好きなものがなかった
2009年01月21日
前も書いたことがあるけど
たみ家は、趣味がない。
多趣味に思われることが多いけど、特に好きなものがないので、いろんなことをやっただけかも。
高校までは趣味があると思っていた。
好き嫌いがはっきりしてて、好きなものしかやらないタイプだと思っていた。
しかし勤めに入って思った。
好きなものなんかなかったんだ。
努力して成長することや成長を通じて今まで見たことのない領域を見ることが好きだったんだ。
だから、ただの趣味としてのんびりと学生時代よりも少ない練習時間で低いレベルで本気で試合やそれに向けての準備に取り組めない状態でやるのは、退屈でしかなかった。
新しいものが見たかったり、成長したいなら、高校の部活と違って、社会人はいろんなことを自分のペースで取り組めるので、苦手でとても取り組もうと思えなかったものや、やったことないようなことばかり選んでするようになった。
きちんとした教え手がいて、ある程度の時間をかけてやったら、何でもおもしろいというかおもしろいと思えるようになった。
自分の人生で、1番、2番、3番目に苦手だと思って毛嫌いしてたものが、全部、けっして上手なわけでないけど、苦手意識がなくなっておもしろいと思うようになってからは、それより苦手なものはないんだから、どんなものでも、全部おもしろくなれる。おもしろくないものなど世の中にないと思い込めるようになってきた。
そうすると
自分には、好きも嫌いもない。
苦手も得意もない。
事実、もともと得意なものは、長くやってなくてもそれなりにやれて、もともと苦手なものは長くやらないと全然ダメダメになった。
しかし、苦手なものばかり最近まじめにやってて、学生時代にやってたことは極力さけてきたので、ほんとに苦手なことと得意なことが、ある時点ではほんとに同じぐらいになってしまった。
また、新しいことや苦手なことに取り組んでるときは、常に周囲が先生なので、謙虚な気持ちで取り組みやすいのが人間関係的に良かった。
自分が教える側にまわったり、諸先輩よりも上手だったりしたら、若輩ものとして居心地が悪いこともあったから、できるだけ苦手なことをしたかった。
じゃあ、好きも嫌いもなければ、得意も苦手もない。
それで、すべてのことはおもしろい。
おもしろくないことなどどこにもない。
と思えたら
じゃあ、どうせなら、人の役に立つことを好きになろうと思うようになった。
それまで、あまり好きで勉強した意識はなかったけど、好きになろう。
それで26歳ぐらいから、勉強を何よりも好きになることに決めた。
実際には、遊んでた時間が長かったけど。
しかし、合コンしようが、スキーに行こうが、テニスをしようが、楽しいけど、それが人の役に立つ喜びや長い成長につながってる実感などなかった。
だだの点だった。
しかし、勉強はそれ自体が楽しいし、人の役に立ったり、広い世の中とつながってる感覚を与えてくれ、長期の成長に結びつく立体的な最高の充実感をもたらした。
学生時代にあれほど熱心に取り組んだスポーツが、エロビデオだとしたら
勉強は、最愛の人。
ぐらいの充実感の差を感じた。
でもやっぱり好きなものはないのかもしれない。
勉強が好きなんでなく
人の役に立ってる感、成長してる感、広い世界とつながってる感が好きなんだと思う。
勉強は、自分のペースでやれる。
1人でもやれる。
起きてる時間のほとんどを使おうと思えば使える。
コートやグラウンドはいらないし、筋肉の衰えや怪我でできなくなるような危険も少ない。
少々歳食ってもやれる。
涼しい部屋でおやつ横にしたり、快適な環境を整えてやれる。
しかも、スポーツや恋愛と違って、敵が邪魔したり、合意に達せずとかいうのがないので、やったらやっただけ上手くいくものの最たるものが勉強。
そして、複雑多岐にわたって関連分野ややるべきことに際限がない。
おもしろいことの条件がすべてそろってない?
