今日は藤塚まつりですよ。
2008年06月13日
今日は、藤塚町の藤塚神社のお祭りがあります。
田町のアーケードの南の終わりをちょうど出たことろです。
いろいろ出店がでます。
うちの隣のコインパーキングもぜひ利用してやってください。
まわりより安いです。
うちは、夜の営業はしませんが、子ども会に夕方うどんを店で出すことになってます。
うちの名物の梅干を買えば、コインパーキングの駐車料金が一部減額になるかも。
このあたりで、10月12日(日)、うちの店の主催で将棋大会をする予定になってます。
今日に間に合わせて、新しい駐車場へ誘導するための看板を発注していました。
力作なので見てやってください。
田町のアーケードの南の終わりをちょうど出たことろです。
いろいろ出店がでます。
うちの隣のコインパーキングもぜひ利用してやってください。
まわりより安いです。
うちは、夜の営業はしませんが、子ども会に夕方うどんを店で出すことになってます。
うちの名物の梅干を買えば、コインパーキングの駐車料金が一部減額になるかも。
このあたりで、10月12日(日)、うちの店の主催で将棋大会をする予定になってます。
今日に間に合わせて、新しい駐車場へ誘導するための看板を発注していました。
力作なので見てやってください。
Posted by たみ家 at
09:01
│Comments(2)
わたくしなりに
2008年06月11日
「統合の前提シリーズ」がまったく書き残しが多いのに、ちょっと気になったことがいくつかあったので、それていました。
うどん関係でも、四国新聞の「論点香川」や教育活動などで、影響の大きい方だけに、「麺通団」さんの「団長日記」はたいていチェックして参考にもさせていただいてますが、ここの6月8日の日記に、「まちづくり」関係にかなり消極的なトーンだったので、言及したいと思った。
その前に6月5日の日記に、簡単に思うところを。
あんまり、他の方の記事をそのまま引用(青文字部分)したくはなかったのですが、お叱りいただいたらそれはそのときで。
ほんとは、直接コメントをしたかったのですが、近頃、著名な方のブログにはコメント欄がないことが多いので、しょうがない。
2008年6月5日(木)
火曜日の朝、授業の前に教室のカギを取りに教学課に行ったらチンペイが渾身のギャグでカギと一緒にファンタを出してきたが、あんまりいじると図に乗ったらいかんので流しておく。今日はちょっと、最近疑問に思っていることをいくつか。
(その1)
地球の温暖化の原因の根源は、二酸化炭素の排出も含めて「人類の営み」であるというのが定説らしいが、とすると「人口を減らす」というのが明らかに有効な手段になる。とすると、「少子化対策」というのは地球温暖化防止に逆行するのではないか? 地球温暖化防止を唱える人は、少子化対策に反対しているのか?
わたしなりに
地球温暖化対策が少子高齢化対策よりも上位の目的ではないでしょう。人が増えようと減ろうと、環境を整えることは重要であるが、人がより良く生きるためにどうするかを考えた後に、その状況で、環境に良い活動をしようということでしょう。逆行はしない。
これを逆行と言ったら、長生きや医療の進歩はすると人口が減らないので、地球の温暖化対策に逆行することになるのでは?
また、必ずしも、政府も自治体も、「少子高齢化が悪い。」とは言ってない。
急激な少子高齢化を緩和しようとか、急激な少子高齢化の悪影響への対策をとろうと言っているのでしょう。
(その2)
老人の孤独死の事件や、いろんな制度によって「高齢者の生活が苦しくなる」といったニュースを聞くたびに思うのだが、そのお年寄りたちの子どもは何をしているのだろう? 私は自分の親が厳しい状況に追い込まれたら、何はさておき助けようとするのだが。
わたしなりに
悲惨な事件って、10件も報道されたら、すごいインパクトだけど、高齢者は何千万人もいるから、子がいない場合も、子が薄情な場合も、子にまったく資力がない場合や田舎に帰ったら職がない場合も、いい関係でも高齢者だけにちょっとの隙でトラブルに見舞われたり、高齢者の側が病的にへんこつで子のケアをかたくなに拒否するとか、どんな場合だって、軽く万単位でしょうから、悲惨な事件がいくら報道されたからといって、日本人の親子関係の全体像と必ずしも、結びつくことはないのでは?
昔は、間引きや姥捨てが数え切れないほどあったのなら、昔の方が良かったとはいえないのでは?
(その3)
行政改革が「役人の抵抗」で進まないという話をよく聞くが、行政改革の権限は役人ではなくて議員が持っているのではないか? つまり「役人の抵抗で進まない」というのは、正しくは「議員の妥協で進まない」のではないか?
わたしなりに
これは申し訳ないけど、政治家と官僚とか役人が意見を戦わせているときは、マスコミは、役人側を悪くいうが、あくまで比較論でいうと、政治家側の方が意見の粗が多い。
カリスマ性とか人間としての魅力はともかく、役人の方が長いこと現場で専門に近い状況でいじってるし、関係者に長いこと責められて意見をたくさん聞いている。
執行している人間と批判する非経験者の間で、執行する人間の方が知識が下なんて、あるにはあってもそりゃ例外でしょう。
役人全体の平均はともかく、政治家と直接渡りあってる手合いは、知識と論理性で政治家に負けることはなかなかないでしょう。
それでも人間より現実の問題の方がはるかにスケールが上だから、役人がきちんとわかるかというとそうでもないので、当然、相手が自分より見識が上であろうが下であろうが、全方位きちんとはできないのだから謙虚であるべきなのでしょう。
また実際に、役人は、物事を本気で良くしようという動機が弱く、組織益を優先する動機の方が強いことも多い。
しかし、政治家の側は、不勉強な断片的な思いつきがけっこう多い。
実際に、多くの法案が役所の出したものだが、役所の書いたものの方が圧倒的にできがいい。
議員法案は、法案の中で、論理的に矛盾していることも少なくない。
矛盾に頓着しないというか、チェックが甘いというか。
まあ、議員立法が多いアメリカとか矛盾があったら、どんどん新法を出して、旧法を廃止しなくても、新法と旧法が矛盾したとこは自動的に新法が旧法を改正したことになるという考え方だ。
それはそれでいいのかもしれないが、法令の数は膨大になる。
議員は役所と違って組織が弱いことも多いから、矛盾はオッケーにしておかないといけないのかもしれない。
しかし、今のようにITやOAが進んだら、法令が多くなっても検索性や蓄積能力が向上しているので、煩雑さからの問題は小さくなっているのでは?
その点、新法が旧法を自動的に廃する考え方の有効度は増しているかもしれない。
議員提案というのは、世の中の既成の枠を越えて、俊敏的確に民の声や時代の流れに応えるためにも、もっと活発でなければならない。
また、裁判員制度も法律の素人が裁判員として関わるわけだし、横綱審議委員も多くが相撲の素人がやっているが、重大な審議だからこそ、素人の感覚が必要になるし、仮に、役人対政治家で、ほとんど役人の意見に分があっても、硬直や独善を防ぐために、役人は多様な声にさらされる必要がある。
(その4)
「地産地消商品」をブランド化して全国に販売しようというプロモーションがあちこちで取り組まれているが、全国に売るというのは「地産地消(地元の産品を地元で消費する)」ではないのではないか?
わたしなりに
競争して勝って、「のび太の客はオレの客オレの客はオレの客」にしようという話で、内でも買わせて、外でも買わそうと。何も、全国あまねく地産地消が成功してほしいとは、プロモーションしてる側は自分とこが売れればいいだけだから思ってないでしょう。
一人勝ちも風当たりが強くなるから、うちの商売の邪魔にならん程度には、よそもがんばってねとか、よそもそこそこうまくいってくれないと全国的な風潮ができないから、うちだけ成功でもいかんぐらいのものでしょう。
(その5)
「農産物の自給率を上げろ」と言っている人は、具体的に「誰」に「どうしろ」と言っているのか? 例えば行政に何をしろと言っているのか? JAにどうしろと言っているのか? 農家にどうしろと言っているのか? 私ら消費者にどうしろと言っているのか? とりあえず私らには「高い国産の農産物を買うべきだ」と言っているのか?
わたしなりに
だいたい思うところはあるのですが、すぐに考えを書けるほど、今まであまり考えてきませんでした。
せっかくだから、いつかこのことでも「わたしなりに」を書いてみたい。
たぶん、上げろと言ってる方は希望を言ってるだけのことが多いのかもしれない。
ま、(4)は言葉だけの屁理屈ですが、まだまだあるけどとりあえず今日はこれだけ。一応自分なりに答は出そうといろいろ勉強しておりますが、調べても調べても情緒的な意見や考え方ばっかり出てくる。目的と手段の整合性が取れた論理的な意見って、なかなか出くわさないですねえ
わたくしなりに、情緒は排しました。
この手のことは、人生の半分ほど、ほとんど毎日かなりの時間考えてきたので、ちょっと自己表現したい気持ちを抑えられませんでした。
うどん関係でも、四国新聞の「論点香川」や教育活動などで、影響の大きい方だけに、「麺通団」さんの「団長日記」はたいていチェックして参考にもさせていただいてますが、ここの6月8日の日記に、「まちづくり」関係にかなり消極的なトーンだったので、言及したいと思った。
その前に6月5日の日記に、簡単に思うところを。
あんまり、他の方の記事をそのまま引用(青文字部分)したくはなかったのですが、お叱りいただいたらそれはそのときで。
ほんとは、直接コメントをしたかったのですが、近頃、著名な方のブログにはコメント欄がないことが多いので、しょうがない。
2008年6月5日(木)
火曜日の朝、授業の前に教室のカギを取りに教学課に行ったらチンペイが渾身のギャグでカギと一緒にファンタを出してきたが、あんまりいじると図に乗ったらいかんので流しておく。今日はちょっと、最近疑問に思っていることをいくつか。
(その1)
地球の温暖化の原因の根源は、二酸化炭素の排出も含めて「人類の営み」であるというのが定説らしいが、とすると「人口を減らす」というのが明らかに有効な手段になる。とすると、「少子化対策」というのは地球温暖化防止に逆行するのではないか? 地球温暖化防止を唱える人は、少子化対策に反対しているのか?
