近所のM下さんもU市場さんもU原さんもすばらしいと思う。

一杯のうどんを食べ比べてどっちが美味いとかは、正直、勝つとも言わないが、負けるとも思わない。
ただ、お客さんにとってピンと来るかどうかわかりませんが、試合をつくる上手さみたいな感じで、やっぱりうちはまだまだ適わないと思う。
経営ノウハウや技術や経験の厚みを感じることがありますね。

たみ家、あんまりたこ焼きに自信があるわけではなかったけど、あまりに?な店が多すぎて、亀田興毅ばりに強気発言を連発して、他のたこ焼き店から反発食うぐらい挑発して、業界の活性化を促そうと思って、店名を「てつお」から「亀田こ」に変えてみようかと冗談で検討したいぐらい。

15軒回って、嫌いなものがほとんどないたみ家が、1皿8個とか食べるの苦痛なとか、無料でも食べたくないと思ったぐらいの店が5軒ぐらいあった。
いや、8軒ぐらいかもしれない。
またわざわざ行って食べたいと思った店は1軒しかない。
またおぜにさん使って食べてもいいなであと2、3軒ぐらい。
またこの2、3軒が多めに言ってるかもしれないぐらい。
評判がいいと人から聞いて行った店が多かっただけに、ショックを受けました。

やっぱり、うどんはいろんなお店がありますが、なんだかんだいっても切磋琢磨して、淘汰されてるんだなあと思った。

主観だから、たみ家の思うとおりに誰もが思うかはわかりませんが、他の人が同じ体験をして、たいていの人がそう大きく違うことを感じないだろうという程度のことしか言ってないと思います。

たみ家は注意深く、慎重に言葉を選んで書いたと思いますよ。
  

Posted by たみ家 at 17:02Comments(3)

議論の前提 矛盾 差異とメルクマール

2009年01月11日

「人を疑うことは重要で、あなたはもっと人を疑わないといけない。」
「人を信じることは重要で、あなたはもっと人を信じないといけない。」
これを同じ人が同じ人に言ったとしたら、矛盾してますか?

してませんよね。
何の脈絡もなく、すぐに2つ言ったら変ではあるけど、矛盾はないですよね。

「信じる」と「疑う」が逆なら、「買う」も「売る」も「摂食」も「排泄」も似たように逆。

株の売買をもっと活発化しなさいといえば、逆のことを両方やりなさいと言ってますが、矛盾ありませんよね。
健康にとって、摂食も排泄も重要なことも矛盾しないですよね。

冒頭のようなことは矛盾してないってことが、当たり前に思ってもらえないと、途中で感情的になったり混乱せずに、論理的に、知見を重ね合わせて、解決や高みに向かうことは難しいのではないかと思うことがときどきあった。

なんで、ここでこういう話を持ってくるかというと
せっかく「交流」によって、人と人が目的に向かって議論できるような関係ができたとしても、議論に慣れてない人が多すぎると感じてます。
よく勉強してる人や社会的な地位のある人でも、他人と意見を普段戦わせたことがないので、カラテの通信教育みたいな人が多いんです。
会社の中でも、地位や命令によって争われずに物事が決まって、おかしいと思ってもあまり言わずに進める人が多い。
そういう人の方が出世することも多かったりするから余計かもしれない。

だから権威ある見解か自分の意見しかない。
言いっぱなしで、反論されたときに、それについて答えることができない人が多い。

反論に再反論できるってのは、反論する人の立場や言い分に、すでに目配りしてたからできるんです。

議論ってのは、多くの立場に目配りしていたことを証明するために、最後の話者となるべく相手をノックアウトするボクシングのようなものかもしれません。
ただ、世間では、やっつけそうになったら、やっつけずに終わるように心がけるし、やっつけてもやっつけなかったことになるように、相手のメンツみたいなものに配慮します。


次に、差異の話ですが

コンピューターの画像なんかは、0か1かの2進数の信号の密度と配列だけで決まって、山の絵だろうと、人の絵だろうと、どんな色だろうと、0か1かの信号のドットの細かさと配列だけで決まると聞いたことがあります。