何よりも、フランシス・ベーコンの「知は力なり」じゃないけど、勉強は、必ず自分のためにもなるし、他人の問題を解決させる力にもなる。
やさしさなんて、解決できる力がなければ、思っても、それを実現させられないじゃない。
そういうことで悔しい思いとかしたことがあると、「やっぱ勉強ってやさしさだなあ」とか思うこともある。
たみ家は、趣味がない。
多趣味に思われることが多いけど、特に好きなものがないので、いろんなことをやっただけかも。
高校までは趣味があると思っていた。
好き嫌いがはっきりしてて、好きなものしかやらないタイプだと思っていた。
しかし勤めに入って思った。
好きなものなんかなかったんだ。
努力して成長することや成長を通じて今まで見たことのない領域を見ることが好きだったんだ。
だから、ただの趣味としてのんびりと学生時代よりも少ない練習時間で低いレベルで本気で試合やそれに向けての準備に取り組めない状態でやるのは、退屈でしかなかった。
新しいものが見たかったり、成長したいなら、高校の部活と違って、社会人はいろんなことを自分のペースで取り組めるので、苦手でとても取り組もうと思えなかったものや、やったことないようなことばかり選んでするようになった。
きちんとした教え手がいて、ある程度の時間をかけてやったら、何でもおもしろいというかおもしろいと思えるようになった。
自分の人生で、1番、2番、3番目に苦手だと思って毛嫌いしてたものが、全部、けっして上手なわけでないけど、苦手意識がなくなっておもしろいと思うようになってからは、それより苦手なものはないんだから、どんなものでも、全部おもしろくなれる。おもしろくないものなど世の中にないと思い込めるようになってきた。
そうすると
自分には、好きも嫌いもない。
苦手も得意もない。
事実、もともと得意なものは、長くやってなくてもそれなりにやれて、もともと苦手なものは長くやらないと全然ダメダメになった。
しかし、苦手なものばかり最近まじめにやってて、学生時代にやってたことは極力さけてきたので、ほんとに苦手なことと得意なことが、ある時点ではほんとに同じぐらいになってしまった。
また、新しいことや苦手なことに取り組んでるときは、常に周囲が先生なので、謙虚な気持ちで取り組みやすいのが人間関係的に良かった。
自分が教える側にまわったり、諸先輩よりも上手だったりしたら、若輩ものとして居心地が悪いこともあったから、できるだけ苦手なことをしたかった。
じゃあ、好きも嫌いもなければ、得意も苦手もない。
それで、すべてのことはおもしろい。
おもしろくないことなどどこにもない。
と思えたら
じゃあ、どうせなら、人の役に立つことを好きになろうと思うようになった。
それまで、あまり好きで勉強した意識はなかったけど、好きになろう。
それで26歳ぐらいから、勉強を何よりも好きになることに決めた。
実際には、遊んでた時間が長かったけど。
しかし、合コンしようが、スキーに行こうが、テニスをしようが、楽しいけど、それが人の役に立つ喜びや長い成長につながってる実感などなかった。
だだの点だった。
しかし、勉強はそれ自体が楽しいし、人の役に立ったり、広い世の中とつながってる感覚を与えてくれ、長期の成長に結びつく立体的な最高の充実感をもたらした。
学生時代にあれほど熱心に取り組んだスポーツが、エロビデオだとしたら
勉強は、最愛の人。
ぐらいの充実感の差を感じた。
でもやっぱり好きなものはないのかもしれない。
勉強が好きなんでなく
人の役に立ってる感、成長してる感、広い世界とつながってる感が好きなんだと思う。
勉強は、自分のペースでやれる。
1人でもやれる。
起きてる時間のほとんどを使おうと思えば使える。
コートやグラウンドはいらないし、筋肉の衰えや怪我でできなくなるような危険も少ない。
少々歳食ってもやれる。
涼しい部屋でおやつ横にしたり、快適な環境を整えてやれる。
しかも、スポーツや恋愛と違って、敵が邪魔したり、合意に達せずとかいうのがないので、やったらやっただけ上手くいくものの最たるものが勉強。
そして、複雑多岐にわたって関連分野ややるべきことに際限がない。
おもしろいことの条件がすべてそろってない?
