議論の前提 矛盾 差異とメルクマール

2009年01月11日

「人を疑うことは重要で、あなたはもっと人を疑わないといけない。」
「人を信じることは重要で、あなたはもっと人を信じないといけない。」
これを同じ人が同じ人に言ったとしたら、矛盾してますか?

してませんよね。
何の脈絡もなく、すぐに2つ言ったら変ではあるけど、矛盾はないですよね。

「信じる」と「疑う」が逆なら、「買う」も「売る」も「摂食」も「排泄」も似たように逆。

株の売買をもっと活発化しなさいといえば、逆のことを両方やりなさいと言ってますが、矛盾ありませんよね。
健康にとって、摂食も排泄も重要なことも矛盾しないですよね。

冒頭のようなことは矛盾してないってことが、当たり前に思ってもらえないと、途中で感情的になったり混乱せずに、論理的に、知見を重ね合わせて、解決や高みに向かうことは難しいのではないかと思うことがときどきあった。

なんで、ここでこういう話を持ってくるかというと
せっかく「交流」によって、人と人が目的に向かって議論できるような関係ができたとしても、議論に慣れてない人が多すぎると感じてます。
よく勉強してる人や社会的な地位のある人でも、他人と意見を普段戦わせたことがないので、カラテの通信教育みたいな人が多いんです。
会社の中でも、地位や命令によって争われずに物事が決まって、おかしいと思ってもあまり言わずに進める人が多い。
そういう人の方が出世することも多かったりするから余計かもしれない。

だから権威ある見解か自分の意見しかない。
言いっぱなしで、反論されたときに、それについて答えることができない人が多い。

反論に再反論できるってのは、反論する人の立場や言い分に、すでに目配りしてたからできるんです。

議論ってのは、多くの立場に目配りしていたことを証明するために、最後の話者となるべく相手をノックアウトするボクシングのようなものかもしれません。
ただ、世間では、やっつけそうになったら、やっつけずに終わるように心がけるし、やっつけてもやっつけなかったことになるように、相手のメンツみたいなものに配慮します。


次に、差異の話ですが

コンピューターの画像なんかは、0か1かの2進数の信号の密度と配列だけで決まって、山の絵だろうと、人の絵だろうと、どんな色だろうと、0か1かの信号のドットの細かさと配列だけで決まると聞いたことがあります。

つまり、どこまで行っても、同質的で、延長線上の差異でしかないということ。
どのような場面でも本質的な差異なんかないということ。

あまりパソコンとかIT詳しくないからわからないけど、音も0か1かの信号の密度と配列で決まるのなら、音と光の間の差異さえ本質的なものではないことになる。

人が「本質的に違う」とかいう場合、多くの場合、どこまで違って見えても、延長線上の差異でしかないことが多い。

誰かが目的のためにある範囲を定めるときに、枠外のものと枠内のものを「本質的に違う」というだけのことである。

たとえば
「異性と結婚する。」と「同性と結婚する。」と「牛と結婚する。」
好きだったら、したい人にとっては、どれの間にも本質的な差異なんかないんです。

ただ、社会の婚姻制度の目的とか
子孫繁栄の目的とか
目的があるから、その枠外のものを「本質的に違う。」というわけで

これが、「アニメキャラと」とか言い出したら、人形でもつくらん限り、空間も占めないし、
コタツと結婚するとか言い出したら、生物ですらない。

でも、何らかの目的というものが介在しなければ、めちゃめちゃ外観とか様子は違っても、延長線上の差異でしかなく、パソコンの画像に、異性が描かれているか、コタツが描かれているかの差異で、0か1かの2進数の信号の密度や配列の差異に過ぎません。

目的を設定しない限り、すべての違いは延長線上のものでしかないのだから、本質的な議論をしようと思ったら、「目的」を持って、それをある程度、お互いが共通理解してないとダメってことです。


たみ家は、「メルクマール」って、言葉を18歳か19歳で初めて聞きましたが、自分が使うようになったのは、かなり後からです。
この言葉は、簡単な意味なんだけど、「エートス」などと並んで、便利なのに使うと「難しい言葉使って」みたいな反応が返ってくるものです。

たみ家が使うときは、だいたい、何かと何かを分けるときの判断の目印みたいな意味で使います。
たとえば、産まれてきて「男か女か」を判断するときは、外性器を見るとすると、それが男か女かのメルクマールです。

じゃあ、日本人か外国人かを分けるときは何か、言語か文化的習慣か人種かどっちの親が日本人か国籍の有無かなどいろいろ考えるものがありますが、国籍で判断するなら、それの有無がメルクマールです。
いろんな使われ方をしますが、たみ家は、だいたいこんな感じで使います。

メルクマールがどうして大事かというと、何かを分けようとするときには、分けるからには、目的があるはずなんです。
その目的によって、何で分けるかが決まるわけです。

性的羞恥心とか欲求みたいなのがなかったら男女のトイレなんか分けなくてもいいでしょう。
雇用の場では、男女の差異はないものとしましょうといういろんな法令があります。
かつては、母性保護の目的で、労働条件に差がありました。
母性保護の目的よりも平等社会をつくろうとか国民の労働力のパイを大きくしようというような目的が勝る世の中になったから、そういう差異を認める法令が撤廃されたのでしょう。

というように、メルクマールを理解することは、目的がわかるということ、目的がわかるということは現実の背景がわかることだと考えています。

「交流人口」と役所がいうときに、ネット上のはカウントしないのは、目的があるからでしょう。
「交流」が何を指すかを考えるにも、目的とメルクマールを意識しないといけません。


こういうことを注意してないと、細々とつまづいたり、誤解ができたり、きれいに論が進まないので、楽しいはずの議論にストレスが出てくる。

こういうことをきちんと理解することは、交流によって地域が活性化するためにとても重要なことだと思います。



 
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