つまり、どこまで行っても、同質的で、延長線上の差異でしかないということ。
どのような場面でも本質的な差異なんかないということ。

あまりパソコンとかIT詳しくないからわからないけど、音も0か1かの信号の密度と配列で決まるのなら、音と光の間の差異さえ本質的なものではないことになる。

人が「本質的に違う」とかいう場合、多くの場合、どこまで違って見えても、延長線上の差異でしかないことが多い。

誰かが目的のためにある範囲を定めるときに、枠外のものと枠内のものを「本質的に違う」というだけのことである。

たとえば
「異性と結婚する。」と「同性と結婚する。」と「牛と結婚する。」
好きだったら、したい人にとっては、どれの間にも本質的な差異なんかないんです。

ただ、社会の婚姻制度の目的とか
子孫繁栄の目的とか
目的があるから、その枠外のものを「本質的に違う。」というわけで

これが、「アニメキャラと」とか言い出したら、人形でもつくらん限り、空間も占めないし、
コタツと結婚するとか言い出したら、生物ですらない。

でも、何らかの目的というものが介在しなければ、めちゃめちゃ外観とか様子は違っても、延長線上の差異でしかなく、パソコンの画像に、異性が描かれているか、コタツが描かれているかの差異で、0か1かの2進数の信号の密度や配列の差異に過ぎません。

目的を設定しない限り、すべての違いは延長線上のものでしかないのだから、本質的な議論をしようと思ったら、「目的」を持って、それをある程度、お互いが共通理解してないとダメってことです。


たみ家は、「メルクマール」って、言葉を18歳か19歳で初めて聞きましたが、自分が使うようになったのは、かなり後からです。
この言葉は、簡単な意味なんだけど、「エートス」などと並んで、便利なのに使うと「難しい言葉使って」みたいな反応が返ってくるものです。

たみ家が使うときは、だいたい、何かと何かを分けるときの判断の目印みたいな意味で使います。
たとえば、産まれてきて「男か女か」を判断するときは、外性器を見るとすると、それが男か女かのメルクマールです。

じゃあ、日本人か外国人かを分けるときは何か、言語か文化的習慣か人種かどっちの親が日本人か国籍の有無かなどいろいろ考えるものがありますが、国籍で判断するなら、それの有無がメルクマールです。
いろんな使われ方をしますが、たみ家は、だいたいこんな感じで使います。

メルクマールがどうして大事かというと、何かを分けようとするときには、分けるからには、目的があるはずなんです。
その目的によって、何で分けるかが決まるわけです。

性的羞恥心とか欲求みたいなのがなかったら男女のトイレなんか分けなくてもいいでしょう。
雇用の場では、男女の差異はないものとしましょうといういろんな法令があります。
かつては、母性保護の目的で、労働条件に差がありました。
母性保護の目的よりも平等社会をつくろうとか国民の労働力のパイを大きくしようというような目的が勝る世の中になったから、そういう差異を認める法令が撤廃されたのでしょう。

というように、メルクマールを理解することは、目的がわかるということ、目的がわかるということは現実の背景がわかることだと考えています。

「交流人口」と役所がいうときに、ネット上のはカウントしないのは、目的があるからでしょう。
「交流」が何を指すかを考えるにも、目的とメルクマールを意識しないといけません。


こういうことを注意してないと、細々とつまづいたり、誤解ができたり、きれいに論が進まないので、楽しいはずの議論にストレスが出てくる。

こういうことをきちんと理解することは、交流によって地域が活性化するためにとても重要なことだと思います。
  

Posted by たみ家 at 16:04Comments(0)

交流について 2

2009年01月11日

新聞や役所が「交流人口」っていうときに

「交流」ってのは、たいがい人が動いて、会うことを指す。

ネット上だけでも、充分交流してますが、役所がつくる統計上の「交流人口」にはたぶん動いて会わない限りはカウントされないでしょう。

人の心に重心を置いて、「交流」というなら、文通でも電話でもネットでもいいような気がしませんか?