何よりも、フランシス・ベーコンの「知は力なり」じゃないけど、勉強は、必ず自分のためにもなるし、他人の問題を解決させる力にもなる。
やさしさなんて、解決できる力がなければ、思っても、それを実現させられないじゃない。
そういうことで悔しい思いとかしたことがあると、「やっぱ勉強ってやさしさだなあ」とか思うこともある。
Posted by たみ家 at
23:13
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数学を学びたい
2009年01月21日
3年とか5年とか、
誰とも会わなくてもいい。
他に何もしたくない。
メシもトイレも風呂も全部いらないという気分で
毎日、毎日、朝起きて、寝るまで他に何もない部屋で
同じ姿勢に疲れたらちょっと散歩や体操して
ずっと数学に取り組んで、自分の行ける最高の高みに到達してみたい。
とか、今、魔が差したように、いい歳こいてそんなこと思いました。
たみ家は、文系で、数Ⅰまでしかやってなくて、空間ベクトルとか、基礎解析とか、履修したけどどうでもいい人間になってました。
数学ができない、または数学を知らない人間です。
まあ、知ってる範囲の算数を実生活の中で手早く組み合わせたり応用するのは苦手じゃないと思うけど、数学を知らない。
文系法学部出で、学校の勉強を高一から完全に投げてて、数学してないので、ちょっとまとまった時間を集中投下して軌道に乗せる時間がいるだろうけど、そこを越えたらたぶん、たみ家は一気にぐんぐん行くと思う。
なぜ、数学なのか
自分が今の世の中の問題意識に対して、最高の貢献をするとしたら
・ダイレクトに自分で新しい商品をどんどんつくり出していくか
・様々な分野のつなげたらいいけどつながってないものを良い形でつなげていくか
・社会学分野で、地域振興に関する理論で、前人未到の領域を目指すか
この辺りだと思う。
今のあり方がけっして悪いわけじゃないし、気分もいい。
しかし、今ある問題意識を打開するような決定力を持つためには、地の頭をはるかに高いレベルにビルトアップしなければ、難しいよなあ。
高松から移住したくないので、香川大学の工学部とか選択肢になるのかもしれないけど、現実に受験とか入学とかできるのだろうか?
とにかく、ものづくりのセンスと、数学的素養を高めたい。
そして、そういう分野に強い人達の話を高いレベルで理解できる人間になりたい。
限界や極限に挑戦したい。
英語で工学や数学の世界に発信できる論文を書きたい。
この衝動はときどきとても強くなることがある。
世の中には人を使って、いろんなことを実現してる人がいるけど、たみ家は、自分の中に決定力を持てるようになりたい。
誰とも会わなくてもいい。
他に何もしたくない。
メシもトイレも風呂も全部いらないという気分で
毎日、毎日、朝起きて、寝るまで他に何もない部屋で
同じ姿勢に疲れたらちょっと散歩や体操して
ずっと数学に取り組んで、自分の行ける最高の高みに到達してみたい。
とか、今、魔が差したように、いい歳こいてそんなこと思いました。
たみ家は、文系で、数Ⅰまでしかやってなくて、空間ベクトルとか、基礎解析とか、履修したけどどうでもいい人間になってました。
数学ができない、または数学を知らない人間です。
まあ、知ってる範囲の算数を実生活の中で手早く組み合わせたり応用するのは苦手じゃないと思うけど、数学を知らない。
文系法学部出で、学校の勉強を高一から完全に投げてて、数学してないので、ちょっとまとまった時間を集中投下して軌道に乗せる時間がいるだろうけど、そこを越えたらたぶん、たみ家は一気にぐんぐん行くと思う。
なぜ、数学なのか
自分が今の世の中の問題意識に対して、最高の貢献をするとしたら
・ダイレクトに自分で新しい商品をどんどんつくり出していくか
・様々な分野のつなげたらいいけどつながってないものを良い形でつなげていくか
・社会学分野で、地域振興に関する理論で、前人未到の領域を目指すか
この辺りだと思う。
今のあり方がけっして悪いわけじゃないし、気分もいい。
しかし、今ある問題意識を打開するような決定力を持つためには、地の頭をはるかに高いレベルにビルトアップしなければ、難しいよなあ。
高松から移住したくないので、香川大学の工学部とか選択肢になるのかもしれないけど、現実に受験とか入学とかできるのだろうか?