わたしなりに
地球温暖化対策が少子高齢化対策よりも上位の目的ではないでしょう。人が増えようと減ろうと、環境を整えることは重要であるが、人がより良く生きるためにどうするかを考えた後に、その状況で、環境に良い活動をしようということでしょう。逆行はしない。
これを逆行と言ったら、長生きや医療の進歩はすると人口が減らないので、地球の温暖化対策に逆行することになるのでは?
また、必ずしも、政府も自治体も、「少子高齢化が悪い。」とは言ってない。
急激な少子高齢化を緩和しようとか、急激な少子高齢化の悪影響への対策をとろうと言っているのでしょう。
(その2)
老人の孤独死の事件や、いろんな制度によって「高齢者の生活が苦しくなる」といったニュースを聞くたびに思うのだが、そのお年寄りたちの子どもは何をしているのだろう? 私は自分の親が厳しい状況に追い込まれたら、何はさておき助けようとするのだが。
わたしなりに
悲惨な事件って、10件も報道されたら、すごいインパクトだけど、高齢者は何千万人もいるから、子がいない場合も、子が薄情な場合も、子にまったく資力がない場合や田舎に帰ったら職がない場合も、いい関係でも高齢者だけにちょっとの隙でトラブルに見舞われたり、高齢者の側が病的にへんこつで子のケアをかたくなに拒否するとか、どんな場合だって、軽く万単位でしょうから、悲惨な事件がいくら報道されたからといって、日本人の親子関係の全体像と必ずしも、結びつくことはないのでは?
昔は、間引きや姥捨てが数え切れないほどあったのなら、昔の方が良かったとはいえないのでは?
(その3)
行政改革が「役人の抵抗」で進まないという話をよく聞くが、行政改革の権限は役人ではなくて議員が持っているのではないか? つまり「役人の抵抗で進まない」というのは、正しくは「議員の妥協で進まない」のではないか?
わたしなりに
これは申し訳ないけど、政治家と官僚とか役人が意見を戦わせているときは、マスコミは、役人側を悪くいうが、あくまで比較論でいうと、政治家側の方が意見の粗が多い。
カリスマ性とか人間としての魅力はともかく、役人の方が長いこと現場で専門に近い状況でいじってるし、関係者に長いこと責められて意見をたくさん聞いている。
執行している人間と批判する非経験者の間で、執行する人間の方が知識が下なんて、あるにはあってもそりゃ例外でしょう。
役人全体の平均はともかく、政治家と直接渡りあってる手合いは、知識と論理性で政治家に負けることはなかなかないでしょう。
それでも人間より現実の問題の方がはるかにスケールが上だから、役人がきちんとわかるかというとそうでもないので、当然、相手が自分より見識が上であろうが下であろうが、全方位きちんとはできないのだから謙虚であるべきなのでしょう。
また実際に、役人は、物事を本気で良くしようという動機が弱く、組織益を優先する動機の方が強いことも多い。
しかし、政治家の側は、不勉強な断片的な思いつきがけっこう多い。
実際に、多くの法案が役所の出したものだが、役所の書いたものの方が圧倒的にできがいい。
議員法案は、法案の中で、論理的に矛盾していることも少なくない。
矛盾に頓着しないというか、チェックが甘いというか。
まあ、議員立法が多いアメリカとか矛盾があったら、どんどん新法を出して、旧法を廃止しなくても、新法と旧法が矛盾したとこは自動的に新法が旧法を改正したことになるという考え方だ。
それはそれでいいのかもしれないが、法令の数は膨大になる。
議員は役所と違って組織が弱いことも多いから、矛盾はオッケーにしておかないといけないのかもしれない。
しかし、今のようにITやOAが進んだら、法令が多くなっても検索性や蓄積能力が向上しているので、煩雑さからの問題は小さくなっているのでは?
その点、新法が旧法を自動的に廃する考え方の有効度は増しているかもしれない。
議員提案というのは、世の中の既成の枠を越えて、俊敏的確に民の声や時代の流れに応えるためにも、もっと活発でなければならない。
また、裁判員制度も法律の素人が裁判員として関わるわけだし、横綱審議委員も多くが相撲の素人がやっているが、重大な審議だからこそ、素人の感覚が必要になるし、仮に、役人対政治家で、ほとんど役人の意見に分があっても、硬直や独善を防ぐために、役人は多様な声にさらされる必要がある。
(その4)
「地産地消商品」をブランド化して全国に販売しようというプロモーションがあちこちで取り組まれているが、全国に売るというのは「地産地消(地元の産品を地元で消費する)」ではないのではないか?
わたしなりに
競争して勝って、「のび太の客はオレの客オレの客はオレの客」にしようという話で、内でも買わせて、外でも買わそうと。何も、全国あまねく地産地消が成功してほしいとは、プロモーションしてる側は自分とこが売れればいいだけだから思ってないでしょう。
一人勝ちも風当たりが強くなるから、うちの商売の邪魔にならん程度には、よそもがんばってねとか、よそもそこそこうまくいってくれないと全国的な風潮ができないから、うちだけ成功でもいかんぐらいのものでしょう。
(その5)
「農産物の自給率を上げろ」と言っている人は、具体的に「誰」に「どうしろ」と言っているのか? 例えば行政に何をしろと言っているのか? JAにどうしろと言っているのか? 農家にどうしろと言っているのか? 私ら消費者にどうしろと言っているのか? とりあえず私らには「高い国産の農産物を買うべきだ」と言っているのか?
わたしなりに
だいたい思うところはあるのですが、すぐに考えを書けるほど、今まであまり考えてきませんでした。
せっかくだから、いつかこのことでも「わたしなりに」を書いてみたい。
たぶん、上げろと言ってる方は希望を言ってるだけのことが多いのかもしれない。
ま、(4)は言葉だけの屁理屈ですが、まだまだあるけどとりあえず今日はこれだけ。一応自分なりに答は出そうといろいろ勉強しておりますが、調べても調べても情緒的な意見や考え方ばっかり出てくる。目的と手段の整合性が取れた論理的な意見って、なかなか出くわさないですねえ
わたくしなりに、情緒は排しました。
この手のことは、人生の半分ほど、ほとんど毎日かなりの時間考えてきたので、ちょっと自己表現したい気持ちを抑えられませんでした。
Posted by たみ家 at
22:38
│Comments(2)
珍しい人と遭遇
2008年06月11日
前記事の続きで、ラーメンポートの虎屋に行き、以前親父さんのお店の客だったAにも、出店を教えてあげようと、他の用事もあったので寿町から電話。
虎屋さんとは、親父さんの店で、ときどき言葉を交わしただけで、そんなに親しい間柄でもないけど、下町のお店から、あんな注目されるところに出店したなんて思うと、やっぱり応援したくなる。
中央通と浜街道の交差点から電話すると。
駅のすぐ南の焼き鳥「なると」さんで、宴の途中とのこと。
どっちも、高松駅の近くにはめったに行かないのに、これは偶然と、なるとさんへ向かう。
いやあ、なるとさん1階も2階もお客さんいっぱいや。
そこで、Aさん、金属商の社長と、2人でやっていた。
この社長、おぜにさんたくさん持ってると評判で、今頃、金属類は2ヶ月で3割も4割も値上がりするんで、儲かってしょうがないという。
時期にもよるけど、いいときは年収が億には乗るらしい。
やっぱりこういう時勢でも、時勢に合った商売してる人はすごいね。
だけど、このおっさん、ほんとにうるさいんですわ。
何回も、「オレは毎日飲みに行ってる。」とか、「ロレックスやベンツをたくさん持ってる」とか、つまらん話をするんですわ。
それでまた、「世界を見て商売せい。」とか「せめて東京で店出せ。」とか、これまた、いったい何十回言ったかわからんほども。
興奮しすぎて、体重を不安定なテーブルに全部預けて、テーブルの上のモノを全部ひっくり返しそうになるわ、もうわやでした。
Aさんはすごいと思う。
媚もへつらいもせず、また、怒るわけでもなく、それなりに言いたいことは返して、にこにこしながら、ずっと聞いている。
酔った勢いか、このおっさんどこまで本気かわからん。
「東京に店出すんなら、無利子で、五千万や一億ぐらいなら現金で、すぐ持ってきてやる。そんかわり、しっかり儲かったら返せ。」
たみ家は、あまり興味がないけど、興味なさそうにするとやたら、「お前はオレの言ってることがわからんのか!」と声がやたら大きくなるんで、まあ、そう会う人でもないし、適当におさめようと。
たみ家「興味はあるけど、うちはまだ1店目さえ成功させたわけでないし、ちょっと用事で店を休んでる間に1日さえ店を任せられるような信頼できるパートナーも見つけてないのに、そんなん、過程を踏まんとムリやし、東京は行ったことあっても、商売してから行ったことないんで、東京のこと知らんのに、何とも言えんわ。」
すると、おっさん「お前はオレのことを信用しとらんな。東京にはオレが連れてってやる。来週どうや。」
と言いながら、何と、財布から10万円ほど取り出し、「お前は飲み方が足らんから、考えのスケールも小さい。まわりの人間もやる気出したりうるおうようにしようと思ったら、思い切ってやらんといかん。今日はこの後、これで飲め。」とその札束をくれると言うのだ。
なんじゃこのおっさん!