「購買」によって物が満たされることでは、店で買おうがネットで買おうが同じでしょう。
「交流」によって心が満たされることでは、会っても文通でもテレビ電話でも、上の話との本質的差異はないはず。

ということは、役所が「交流人口」というときには、人が動いてることが必要で、交流自体の本質は問題にしてない。

交通機関が使われて、食事したり、ホテルが使われるなど消費の中に、役所のいう「交流」の本質が第1にあるはず。

文化や知恵の高まりをいうなら、絶対的に人が動かないといけないわけではない。

前に書いた「ポジ」と「ネガ」の話とちょっと違うけど、人動かしておぜにさんが増えないと困るってのが「ネガ」で、せっかくやるなら、文化や知恵の高まりや心温まる出会いによってというのが「ポジ」で、どちらかというと副になるが、副のところの豊かさが勝負のカギになるのは確かでしょうね。

急に、国土交通省や自治体が「観光立国」とか言い出したり、「お接待の『心』」とか産業戦略の中で言い出した。
おぜにさんのために「心」を育てようというのだから、唯物史観って使えるよね。

役所の人に「交流って何ですか?」
「交流って、なんで文通じゃだめなんですか?」
「県外から自転車乗ってきて、おぜにさんを使わずに帰った人は交流人口に入るんですか?」
とか聞いても、まともな答えは返ってきません。

じゃあ、民間の誰かに聞いたらわかるかというと、誰もわかりません。
民間の人は、仮に観光産業に従事していたとしても、利益や客数というとらえ方はあっても「交流」なんてどうでもいい話。
「交流を増やそう」なんていうのは役所だけなので、役所の人が知らないので、まず、誰も知りません。

もしかしたら、学者にはいるかもしれませんが、県内で四国新聞や官公庁の出してる情報からは感じたことがない。

政策的には「交流」に主観の充足を主として求めてもしょうがないのかもしれない。

1番目は、人が来ておぜにさんが動くこと。(観光や大きな会など)
2番目は、人が来て地域の知力や産業力などおぜにさんを産み出す力が高まること。(大学・企業・支店誘致など)
3番目というか、1番目´が、内部で人が動いて内需拡大すること。(たとえば、人の家に遊びに行って土産を持っていったり、そこにちょっと気になる異性がいたりしたら、美容や服装におぜにさんを使うなど)
なんで、1と3で順位が違うかというと、内需拡大よりも外貨獲得の方がオイシイから。

4番目が、人と人が出合って、新たな知見や信頼を得て、人の活動へのエネルギーや環境が高まること。
(これは大事だと思いますが、役所の統計自体には入らないし、これなら、ネットでもできるから、一般的にいわれる「交流」とそうでないものを分かつ本質にはならない。)
5番目が、楽しいことや心温まること。
(これも大事でしょうが、政策的な目的としてはあまり意味がなくて、そういうことがあった方が、長続きして交流が膨らみやすいからという副の意味しかない。)
政策の話と、人が根として何をもって世界とつながっているかという話は、別物なので。

政策の話は、未来のことを共通の言語で論理的に話すべき。
人の生きる目的は、過去にしばられ個々の事情のもので感情が支配することが多い。

ここは分けておかないと議論が無駄に紛糾する。
  

Posted by たみ家 at 15:18Comments(0)

交流について

2009年01月10日

ここんとこ、団長日記のイベントの話からいくつか書いてますが

たみ家は、昔から「地域の活性化のために交流を増やせ」みたいな話を聞いて

確かに、交流は大事だろう。
「じゃあ、どういう風に大事なんだ。」
「交流にもいろんなのがあって、それぞれ意味も違うだろうよ。」
「短期で発現する効果もあれば、長期で発現する効果もあるだろうよ。長期で発現する効果に期待するのがおぜにさんの使い方として散漫であれば、どういう交流なら散漫にならないのか、またその後、期待すべき効果を育てるために何がいるのか?」
などなどと、

分解して働きを考えたり、何とどう関係してるのかを整理する必要があると思っていたが、それについてきちんと言及していると思った有識者の意見を見聞したことがなかった。

それは、15年ぐらい前からの疑問だったが、誰も考えないので、たみ家が考えることにした。
誰か考えたのかもしれないが、たみ家は、香川県で最もそういうことについて情報が入る部類の立場にいて、それについて執念深く考えてきて、誰かそういうことを書いてる人がいるかどうかアンテナを張り続けて来たので、もしいたとしても、たみ家が見てないとしたら、誰もしてないのと同じだろう。
少なくとも、香川県民でほとんど見た人は皆無なのだから、誰かの頭の中に発信されずにあったとしても、それはないのと同じである。