とにかく、ものづくりのセンスと、数学的素養を高めたい。
そして、そういう分野に強い人達の話を高いレベルで理解できる人間になりたい。
限界や極限に挑戦したい。
英語で工学や数学の世界に発信できる論文を書きたい。
この衝動はときどきとても強くなることがある。
世の中には人を使って、いろんなことを実現してる人がいるけど、たみ家は、自分の中に決定力を持てるようになりたい。
Posted by たみ家 at
22:24
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記憶に残る聞き間違い
2009年01月21日
ある人から聞いた話ですが
ある日、大学時代、夏の昼間っから、半同棲してたカノジョと情事の後、何をするでもなく、布団の上でゴロゴロしていた。
貧乏だったのか、そこにはエアコンもなかった。
男が、布団が暑苦しく思い、「邪魔や」と叫んだ。
女は「何が?」と聞いた。
そして、男は、「布団や!」と言って、布団を足ではねのけた。
すると、女は、しばらく無言になり、小さな嗚咽をもらしはじめ、声を上げずに泣き始めた。
男は、なぜ女が泣くのか見当もつかない。
男はあわてて
「何?どうしたん?何?」と聞き返す。
女は、「帰る。もうここには来ん。痩せるまで え。ちもせん。」
と言って帰ろうとする。
男「意味がわからん。なんで痩せる話なんやっ!」
女、涙声で「だって太いって言った!」
どうも
布団が邪魔だったのを、私が太ってるから布団が狭くて暑苦しいと言ったと思ったらしい。
「布団や!」が「太いんや!」に聞こえたそうです。
その後、どうなったのか、よくわかりませんが
ふと、コンプレックスを前記事で話題にしたので、思い出しました。
カノジョは、ちょうど太り始めた時期で、そのことをかなり気にしてたから、そんなことになったらしいです。
コンプレックス恐るべし。
未だに、聞き間違いネタで、こんなに記憶に残ってるのはないなあ。
ある日、大学時代、夏の昼間っから、半同棲してたカノジョと情事の後、何をするでもなく、布団の上でゴロゴロしていた。
貧乏だったのか、そこにはエアコンもなかった。
男が、布団が暑苦しく思い、「邪魔や」と叫んだ。
女は「何が?」と聞いた。
そして、男は、「布団や!」と言って、布団を足ではねのけた。
すると、女は、しばらく無言になり、小さな嗚咽をもらしはじめ、声を上げずに泣き始めた。
男は、なぜ女が泣くのか見当もつかない。
男はあわてて
「何?どうしたん?何?」と聞き返す。
女は、「帰る。もうここには来ん。痩せるまで え。ちもせん。」
と言って帰ろうとする。
男「意味がわからん。なんで痩せる話なんやっ!」
女、涙声で「だって太いって言った!」
どうも
布団が邪魔だったのを、私が太ってるから布団が狭くて暑苦しいと言ったと思ったらしい。
「布団や!」が「太いんや!」に聞こえたそうです。
その後、どうなったのか、よくわかりませんが
ふと、コンプレックスを前記事で話題にしたので、思い出しました。
カノジョは、ちょうど太り始めた時期で、そのことをかなり気にしてたから、そんなことになったらしいです。
コンプレックス恐るべし。
未だに、聞き間違いネタで、こんなに記憶に残ってるのはないなあ。
Posted by たみ家 at
00:55
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コンプレックス
2009年01月21日
「ユング心理学」(放送大学教授 大場登著)って本が家にいつの間にかあった。
たみ家は買ってない。
他の人が買って、置いてあった。
ユングって、聞いたことはあるけど、20世紀の心理学者ってぐらいの知識しかない。
前から日本では、「コンプレックス=劣等感」みたいに扱うけど、劣等感は、いろんなコンプレックスのうちの1つで、マザーコンプレックスとか、濃密でうまくいってるような関係でもコンプレックスは生じる。
劣等感じゃなくても、ケンカや離婚や死別、そのほか様々な苦労ごとでも生じる。
トラウマもコンプレックスができる1つの要因ではあるけど、必ずしもトラウマがいるというわけでもない。
たみ家も、コンプレックスを劣等感と訳すことは誤りで、これは正さないと、コンプレックスをテーマにまともな議論ができんと思っていた。
パラパラと読んでみると
「コンプレックス」とは感情のコントロールが効かなくなるような心理的渦みたいなものらしい。
そのことになると、その人が通常行うような域を超えて、過大反応をする。
そして、その過大反応がさらなる葛藤や軋轢を通じて、傷を大きくし、渦が大きくなる。
コンプレックスがあると、それを大きくするような外的要因を引き込みやすいので、心理的渦にエネルギーが供給され続け、巨大な台風化することがある。
心理的渦は飛行機が飛んでるときの乱気流のようなもので、普段は平穏でもその渦に巻き込まれると機体が不安定になるように、何かその要因に遭遇すると対人関係の中などで言動や心が不安定になる。