たみ家、この人の名前も会社名も知らんのに。
手続きの帰りにAさんに電話して、たまたま近くにいるから寄っただけで、帰ったら店で作業があるという日にこんな珍しい人に会うなんて。
くれるんならもらってもいい気もするけど、この流れでもらうはありえんし。
「いやいやいらんですわ。」
と返すと。
おっさん「これぐらい軽い気持ちで受け取れ。」ともう一回突き出してくる。
こりゃ、困った。
たみ家、「それじゃあ、(どうせ行かんから。)東京視察のときに受け取ります。」
と。
その後、「広州、香港、ニューヨークぐらいには店出せ。やけど、東京でやってからや。」と何十回も繰り返す。
そして、しばらくして、どっかのラウンジのお嬢さんだと思うけど、○ミちゃんから電話がかかってきて、どっかに行ってしまう。
たみ家のまわりにこんな人が多いわけでは決してありません。
あっ、だいぶ昔に貴金属輸入販売してる人で、むちゃなおごり方する人がおったなあ。
このおっさんは、鉄とか銅とかしんちゅうとか貴金属ではないけど、やっぱり額の大きいものとか、額の大きい物の材料とかは調子がいいと儲かるんかなあ?
何を得たってわけでもないけど、それなりに刺激はあったような。
虎屋さんとは、親父さんの店で、ときどき言葉を交わしただけで、そんなに親しい間柄でもないけど、下町のお店から、あんな注目されるところに出店したなんて思うと、やっぱり応援したくなる。
中央通と浜街道の交差点から電話すると。
駅のすぐ南の焼き鳥「なると」さんで、宴の途中とのこと。
どっちも、高松駅の近くにはめったに行かないのに、これは偶然と、なるとさんへ向かう。
いやあ、なるとさん1階も2階もお客さんいっぱいや。
そこで、Aさん、金属商の社長と、2人でやっていた。
この社長、おぜにさんたくさん持ってると評判で、今頃、金属類は2ヶ月で3割も4割も値上がりするんで、儲かってしょうがないという。
時期にもよるけど、いいときは年収が億には乗るらしい。
やっぱりこういう時勢でも、時勢に合った商売してる人はすごいね。
だけど、このおっさん、ほんとにうるさいんですわ。
何回も、「オレは毎日飲みに行ってる。」とか、「ロレックスやベンツをたくさん持ってる」とか、つまらん話をするんですわ。
それでまた、「世界を見て商売せい。」とか「せめて東京で店出せ。」とか、これまた、いったい何十回言ったかわからんほども。
興奮しすぎて、体重を不安定なテーブルに全部預けて、テーブルの上のモノを全部ひっくり返しそうになるわ、もうわやでした。
Aさんはすごいと思う。
媚もへつらいもせず、また、怒るわけでもなく、それなりに言いたいことは返して、にこにこしながら、ずっと聞いている。
酔った勢いか、このおっさんどこまで本気かわからん。
「東京に店出すんなら、無利子で、五千万や一億ぐらいなら現金で、すぐ持ってきてやる。そんかわり、しっかり儲かったら返せ。」
たみ家は、あまり興味がないけど、興味なさそうにするとやたら、「お前はオレの言ってることがわからんのか!」と声がやたら大きくなるんで、まあ、そう会う人でもないし、適当におさめようと。
たみ家「興味はあるけど、うちはまだ1店目さえ成功させたわけでないし、ちょっと用事で店を休んでる間に1日さえ店を任せられるような信頼できるパートナーも見つけてないのに、そんなん、過程を踏まんとムリやし、東京は行ったことあっても、商売してから行ったことないんで、東京のこと知らんのに、何とも言えんわ。」
すると、おっさん「お前はオレのことを信用しとらんな。東京にはオレが連れてってやる。来週どうや。」
と言いながら、何と、財布から10万円ほど取り出し、「お前は飲み方が足らんから、考えのスケールも小さい。まわりの人間もやる気出したりうるおうようにしようと思ったら、思い切ってやらんといかん。今日はこの後、これで飲め。」とその札束をくれると言うのだ。
なんじゃこのおっさん!
たみ家、この人の名前も会社名も知らんのに。
手続きの帰りにAさんに電話して、たまたま近くにいるから寄っただけで、帰ったら店で作業があるという日にこんな珍しい人に会うなんて。
くれるんならもらってもいい気もするけど、この流れでもらうはありえんし。
「いやいやいらんですわ。」
と返すと。
おっさん「これぐらい軽い気持ちで受け取れ。」ともう一回突き出してくる。
こりゃ、困った。
たみ家、「それじゃあ、(どうせ行かんから。)東京視察のときに受け取ります。」
と。
その後、「広州、香港、ニューヨークぐらいには店出せ。やけど、東京でやってからや。」と何十回も繰り返す。
そして、しばらくして、どっかのラウンジのお嬢さんだと思うけど、○ミちゃんから電話がかかってきて、どっかに行ってしまう。
たみ家のまわりにこんな人が多いわけでは決してありません。
あっ、だいぶ昔に貴金属輸入販売してる人で、むちゃなおごり方する人がおったなあ。
このおっさんは、鉄とか銅とかしんちゅうとか貴金属ではないけど、やっぱり額の大きいものとか、額の大きい物の材料とかは調子がいいと儲かるんかなあ?
何を得たってわけでもないけど、それなりに刺激はあったような。
Posted by たみ家 at
20:25
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入ってびっくり
2008年06月11日
昨日、ラーメンポートに行ったら、新しく「高松」のラーメン「虎屋」ができてました。
入り口に「とら家の頑固親父から受け継いだ。。。」みたいなことが書いてあって、もしや。
これは気になって、「たぶん食べない」と前記事で書きつつ入ってしまった。
花園町のときどき行ってたあそこの息子はんだった。
向こうもなんとなく覚えてました。
あの下町の個性店の代表みたいなお店から、サンポートに出店とは驚きです。
たみ家は、ラーメンにも、ここの息子はんにもけっこう好感を持ってます。
バイトの方だと思いますが、看板娘さんも、明るくていい感じ。
この後、珍しい出会いがありました。 続く。
入り口に「とら家の頑固親父から受け継いだ。。。」みたいなことが書いてあって、もしや。
これは気になって、「たぶん食べない」と前記事で書きつつ入ってしまった。
花園町のときどき行ってたあそこの息子はんだった。
向こうもなんとなく覚えてました。
あの下町の個性店の代表みたいなお店から、サンポートに出店とは驚きです。
たみ家は、ラーメンにも、ここの息子はんにもけっこう好感を持ってます。
バイトの方だと思いますが、看板娘さんも、明るくていい感じ。
この後、珍しい出会いがありました。 続く。
Posted by たみ家 at
08:46
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今サンポートです。
2008年06月10日
e-とぴあに来てます。
自転車がなくなったので、ここまで藤塚町から歩いてます。
たみ家の場合は、サンポートに行くのは、手続き関係とだいたい相場が決まってます。
歩き始めてから、3週間あまり、大きな成果とはいえませんが、ダイエット効果らしいものはじわっと出てきてる感じです。
ここで驚いたのが「四国学院大学」と貼り紙のある講座。
今、別にとっさに驚いたのが、「だいがく」と入力して、「大学」よりも「大顎」が先に出てきたこと。
本題に戻って、なんと、大学の先生が講座90分されるのに、3回で1000円。
安い。
安すぎるぞ、教育や児童福祉などに関係ある、たみ家のなじみのないテーマが多いけど、夕方からだし、一般の人も申し込みできるそうだから、行ってはみたいなあ。
たぶん食べないけど、ラーメンポートをのぞいてこよう。
それでむちゃくちゃ気になったら食べよ。
自転車がなくなったので、ここまで藤塚町から歩いてます。
たみ家の場合は、サンポートに行くのは、手続き関係とだいたい相場が決まってます。
歩き始めてから、3週間あまり、大きな成果とはいえませんが、ダイエット効果らしいものはじわっと出てきてる感じです。
ここで驚いたのが「四国学院大学」と貼り紙のある講座。
今、別にとっさに驚いたのが、「だいがく」と入力して、「大学」よりも「大顎」が先に出てきたこと。
本題に戻って、なんと、大学の先生が講座90分されるのに、3回で1000円。
安い。
安すぎるぞ、教育や児童福祉などに関係ある、たみ家のなじみのないテーマが多いけど、夕方からだし、一般の人も申し込みできるそうだから、行ってはみたいなあ。
たぶん食べないけど、ラーメンポートをのぞいてこよう。
それでむちゃくちゃ気になったら食べよ。
Posted by たみ家 at
18:57
│Comments(0)
前回の続き 要約から入りますと
2008年06月09日
マズローの五段階欲求のピラミッドは本で平面で書いてある。
マズローは段階を満たせば、順次欲求の次元が上がるという。
たみ家は、それはないだろうというか実感として合致しない状況が多すぎると思う。
一般論として、傾向としてわかるような気もするのだが、あまりに実感と違う説は採用できない。
そこで修正として、状況に応じて、段階を行ったり来たりするのかと思っていた時期が長かった。
ただ、それではなんか漏れてるような多少の違和感も感じていた。
しかし、おぜにさんの機能を考えているうちに氷解した。はじけた。
①ピラミッドの形を
平面からスノボのハーフパイプの片側斜面のように、高低もあれば、傾斜の差もあり、平面的な領域もあるととらえ、ハープパイプの上の方のように、自己実現欲求のあたりの傾斜をきつくする。
次元を1つ増やして、傾斜の最後の角度を上げるわけです。
②段階のあり方を
きちんと直線を引いたような段階でなく、ファジーで混在しながら、全体としてみたらおおよそ段階になっている程度とする。
③欲求の充足の優先順位は
どれかが満たされれば、段階的に次に行くようなものでもなく、状況に応じて、だだ行ったり来たりするというより
居酒屋で、ビールやつまみの量や種類のバランスを取るように、同時に、複数の欲求にアプローチして、どれかが行き過ぎたら、どれかを抑える、確かに行ったり来たりはするのだが、同時に複数にアプローチしながら、状況に応じて量や種類のバランスを取り続けている。
確かに、最初はビールタイムで、だんだん、焼酎で、〆はデザートか次の店でラーメンかうどんかとかなるのだが、段階を上がるのでも説明不足、行ったり来たりでも説明不足。
マズローの欲求ピラミッドの修正モデルは、こうやって書くと簡単だけど、人生の半分ぐらい違和感を持ち続けてきたことの自分なりのほぼ完成形までいったかというぐらいのブレークスルーです。
もしかしたら、生まれてからここまで考えてきたすべての中で、背景にこめられた考えや知識の総量や結合のレベル的にも、学術的な面でも、飛びぬけて自己史上最高かもしれません。
マズローの段階欲求の充足に、ちょっと前に書いた、
1.