団長は、イベントそのものが悪いとは言ってないが、(いや間接的には言ってるのかな?)商店街の売上を伸ばす目的に対応する手段としては大いに疑問視しているようである。

たみ家も、うちの商店会については、まったく直接的効果がないと感じる。

団長が効果があるというのは、品揃えを増やすことや無料駐車場の整備などだという。


また途中になってしまった。
作業に行かねば。

交流について書こうと思ったのは

15年以上考えて来て、しばらく休止状態だったところに団長日記で火がついて、自由席さんとこの会合に行くことになって、燃料を供給されて、そこでいろいろまた思うところがあったからかなあ。



たみ家は、昔から、はなまる創業の前田さんとか団長は著書とか見てて、実績とかステータスは向こうさんははるかに大きい人だけど、考え方のタイプ自体は似たとこがあると思っていた。

「交流が大事」と書いてあるのを見て、慣れてしまわずに、
「どうして大事なの?どういう風に大事なの?」と言葉に発して、考えて、また言葉を発するところ。
そして発した言葉や返ってきた反応を踏み台にまた考える。

ものごとが良くならないと思うことのひとつは
「交流が大事」と言われて、大事と認めたら、「なぜ大事なのかどういう風に大事なのか?」熟考しないことだと思う。

「大事だったら大事でいいじゃない」と考えるのは、自分のことだけ考えてるから
それでは思考が点のまま。

広い範囲での影響を考えるには、大事なことの意味を熟考する必要がある。
  

Posted by たみ家 at 08:07Comments(0)

なんで恐怖と苦痛を持ち上げるのか。

2009年01月09日

時間がないから今きちんと書けませんが

よく
「ネガティブな気持ちからではダメ、ポジティブな気持ちからでないと。」
とか

「マイナス志向はダメで、プラス志向で」
とか

「本で読んだ知識ではダメで、現場で得た知識が大事」
とか
「本なんか読んでも意味ない。」

みたいに
あることを勧めるときに、他のことを全否定するような言い方をする人が多いのが気になるんです。

よう考えんでも
現場感覚がある人ほど、本からも感じるものが多いのが普通やろ。

本を読むことを否定する人の現場感覚は疑うなあ。

それに、ポジかネガかでなく

向いてる場所が違うとか、両方それぞれ1つのことに対しても働きがあって相互に関係しているとかそういう話が現実やろ。

現実とかけ離れた話で、ネガティブの大きな価値を否定する人が多いのが困るんです。

ただ単に外見や聞き触りが良くないことを忌避してるだけのような。

これまた時間がないので
とても大雑把に書きますが

エンジンのハードをつくることと、着火までがネガティブの仕事で

燃料を増やしたり、長く供給し続けるのがポジティブの仕事かな

これが正しければ、前者が絶対にいるし、
前者だけの場合は伸びなくてもゼロにはならないけど、前者のないものはまるっきりのゼロになる可能性が高い。

楽しくないことは初動は起こっても長続きはしにくいでしょうね。

しかし、基本形をつくるのと、初動の瞬発力には、ネガティブの力がいるもんでしょ。

昨今の派遣村みたいな話ができてはじめて、政財界が労働法規の改正に重い腰を上げるじゃない。

「ネガがダメでポジで行こう」なんて、そういう話はもうあんまり聞きたくない。

どっちかじゃなくて

配分や関係の話でしょう。
  

Posted by たみ家 at 08:52Comments(0)

続き

2009年01月06日

こないだ、コタツなんて、長いこと使ってなかったのに
使うと離れがたいと書いた。

よく別れ話のときに、刺したとか事件になってる。

べつに。。。
カノジョ、カレシがいなかったときだって、人生はそれなりに楽しかったでしょ。
そのときの状態に戻るだけなのに。

なんで、すべてを失って、自分の価値がなくなって、人生終わったような気持ちの中で混乱したりする人がいるんでしょう。


うちは、マンション貸してますが、募集のときに、人が来ると、ほとんどの人が窓からの風景を見て決める。
風景なんて、別にどうだっていいんですけどね。

それに、高松祭りの花火が見えるってことにこだわる人も多い。
たった1日、それがどうしてん?
と言いたいけど、そう思ってる自分も気になったし、ほんと思いのほか気にする人が多い。


コタツでも、恋人でも、風景でも、吉牛でも、脳内をイメージが占拠してしまって、かつ、肉体的感覚として残るものには、お算数が通用しないことがままある。
  

Posted by たみ家 at 22:05Comments(2)