誰かが熱弁したり、妙に力入れてしゃべることには、たぶんコンプレックスがあるんだろうな。
これは、間違いなさそう。
そうすると、対人関係の中で、いろいろ見えてくるものはありそうだし。
おぜにさんの種にもなるのかもね。
確かに、たみ家の場合も熱弁したり過大反応することには、たいていコンプレックスがくっついてるな。
しかし、必ずしも、劣等感から来るってわけではない。
うまく行ってて好き過ぎることからも来るし。
劣等感と関係ないジレンマみたいなことから来ることもある。
劣等感というより、苦労したなあと思うことから来ることが多いかな。
何かうまくいってないまたはいかなかった要因があることが多いが、それは劣等感のときもあれば、それ以外のことも多いと思う。
わかって欲しかったのに、わかってもらえなかったとか
協力して欲しいと思ったときに、思ったより協力者が集まらなくて、うまくいかなかった記憶。
こんなんはあるかな。
わかってもらえなかった思いがあるから、そのことで何かうまくいかなかったから、言葉が多くなるってのはある。
そう思うと、地域を良くすることに必死になるなんてのは、コンプレックス増やすな。
わかってもらえんことも多い。
そもそも自分の立ち位置さえわかってもらうのに時間がかかる。
協力集まらんことも多い。
自分のことだけするなら葛藤の場も少ないが、地域や社会のこととなると葛藤のネタが無限にある。
しかも、自分のことじゃないから、コントロール不能なことが多いから、解消がしにくいことも多々ある。
そりゃ、そういうもんだろって気もする。
かなりの部分は自分の不徳の致すとこって気もする。
コンプレックスかあ。
それも悪かあないかもな。
たみ家は買ってない。
他の人が買って、置いてあった。
ユングって、聞いたことはあるけど、20世紀の心理学者ってぐらいの知識しかない。
前から日本では、「コンプレックス=劣等感」みたいに扱うけど、劣等感は、いろんなコンプレックスのうちの1つで、マザーコンプレックスとか、濃密でうまくいってるような関係でもコンプレックスは生じる。
劣等感じゃなくても、ケンカや離婚や死別、そのほか様々な苦労ごとでも生じる。
トラウマもコンプレックスができる1つの要因ではあるけど、必ずしもトラウマがいるというわけでもない。
たみ家も、コンプレックスを劣等感と訳すことは誤りで、これは正さないと、コンプレックスをテーマにまともな議論ができんと思っていた。
パラパラと読んでみると
「コンプレックス」とは感情のコントロールが効かなくなるような心理的渦みたいなものらしい。
そのことになると、その人が通常行うような域を超えて、過大反応をする。
そして、その過大反応がさらなる葛藤や軋轢を通じて、傷を大きくし、渦が大きくなる。
コンプレックスがあると、それを大きくするような外的要因を引き込みやすいので、心理的渦にエネルギーが供給され続け、巨大な台風化することがある。
心理的渦は飛行機が飛んでるときの乱気流のようなもので、普段は平穏でもその渦に巻き込まれると機体が不安定になるように、何かその要因に遭遇すると対人関係の中などで言動や心が不安定になる。
誰かが熱弁したり、妙に力入れてしゃべることには、たぶんコンプレックスがあるんだろうな。
これは、間違いなさそう。
そうすると、対人関係の中で、いろいろ見えてくるものはありそうだし。
おぜにさんの種にもなるのかもね。
確かに、たみ家の場合も熱弁したり過大反応することには、たいていコンプレックスがくっついてるな。
しかし、必ずしも、劣等感から来るってわけではない。
うまく行ってて好き過ぎることからも来るし。
劣等感と関係ないジレンマみたいなことから来ることもある。
劣等感というより、苦労したなあと思うことから来ることが多いかな。
何かうまくいってないまたはいかなかった要因があることが多いが、それは劣等感のときもあれば、それ以外のことも多いと思う。
わかって欲しかったのに、わかってもらえなかったとか
協力して欲しいと思ったときに、思ったより協力者が集まらなくて、うまくいかなかった記憶。
こんなんはあるかな。
わかってもらえなかった思いがあるから、そのことで何かうまくいかなかったから、言葉が多くなるってのはある。
そう思うと、地域を良くすることに必死になるなんてのは、コンプレックス増やすな。
わかってもらえんことも多い。
そもそも自分の立ち位置さえわかってもらうのに時間がかかる。
協力集まらんことも多い。
自分のことだけするなら葛藤の場も少ないが、地域や社会のこととなると葛藤のネタが無限にある。
しかも、自分のことじゃないから、コントロール不能なことが多いから、解消がしにくいことも多々ある。
そりゃ、そういうもんだろって気もする。
かなりの部分は自分の不徳の致すとこって気もする。
コンプレックスかあ。
それも悪かあないかもな。
Posted by たみ家 at
00:15
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