「人間を欲求をやりくりする存在として、合理的な行動をある程度望みながら、必ずしも合理的でない欲求に動かされ、ある程度満足してしまったら、ベストでなくても、まあええや。となってしまうような存在。」という
与えられた情況の中で欲求をやりくりし続ける「欲求人モデル」人間像。
2.
資源の最適配分の理論や限界効用逓減の法則など、資源の投入や配置についての考え方を、段階を上るという1点でとらえる考え方から、高さと領域を同時に考え、矛盾せず複数へ同時にアプローチし、時間軸の中で、時に合理的だったり、時に嫉妬など感情に歪められて不合理だったりする欲求とバランスを取りながら、資産運用の組み合わせのポートフォリオを構成するようなとらえ方への修正。
この2つのフレームをミックスすることによって、マズローの段階欲求説は、柔軟で、現代人の欲求に適合し、事実としての行動と矛盾せず、有意な理念や具体的な処方を導き出しやすいツールになったのではないだろうか?
今、差し当たって、たみ家が人生の半分近く、疑問に思ってきたことや起こってきたことを走馬灯のように思い出すに、矛盾するとこは見当たっていません。
これは、ほんとに、思いついた瞬間、今までで一番大きなホームランを打ったときのように、当たった瞬間に、何かがはじけて、むちゃくちゃに気持ちが良かった。
人生の半分の長さずっと疑問に思ってきたり、今まで自分が考えたことの中でここまで人生最大のヒットとまで思うのは、重要だと思っていたからですし、それほど長く考え続けたことだから、もうちょっとお好きな方だけ、お付き合いいただけたらと思います。
マズローは段階を満たせば、順次欲求の次元が上がるという。
たみ家は、それはないだろうというか実感として合致しない状況が多すぎると思う。
一般論として、傾向としてわかるような気もするのだが、あまりに実感と違う説は採用できない。
そこで修正として、状況に応じて、段階を行ったり来たりするのかと思っていた時期が長かった。
ただ、それではなんか漏れてるような多少の違和感も感じていた。
しかし、おぜにさんの機能を考えているうちに氷解した。はじけた。
①ピラミッドの形を
平面からスノボのハーフパイプの片側斜面のように、高低もあれば、傾斜の差もあり、平面的な領域もあるととらえ、ハープパイプの上の方のように、自己実現欲求のあたりの傾斜をきつくする。
次元を1つ増やして、傾斜の最後の角度を上げるわけです。
②段階のあり方を
きちんと直線を引いたような段階でなく、ファジーで混在しながら、全体としてみたらおおよそ段階になっている程度とする。
③欲求の充足の優先順位は
どれかが満たされれば、段階的に次に行くようなものでもなく、状況に応じて、だだ行ったり来たりするというより
居酒屋で、ビールやつまみの量や種類のバランスを取るように、同時に、複数の欲求にアプローチして、どれかが行き過ぎたら、どれかを抑える、確かに行ったり来たりはするのだが、同時に複数にアプローチしながら、状況に応じて量や種類のバランスを取り続けている。
確かに、最初はビールタイムで、だんだん、焼酎で、〆はデザートか次の店でラーメンかうどんかとかなるのだが、段階を上がるのでも説明不足、行ったり来たりでも説明不足。
マズローの欲求ピラミッドの修正モデルは、こうやって書くと簡単だけど、人生の半分ぐらい違和感を持ち続けてきたことの自分なりのほぼ完成形までいったかというぐらいのブレークスルーです。
もしかしたら、生まれてからここまで考えてきたすべての中で、背景にこめられた考えや知識の総量や結合のレベル的にも、学術的な面でも、飛びぬけて自己史上最高かもしれません。
マズローの段階欲求の充足に、ちょっと前に書いた、
1.
「人間を欲求をやりくりする存在として、合理的な行動をある程度望みながら、必ずしも合理的でない欲求に動かされ、ある程度満足してしまったら、ベストでなくても、まあええや。となってしまうような存在。」という
与えられた情況の中で欲求をやりくりし続ける「欲求人モデル」人間像。
2.
資源の最適配分の理論や限界効用逓減の法則など、資源の投入や配置についての考え方を、段階を上るという1点でとらえる考え方から、高さと領域を同時に考え、矛盾せず複数へ同時にアプローチし、時間軸の中で、時に合理的だったり、時に嫉妬など感情に歪められて不合理だったりする欲求とバランスを取りながら、資産運用の組み合わせのポートフォリオを構成するようなとらえ方への修正。
この2つのフレームをミックスすることによって、マズローの段階欲求説は、柔軟で、現代人の欲求に適合し、事実としての行動と矛盾せず、有意な理念や具体的な処方を導き出しやすいツールになったのではないだろうか?
今、差し当たって、たみ家が人生の半分近く、疑問に思ってきたことや起こってきたことを走馬灯のように思い出すに、矛盾するとこは見当たっていません。
これは、ほんとに、思いついた瞬間、今までで一番大きなホームランを打ったときのように、当たった瞬間に、何かがはじけて、むちゃくちゃに気持ちが良かった。
人生の半分の長さずっと疑問に思ってきたり、今まで自分が考えたことの中でここまで人生最大のヒットとまで思うのは、重要だと思っていたからですし、それほど長く考え続けたことだから、もうちょっとお好きな方だけ、お付き合いいただけたらと思います。
Posted by たみ家 at
21:43
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統合の前提 4 マズロー説への疑問
2008年06月09日
アブラハム・マズローは、日本の労使慣行にもすごく影響を与えた人で、上司との面談とか、福利厚生とか、従業員の親睦旅行のようなものは、マズローの影響するところ大いにありといわれてます。
戦前は、上司が一方的に命令するだけで、部下が上司に意見するなんてなかったのでは?
マズローといえば、段階欲求説とか五段階欲求説。
たみ家はこれがおかしいおかしいと延々高校のときからいったい何年おかしいと思い続けてきたんだ。
段階欲求説の説明自体は、検索すればいくらでもあるので、簡単にしたいんですが
次の人間の欲求を階層化した五段階のピラミッドがよく本の図に描いてあります。
一次に生理的欲求 食欲・睡眠欲・性欲など
二次に安全欲求 犯罪や災害などの不安をやわらげたいなど
三次に所属の欲求 仲間を得たい、家族がほしいなど
四次に自我自尊の欲求 尊敬されたい、地位や権力につきたいなど
五次に自己実現欲求 成長したい、自己表現したいなど
とだんだん高次の欲求があって、「衣食足りて礼節を知る」とかいうように、低次の欲求が満たされて、はじめて次の欲求に関心が向き、四次までは、満たされると欲求が頭打ちになるけど、自己実現欲求は満たされても欲求が進化していき頭打ちになることがない。
たみ家はマズローの著述を読んだというより、概説本やそれを引用した図書や、それを引用して何かおっしゃる方の言い分を聞いておかしいおかしいと高校のときからずっと思ってたんです。
自分の場合、店をはじめたとき、まともに食事がずっとできずに、この店つぶれずにいけるかもわからず、睡眠も1日2、3時間で、週6ずっと、立ってる時間が一日に18時間以上とかあっても、地域の問題を探求しようという意欲におとろえはまったくなく、むしろ燃えた。
たとえ、飢餓にあっても食は必死に求めるだろうけど、それで地域の問題探求欲求が下がるとはまったく思わなかった。
ベートーベンだって、「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」とか言ったと聞きますが
満たされない低次の欲求を多く抱えたまま、自己実現や成長や表現を目指している人は、普通にたくさんいるでないですか。
バンドやってる人なんか、メシも食えずに、音楽に打ち込んで、音楽自体も向上したいし、メジャーになりたいっていうのをテレビなんかではよく見ます。
下の欲求が満たされるかどうかなんか、高次の欲求と関係ない例が多すぎる。
また、どれが、どの段階の欲求かわからないことが多い。
近頃、孫の世話するなんて、自分じゃないけど孫を安全に育てたいという不安の解消の意味もあれば、家族の所属のあり方の意味もあれば、孫にはいいおじいちゃんおばあちゃんと思われたい自尊の欲求の意味もあれば、ステージママやチチローさんじゃないけど、すごい期待をかけてたら育てることが自己実現の意味もあるかもしれない。
選び抜いてすごいイケメンや美人の配偶者を得るなんてのも、一次欲求なんか、配偶者を得るんだから所属なんか、連れて歩いて「おおっ!」と言わせたいとか部下を家に連れてきて、うらやましがらせて自分の評価や富や権力を反映させるようなのはテレビなんかでは見るので、自尊なんか、もうそれが人生の目標で、自己実現なんか、本人もわからんでしょう。
一つの行為や欲求がどの階層のことかわからんし、たいてい一つの行為は、ある程度重要なものなら、同時に複数の欲求にまたがって、順序なんかない。
説明や図がしっくりこない。
もう一つ。
マズローの説は、もともとはお金をしっかりあげても、人間はそれだけじゃないから、仕事にも生きがいや喜びを感じられるようにしましょうというのが正しいあり方でしょうに。
たみ家に使ってきた人達は、人間は自己実現することに喜びを見出せるんだから、お金なんかもらわなくても貢献や成長から喜びを得てそれで満足を得ればいいだろうと、正当な報酬を与えない理屈に使う人や
環境が整備されてない中で、それでもがんばれと本来整備する責任者が自分の責任を棚上げしつつ使ってくる人だった。
ダーウィンの進化論がダーウィンの意図と関係なく、差別主義者に曲解されたり悪用されるように、使う人が理解してなかったり、悪用するので、五段階欲求説には反感を高校時代から感じました。
外食産業の名ばかり管理職問題でも、某大手外食企業が、「店長は店に貢献すること自体が喜び、だから手当てなんか必要ない。」と記者のインタビューに答えたのがありました。
マズローの名前は出してないけど、搾取のために悪用されやすいんです。
①現実に合わない。
②使う人が理解してない。または、搾取のために悪用されやすい。
この2点をたみ家は、ずっとおかしいと思ってたわけです。
ああ、用事でまた途中だなあ。
このあたりは、自分の考え方の長年の集大成ともいえるから、店が終わったら続きを書こう。
戦前は、上司が一方的に命令するだけで、部下が上司に意見するなんてなかったのでは?
マズローといえば、段階欲求説とか五段階欲求説。
たみ家はこれがおかしいおかしいと延々高校のときからいったい何年おかしいと思い続けてきたんだ。
段階欲求説の説明自体は、検索すればいくらでもあるので、簡単にしたいんですが
次の人間の欲求を階層化した五段階のピラミッドがよく本の図に描いてあります。
一次に生理的欲求 食欲・睡眠欲・性欲など
二次に安全欲求 犯罪や災害などの不安をやわらげたいなど
三次に所属の欲求 仲間を得たい、家族がほしいなど
四次に自我自尊の欲求 尊敬されたい、地位や権力につきたいなど
五次に自己実現欲求 成長したい、自己表現したいなど
とだんだん高次の欲求があって、「衣食足りて礼節を知る」とかいうように、低次の欲求が満たされて、はじめて次の欲求に関心が向き、四次までは、満たされると欲求が頭打ちになるけど、自己実現欲求は満たされても欲求が進化していき頭打ちになることがない。
たみ家はマズローの著述を読んだというより、概説本やそれを引用した図書や、それを引用して何かおっしゃる方の言い分を聞いておかしいおかしいと高校のときからずっと思ってたんです。
自分の場合、店をはじめたとき、まともに食事がずっとできずに、この店つぶれずにいけるかもわからず、睡眠も1日2、3時間で、週6ずっと、立ってる時間が一日に18時間以上とかあっても、地域の問題を探求しようという意欲におとろえはまったくなく、むしろ燃えた。
たとえ、飢餓にあっても食は必死に求めるだろうけど、それで地域の問題探求欲求が下がるとはまったく思わなかった。
ベートーベンだって、「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」とか言ったと聞きますが
満たされない低次の欲求を多く抱えたまま、自己実現や成長や表現を目指している人は、普通にたくさんいるでないですか。
バンドやってる人なんか、メシも食えずに、音楽に打ち込んで、音楽自体も向上したいし、メジャーになりたいっていうのをテレビなんかではよく見ます。
下の欲求が満たされるかどうかなんか、高次の欲求と関係ない例が多すぎる。
また、どれが、どの段階の欲求かわからないことが多い。
近頃、孫の世話するなんて、自分じゃないけど孫を安全に育てたいという不安の解消の意味もあれば、家族の所属のあり方の意味もあれば、孫にはいいおじいちゃんおばあちゃんと思われたい自尊の欲求の意味もあれば、ステージママやチチローさんじゃないけど、すごい期待をかけてたら育てることが自己実現の意味もあるかもしれない。
選び抜いてすごいイケメンや美人の配偶者を得るなんてのも、一次欲求なんか、配偶者を得るんだから所属なんか、連れて歩いて「おおっ!」と言わせたいとか部下を家に連れてきて、うらやましがらせて自分の評価や富や権力を反映させるようなのはテレビなんかでは見るので、自尊なんか、もうそれが人生の目標で、自己実現なんか、本人もわからんでしょう。
一つの行為や欲求がどの階層のことかわからんし、たいてい一つの行為は、ある程度重要なものなら、同時に複数の欲求にまたがって、順序なんかない。
説明や図がしっくりこない。
もう一つ。
マズローの説は、もともとはお金をしっかりあげても、人間はそれだけじゃないから、仕事にも生きがいや喜びを感じられるようにしましょうというのが正しいあり方でしょうに。
たみ家に使ってきた人達は、人間は自己実現することに喜びを見出せるんだから、お金なんかもらわなくても貢献や成長から喜びを得てそれで満足を得ればいいだろうと、正当な報酬を与えない理屈に使う人や
環境が整備されてない中で、それでもがんばれと本来整備する責任者が自分の責任を棚上げしつつ使ってくる人だった。
ダーウィンの進化論がダーウィンの意図と関係なく、差別主義者に曲解されたり悪用されるように、使う人が理解してなかったり、悪用するので、五段階欲求説には反感を高校時代から感じました。
外食産業の名ばかり管理職問題でも、某大手外食企業が、「店長は店に貢献すること自体が喜び、だから手当てなんか必要ない。」と記者のインタビューに答えたのがありました。
マズローの名前は出してないけど、搾取のために悪用されやすいんです。
①現実に合わない。
②使う人が理解してない。または、搾取のために悪用されやすい。
この2点をたみ家は、ずっとおかしいと思ってたわけです。
ああ、用事でまた途中だなあ。
このあたりは、自分の考え方の長年の集大成ともいえるから、店が終わったら続きを書こう。
Posted by たみ家 at
07:58
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統合の前提 3 何となく明治以降
2008年06月08日
1865年ぐらいから40年間ぐらいの産業の発展を「第2次産業革命」というらしい。
IT革命のことをそういう人もいたりしますが、おおむね歴史的には、イギリスの産業革命に対して、このころに、アメリカ、ドイツ、フランスなどが工業化を進め、イギリスの立場を脅かしたあたりを「第2次」というのが多いようです。
ダイムラーが重い蒸気機関に代わるガソリンエンジンを発明して実用的な自動車を造れるようにし、フォードが大量生産に成功したり、エジソンやウェスティングハウスが出たり、ベッセマーが製鉄で革新的な方法で鋼の大量生産を実現させるなど、世界的に急激に生産力がアップし、農村から都市に大量に人が出てきて、大量生産が可能になって人も余るし、余剰ができるので、サービス業にも人が移るようにもなってきました。
こういう事情が、恐慌やブロック経済化を招いて、第一次世界大戦につながったり、都市や労働者の問題をいろいろ考えないといけないようになったりしたところでもあると思います。
こういう大波の中で、日本が明治維新から日露戦争までやった時期が、世界的にはちょうど「第2次産業革命」といわれているそうです。
で、この頃に、経営学とか経営組織論とかいうものが出てきたらしい。
だいたいアメリカに現れたテイラーがその祖といわれています。
経営組織論の何を見ても、最初に書いてあるのは、まずテイラー。
生産手段が変化したら、社会が変わり、人に対する考え方もいろいろ変わる。
マルクスもそんなことを言っていたと思う。
急激に生産手段が発達し、大量生産ができるようになったら、組織も難しくなるだろうなあ。
ここでも、「統合の前提 1『問題とは』」で書いたように、「何かが何かと適合しなくなった」というわけで、生産手段の発達に賃金制度や組織が適合しなくなっとるのが問題なわけです。
テイラーは、弁護士目指してたけど、目が悪いので断念して、工場技術者になった人でした。
それまでは、工場労働者の賃金は、単純出来高制が多かったけど、道具が発展して大量生産できるようになったので、造れるだけ造ったら、売れるかどうかもわからんのに、賃金ばっかり高くなって、売れないときも大きな人件費を負担しなくてはならなくなるので、使用者が人を辞めさせたり、単位あたりの賃金を切り下げるようなことをやった。
もう、みんな都市労働者ですから造りすぎれるからといって、賃金下げられたり、人手が余るからといって辞めさせられたら、生きていけません。
がんばり過ぎるヤツは許せんのです。
人がいらんようになるでないか。
できるヤツに合わせても、賃金の上限があるので、できんヤツの賃金が切り下げられるでないか。
そうなると
「みんなで雇用を守ろうで、仲良くやろうで、がんばって抜け駆けするヤツは許さんぞ。それにどうせがんばったってできるヤツは上限よりもやってももうもらえんのやから、そこそこ手抜きしようぜ。みんなでやらんと1人でさぼったら辞めさせられるから団結しようぜ。」
みたいになるのも無理ない。
そこで、経営者が悩むようになった。
また、評価の客観的な基準もまだまだだったので、人種差別もあっただろうし、移民も多く、言葉も通じないような人達もいた中で、人間関係もひどいとこもあったかもしれない。
テイラーは、技術者だけに、下っ端管理職としても、現場人としても、状況を何とかしたいと思ったんではないだろうか。
こないだの「あしたさぬき」のアンケートに、ブログのネタについてで「書ききれなくて困る」って回答を追加して欲しかったなあ。
途中にして、用事に行かないと。
IT革命のことをそういう人もいたりしますが、おおむね歴史的には、イギリスの産業革命に対して、このころに、アメリカ、ドイツ、フランスなどが工業化を進め、イギリスの立場を脅かしたあたりを「第2次」というのが多いようです。
ダイムラーが重い蒸気機関に代わるガソリンエンジンを発明して実用的な自動車を造れるようにし、フォードが大量生産に成功したり、エジソンやウェスティングハウスが出たり、ベッセマーが製鉄で革新的な方法で鋼の大量生産を実現させるなど、世界的に急激に生産力がアップし、農村から都市に大量に人が出てきて、大量生産が可能になって人も余るし、余剰ができるので、サービス業にも人が移るようにもなってきました。
こういう事情が、恐慌やブロック経済化を招いて、第一次世界大戦につながったり、都市や労働者の問題をいろいろ考えないといけないようになったりしたところでもあると思います。
こういう大波の中で、日本が明治維新から日露戦争までやった時期が、世界的にはちょうど「第2次産業革命」といわれているそうです。
で、この頃に、経営学とか経営組織論とかいうものが出てきたらしい。
だいたいアメリカに現れたテイラーがその祖といわれています。
経営組織論の何を見ても、最初に書いてあるのは、まずテイラー。
生産手段が変化したら、社会が変わり、人に対する考え方もいろいろ変わる。
マルクスもそんなことを言っていたと思う。
急激に生産手段が発達し、大量生産ができるようになったら、組織も難しくなるだろうなあ。
ここでも、「統合の前提 1『問題とは』」で書いたように、「何かが何かと適合しなくなった」というわけで、生産手段の発達に賃金制度や組織が適合しなくなっとるのが問題なわけです。
テイラーは、弁護士目指してたけど、目が悪いので断念して、工場技術者になった人でした。
それまでは、工場労働者の賃金は、単純出来高制が多かったけど、道具が発展して大量生産できるようになったので、造れるだけ造ったら、売れるかどうかもわからんのに、賃金ばっかり高くなって、売れないときも大きな人件費を負担しなくてはならなくなるので、使用者が人を辞めさせたり、単位あたりの賃金を切り下げるようなことをやった。
もう、みんな都市労働者ですから造りすぎれるからといって、賃金下げられたり、人手が余るからといって辞めさせられたら、生きていけません。
がんばり過ぎるヤツは許せんのです。
人がいらんようになるでないか。
できるヤツに合わせても、賃金の上限があるので、できんヤツの賃金が切り下げられるでないか。
そうなると
「みんなで雇用を守ろうで、仲良くやろうで、がんばって抜け駆けするヤツは許さんぞ。それにどうせがんばったってできるヤツは上限よりもやってももうもらえんのやから、そこそこ手抜きしようぜ。みんなでやらんと1人でさぼったら辞めさせられるから団結しようぜ。」
みたいになるのも無理ない。
そこで、経営者が悩むようになった。
また、評価の客観的な基準もまだまだだったので、人種差別もあっただろうし、移民も多く、言葉も通じないような人達もいた中で、人間関係もひどいとこもあったかもしれない。
テイラーは、技術者だけに、下っ端管理職としても、現場人としても、状況を何とかしたいと思ったんではないだろうか。
こないだの「あしたさぬき」のアンケートに、ブログのネタについてで「書ききれなくて困る」って回答を追加して欲しかったなあ。
途中にして、用事に行かないと。
Posted by たみ家 at
22:02
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統合の前提 2 欲求をやりくりする存在
2008年06月08日
経営学についていくつかの分け方があると思う。
一つは組織をどうするかの経営組織論とか?
二つ目は、おぜにさんをどこにどう投入したらいいかの財務投資論とか?
みたいな大雑把な分け方があると思う。
もう座学はうどん屋始めるちょっと前からまったくやってないので、そんな感じとしか言えませんが。
経営学の組織論って、兆億単位が当たり前のおぜにさんの世界で、人を働かすための研究してるわけだから、ある意味、「人とは何か」みたいな研究におぜにさんが最も投入された世界かもしれない。
「人とは何か」だから、動物学者や精神医や心理学者もたくさんからんでるし、法学者が技術者に転身したからそういう見方が発達したみたいに、いろんな分野から「人とは何か」を考える知見が結集している。
ところが、経営学の組織論って、人聞きが悪い言葉を使えば、経営者が「倒れん程度に人をこきつかって、できるだけ長く使って、最高の生産性と収益を上げるため」の研究だったりもするわけですよね。
平家物語や日本書紀などが「勝者がつくった歴史」と言われますが、経営学の組織論も「持てる者がつくった持てる者のツールとしての人間像探求」とも言えるわけです。
もちろん、様々な修正が加えられてますが、ぶっちゃけ経営者がおぜにさんを投入して展開する人間研究は儲けのため以外に普通にはないってのはわかりきってるでしょう。
それにおぜにさん使って儲けと関係ない研究しとったら、株主総会で怒こられるじゃないですか。
いいことしてるようでも、現場や組合組織の反乱を恐れてのことだったり、企業イメージを損ねんためだったり、お上にしょっぴかれないように法令をいちおう守っとくためだったり、「経営」のための学問である以上、それを否定するのは背理でしょう。
しかし、兆億単位のおぜにさんの世界のことだけに、研究は他の分野よりもよく進んでいることは多いかもしれません。
で、人間のモデルとして、
ちょっと前提を飛ばしますが
「人とはどういう存在か」ついて、「経済人モデル」から「経営人モデル」とか「社会人モデル」とかいう言い方をよくします。
「経済人」とか「経営人」とか「社会人」てのは訳語が日本語の語感と一致してないので、ビジネスマンのことでも、経営者のことでも、学生などに対する社会人の意味でもまったくありません。
「経済人モデル」っていうのは、人間はより報酬を求めるなど合理的な選択をするであろうという、合理的な生き方をする存在とした人間像モデルです。
民主主義ってのも、人間は合理的に問題を考えて投票したり政治参加をするであろうという前提にあります。
けっして、顔がかっこいいからとか、会ったことはないけど幼稚園が同じだからという理由で議員を選ぶことは前提にしてません。
「経営人モデル」ってのは、今ある与えられた情況のなかで選択し、一定の成果があれば満足し、一定の充足を得ればベストを求めて行動なんかはしないだろうという人間像モデルです。
知らないけど、たぶん、「経済」が「エコノミック」、「経営」が「マネッジ」、「社会」が「ソーシャル」みたいな原語なんで、直訳的に日本語にしたらヘンな日本語になってしまったってとこではないでしょうか?
たみ家は、ここで、
「人間は、欲求をやりくりする存在である。」
という
「欲求人モデル」
の人間像を立てておきます。
「経営人モデル」と似てるのですが、合理的でも欲求にないことはしないことを強調しておきたいし、欲求の性質や行動との諸関係、またこれを何とかすることの重要性を強調しようというものです。
ただ、漠然と最適を求めたり思ったりはしますが、行動の段になると、思ってるだけのことはしないし、やったこともそこそこの満足を得た段階で、まあいいやとなります。
みなさん。
禁煙もメタボ対策も案外うまくいかんじゃん。
やらなきゃいけないことはわかってるのに。
強い欲求に支えられて、優先順位を1番か2番には持ってこないと、人間3番目あたりの意識は急に弱くなるから、まあ2番の欲求にないとせんね。
また、合理的にはやっちゃまずいけど、うっかり殴ってしまったとか、U草先生のように、日本国内でも最高峰に合理的に考えられる人でありながら、爆発的な欲求を何とかできずに、踏み外してしまうこともあります。
そのときは、人生全部と同じ重さが、意識下ではあったり、衝動爆発で、合理性飛んでしまったり。
そうすると、欲求に支えられたことはやるので、好きなことが自分や人様の役に立つことだったり、そういう風に誘導できるなら、ムリない範囲でやれるならやっとけばいいねってことにもなるし、先般、書いた方程式の次数の話ともつながります。
欲求って、ビール1杯目はうまいけど、10杯目はいらんのと同じで、欲しくてしょうがなくても、どっかで欲求が頭打ちになったり長続きしなかったりするし、途中から焼酎が欲しくもなるし、当然料理もいるし、もうええかげん食べたら、気の合うマスターがいるとこや、バンドやってるとこや若い女性がいるとこにも行きたいとなる。
「欲求のやりくり」には資源の最適配分と同じ理屈や限界効用逓減の法則が働くように、ええ具合の量と組み合わせとタイミングの選択をしたり。
また、努力するとか目的に向かうってのはたいてい、欲求のコントロールだし、だんなや嫁の欠点をがまんして欲求を抑えたり、しょうもない上司でもいちおう持ち上げておいたり、目をつぶるのも、物事や関係を長続きさすための欲求のやりくり(マネジメント)の意味があると思う。
人は合理的に動く存在でなく、欲求にないことはせんし、欲求に動かされてそれをやりくりしていく存在であり、一番危険なことは欲求のやりくりに失敗して、たとえば(人によっては会社がいやだっただけでやりたいこともなかったのに)できもせん事業に手を出したり、カードショッピングしすぎての借金地獄、飲みすぎて病気、カッとして犯罪とかすることだと思う。
これらは、マズローの段階欲求説への疑問や、批判が持つ正の力と危なさのコントロールなどいろいろなとこへと波及していきます。
今まで書いてきたことのことをほとんど全部つないでいかないと説明がつかないというか、つながりがはっきりしないところに来たので、それらのつながりがいるとこの前提になるとこを書いてるとこです。
一つは組織をどうするかの経営組織論とか?
二つ目は、おぜにさんをどこにどう投入したらいいかの財務投資論とか?
みたいな大雑把な分け方があると思う。
もう座学はうどん屋始めるちょっと前からまったくやってないので、そんな感じとしか言えませんが。
経営学の組織論って、兆億単位が当たり前のおぜにさんの世界で、人を働かすための研究してるわけだから、ある意味、「人とは何か」みたいな研究におぜにさんが最も投入された世界かもしれない。
「人とは何か」だから、動物学者や精神医や心理学者もたくさんからんでるし、法学者が技術者に転身したからそういう見方が発達したみたいに、いろんな分野から「人とは何か」を考える知見が結集している。
ところが、経営学の組織論って、人聞きが悪い言葉を使えば、経営者が「倒れん程度に人をこきつかって、できるだけ長く使って、最高の生産性と収益を上げるため」の研究だったりもするわけですよね。
平家物語や日本書紀などが「勝者がつくった歴史」と言われますが、経営学の組織論も「持てる者がつくった持てる者のツールとしての人間像探求」とも言えるわけです。
もちろん、様々な修正が加えられてますが、ぶっちゃけ経営者がおぜにさんを投入して展開する人間研究は儲けのため以外に普通にはないってのはわかりきってるでしょう。
それにおぜにさん使って儲けと関係ない研究しとったら、株主総会で怒こられるじゃないですか。
いいことしてるようでも、現場や組合組織の反乱を恐れてのことだったり、企業イメージを損ねんためだったり、お上にしょっぴかれないように法令をいちおう守っとくためだったり、「経営」のための学問である以上、それを否定するのは背理でしょう。
しかし、兆億単位のおぜにさんの世界のことだけに、研究は他の分野よりもよく進んでいることは多いかもしれません。
で、人間のモデルとして、
ちょっと前提を飛ばしますが
「人とはどういう存在か」ついて、「経済人モデル」から「経営人モデル」とか「社会人モデル」とかいう言い方をよくします。
「経済人」とか「経営人」とか「社会人」てのは訳語が日本語の語感と一致してないので、ビジネスマンのことでも、経営者のことでも、学生などに対する社会人の意味でもまったくありません。
「経済人モデル」っていうのは、人間はより報酬を求めるなど合理的な選択をするであろうという、合理的な生き方をする存在とした人間像モデルです。
民主主義ってのも、人間は合理的に問題を考えて投票したり政治参加をするであろうという前提にあります。
けっして、顔がかっこいいからとか、会ったことはないけど幼稚園が同じだからという理由で議員を選ぶことは前提にしてません。
「経営人モデル」ってのは、今ある与えられた情況のなかで選択し、一定の成果があれば満足し、一定の充足を得ればベストを求めて行動なんかはしないだろうという人間像モデルです。
知らないけど、たぶん、「経済」が「エコノミック」、「経営」が「マネッジ」、「社会」が「ソーシャル」みたいな原語なんで、直訳的に日本語にしたらヘンな日本語になってしまったってとこではないでしょうか?
たみ家は、ここで、
「人間は、欲求をやりくりする存在である。」
という
「欲求人モデル」
の人間像を立てておきます。
「経営人モデル」と似てるのですが、合理的でも欲求にないことはしないことを強調しておきたいし、欲求の性質や行動との諸関係、またこれを何とかすることの重要性を強調しようというものです。
ただ、漠然と最適を求めたり思ったりはしますが、行動の段になると、思ってるだけのことはしないし、やったこともそこそこの満足を得た段階で、まあいいやとなります。
みなさん。
禁煙もメタボ対策も案外うまくいかんじゃん。
やらなきゃいけないことはわかってるのに。
強い欲求に支えられて、優先順位を1番か2番には持ってこないと、人間3番目あたりの意識は急に弱くなるから、まあ2番の欲求にないとせんね。
また、合理的にはやっちゃまずいけど、うっかり殴ってしまったとか、U草先生のように、日本国内でも最高峰に合理的に考えられる人でありながら、爆発的な欲求を何とかできずに、踏み外してしまうこともあります。
そのときは、人生全部と同じ重さが、意識下ではあったり、衝動爆発で、合理性飛んでしまったり。
そうすると、欲求に支えられたことはやるので、好きなことが自分や人様の役に立つことだったり、そういう風に誘導できるなら、ムリない範囲でやれるならやっとけばいいねってことにもなるし、先般、書いた方程式の次数の話ともつながります。
欲求って、ビール1杯目はうまいけど、10杯目はいらんのと同じで、欲しくてしょうがなくても、どっかで欲求が頭打ちになったり長続きしなかったりするし、途中から焼酎が欲しくもなるし、当然料理もいるし、もうええかげん食べたら、気の合うマスターがいるとこや、バンドやってるとこや若い女性がいるとこにも行きたいとなる。
「欲求のやりくり」には資源の最適配分と同じ理屈や限界効用逓減の法則が働くように、ええ具合の量と組み合わせとタイミングの選択をしたり。
また、努力するとか目的に向かうってのはたいてい、欲求のコントロールだし、だんなや嫁の欠点をがまんして欲求を抑えたり、しょうもない上司でもいちおう持ち上げておいたり、目をつぶるのも、物事や関係を長続きさすための欲求のやりくり(マネジメント)の意味があると思う。
人は合理的に動く存在でなく、欲求にないことはせんし、欲求に動かされてそれをやりくりしていく存在であり、一番危険なことは欲求のやりくりに失敗して、たとえば(人によっては会社がいやだっただけでやりたいこともなかったのに)できもせん事業に手を出したり、カードショッピングしすぎての借金地獄、飲みすぎて病気、カッとして犯罪とかすることだと思う。
これらは、マズローの段階欲求説への疑問や、批判が持つ正の力と危なさのコントロールなどいろいろなとこへと波及していきます。
今まで書いてきたことのことをほとんど全部つないでいかないと説明がつかないというか、つながりがはっきりしないところに来たので、それらのつながりがいるとこの前提になるとこを書いてるとこです。
Posted by たみ家 at
14:08
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統合への前提 1 「問題」とは
2008年06月08日
問題とか困ったことっていろいろあると思う。
それは、たいてい「何かが何かと適合してない」ことではないでしょうか?
乳幼児がおもちゃを呑み込む事故。
おもちゃは食べ物として適合してない。
呑み込むということは、そのおもちゃが安全に遊べる状態に適合してないということになるでしょう。
夫婦の不仲は、お互いの何かが合ってないんでしょう?
よく、「性格の不一致」とか「性の不一致」とか言いますが。
地方財政の危機は、入る税収としないといけないサービスが合ってない。
また、権限に対して遂行するための財源が下りてないとか。
結婚できない人、しない人は、自分の生き方と制度や結婚生活が適合しなかったり、相手に求める水準と自分の現状が一致してなかったり。
借金地獄の人は、自分の生活とおぜにさんを得る能力に不適合があったり、自分ができる事業でないことに手を出して失敗したなどの過去の不適合によるものだったり。
過酷な受験は、自分の実力と受ける学校や試験のレベルが合ってない。
癌細胞は、人が生きるのに合ってない性質である。
大地震でつぶれる家は、地殻運動のエネルギーの強さと家の強さが合ってないうえに、そんな100年に一度の事件に耐えられる強度は、みんなが家を造るときの予算や地震が起こる前の切実さに合わない。
今の民主主義の選挙制度も、制度と世の中の複雑さと責任を持つために要求される「選ぶ人々の意識」、「選ばれる側の意識」などに不適合があると思われる。
また、官僚や行政といわれる側は、大組織であり、大きなおぜにさんを持ってるし、長く現場にいる人が多い。
政治家の側は、大政党が組織的に取り組むような問題以外は、個人に毛が生えた程度の組織だったり、素人だったりするので、質問も役人に書かせるというし、役人が書いた方が実際にいい質問になるから、政治家の側がそれはそれでいいのだなんて開き直ったり。
あるべきと現実に不一致がある。
そうすると、もともと不適合ってこともあるけど、世の中がいろいろ変化するにしたがって、いつの間にか不適合になったことも多いと思う。
通信やコンピューターの発達や人口の増大による地球のサイズや、人間の身体や人間に必要なものの量との不適合は、ストレスやネット犯罪や食糧問題などを起こす。
働き手が多いうちは、年金制度はこの国に適合していたかもしれない。
単純な労働しかしてなかった時代やモノが足らなかった時代は、出来高制の純粋な成果主義は、公平さの点からも人々のやる気を出させて生産性を高める意味からも適合してたのかもしれない。
ところが、エンジンやベルトコンベアの発明など造る機械が発達したら、すぐに造り過ぎになってしまうし、食うに困らなくなると、人はおぜにさんを欲しがるために過酷な長時間労働を受け入れるより、遊びやゆとりを求めることもある。
問題や困るのは「何かが何かと適合してない」からっていうのは当たり前で、何も言ってないように思えるかもしれませんが、漫然と困ったりイライラするのと違って、必ず、何かと何かを探すことになるし、その関係を意識せざるを得なくなります。
その意味でイライラを解消したり、現実的な対応策を考えやすくするモノの見方だと思います。
「何かと何か」ということで、
片方の側にも問題を探し、もう一方の側にも問題を探し、
「不適合」ということで、
その関係を考えることになると思います。
たとえば
「家業を長く繁栄させたいけど、こどもは継ぎたがらない。」という不適合
じゃあ、こどもは、長時間労働や不安定さや3K的なとこに自分の考えとの不適合を見出してるかもしれません。
すると、自分の代で、財務的にもしっかりした会社にして、視察に海外に行けるようなレベルにしてみたら、継いでみたいと思うようになるかもしれない。
そうすると、売上を伸ばしたり多角化するために、人手や店舗に不適合があるのではないか、人手を入れた分、新しいサービスや商品を考案したり、マニュアル的なものを入れたりしないといけないかとか。
しかし、それはそれで、自分の代でやりたいことやできることとの不適合につながるかもしれないなど。
それは、たいてい「何かが何かと適合してない」ことではないでしょうか?
乳幼児がおもちゃを呑み込む事故。
おもちゃは食べ物として適合してない。
呑み込むということは、そのおもちゃが安全に遊べる状態に適合してないということになるでしょう。
夫婦の不仲は、お互いの何かが合ってないんでしょう?
よく、「性格の不一致」とか「性の不一致」とか言いますが。
地方財政の危機は、入る税収としないといけないサービスが合ってない。
また、権限に対して遂行するための財源が下りてないとか。
結婚できない人、しない人は、自分の生き方と制度や結婚生活が適合しなかったり、相手に求める水準と自分の現状が一致してなかったり。
借金地獄の人は、自分の生活とおぜにさんを得る能力に不適合があったり、自分ができる事業でないことに手を出して失敗したなどの過去の不適合によるものだったり。
過酷な受験は、自分の実力と受ける学校や試験のレベルが合ってない。
癌細胞は、人が生きるのに合ってない性質である。
大地震でつぶれる家は、地殻運動のエネルギーの強さと家の強さが合ってないうえに、そんな100年に一度の事件に耐えられる強度は、みんなが家を造るときの予算や地震が起こる前の切実さに合わない。
今の民主主義の選挙制度も、制度と世の中の複雑さと責任を持つために要求される「選ぶ人々の意識」、「選ばれる側の意識」などに不適合があると思われる。
また、官僚や行政といわれる側は、大組織であり、大きなおぜにさんを持ってるし、長く現場にいる人が多い。
政治家の側は、大政党が組織的に取り組むような問題以外は、個人に毛が生えた程度の組織だったり、素人だったりするので、質問も役人に書かせるというし、役人が書いた方が実際にいい質問になるから、政治家の側がそれはそれでいいのだなんて開き直ったり。
あるべきと現実に不一致がある。
そうすると、もともと不適合ってこともあるけど、世の中がいろいろ変化するにしたがって、いつの間にか不適合になったことも多いと思う。
通信やコンピューターの発達や人口の増大による地球のサイズや、人間の身体や人間に必要なものの量との不適合は、ストレスやネット犯罪や食糧問題などを起こす。
働き手が多いうちは、年金制度はこの国に適合していたかもしれない。
単純な労働しかしてなかった時代やモノが足らなかった時代は、出来高制の純粋な成果主義は、公平さの点からも人々のやる気を出させて生産性を高める意味からも適合してたのかもしれない。
ところが、エンジンやベルトコンベアの発明など造る機械が発達したら、すぐに造り過ぎになってしまうし、食うに困らなくなると、人はおぜにさんを欲しがるために過酷な長時間労働を受け入れるより、遊びやゆとりを求めることもある。
問題や困るのは「何かが何かと適合してない」からっていうのは当たり前で、何も言ってないように思えるかもしれませんが、漫然と困ったりイライラするのと違って、必ず、何かと何かを探すことになるし、その関係を意識せざるを得なくなります。
その意味でイライラを解消したり、現実的な対応策を考えやすくするモノの見方だと思います。
「何かと何か」ということで、
片方の側にも問題を探し、もう一方の側にも問題を探し、
「不適合」ということで、
その関係を考えることになると思います。
たとえば
「家業を長く繁栄させたいけど、こどもは継ぎたがらない。」という不適合
じゃあ、こどもは、長時間労働や不安定さや3K的なとこに自分の考えとの不適合を見出してるかもしれません。
すると、自分の代で、財務的にもしっかりした会社にして、視察に海外に行けるようなレベルにしてみたら、継いでみたいと思うようになるかもしれない。
そうすると、売上を伸ばしたり多角化するために、人手や店舗に不適合があるのではないか、人手を入れた分、新しいサービスや商品を考案したり、マニュアル的なものを入れたりしないといけないかとか。
しかし、それはそれで、自分の代でやりたいことやできることとの不適合につながるかもしれないなど。
Posted by たみ家 at
12:09
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その点イオンは賢い
2008年06月08日
マイ箸って、お洒落やファッションとしてやるのは大いに結構だと思います。
華やかな箸袋もどんどん増えるのもいいと思います。
ただ、環境にいいって言わんとってほしい。
消費としてファッションとしてやることなら、お洒落やファッションは何だって資源は消費するんだから、別に悪いことでも何でもない。
ただ、環境にいいと言った時点で、生業として、割箸を使ってる飲食業者や割箸の製造販売業者を環境に悪い存在と間接的に非難してることになるわけです。
じゃあ、ほんとはどうなん?
って、言いたくもなるわけです。
割箸1膳節約するために、車でしかいけんとこに、ガソリン燃やして行って、環境にいいわけないですから。
ただ、ファッションや嗜好としての消費なら、100円台のうどんをはしごされに、遠方から橋を渡られるのもレジャーですから、それは当然楽しみとしてありなんです。
お洒落な着物や帯をするような楽しみとして、華やかな箸袋を持ってる方は素敵だなあと、たみ家個人も思います。
マイ箸の環境効果に疑問を投げかけ続けてましたが、個人的に特に女性がマイ箸持ってるとかわいらしいなあとは思います。
ただ、環境に良いからって言われると、本人がいい気持ちでやってることを批判してがっかりさせたくない気持ちとこういう誤解は解いていかないとという軽い使命感めいたものがこれまた軽く葛藤します。
そのあたり、環境にいいとPRして、集客したり販売するのはある意味常道なんでしょう。
そういう話として、イオンさんの市民植樹なんかは賢いなあと思う。
イオンさんは、敷地にいろいろ近隣住民などの参加のもとに、植樹して、市民参加で環境にいいことをしてるとPRに利用しますが、植木屋さんに植えさせると人件費がいるけど、植木だけ用意して近隣住民が植えると人件費がほとんどタダになるので、植木代だけで、植木屋さんにしてもらうのの4割程度で植樹できてしまうそうです。
そのうえ、住民参加のもと地元や環境にやさしいことをPRし、近隣住民に当事者意識を持たせ、進出して来たことへの敵対心を緩和させ、○周年植樹祭とか、ずっとイベントのタネにもできます。
イオンは環境を利用するにしても施設整備のコストカットと売上や利益ともがっちりと結びつけさせた上で、いろんな関連効果や長い目での種まきまで同時にやってしまうとこが賢いと思う。
イオンは、大資本。
小資本が対抗するなら、2枚上手の知恵でアプローチしないと厳しそう。
華やかな箸袋もどんどん増えるのもいいと思います。
ただ、環境にいいって言わんとってほしい。
消費としてファッションとしてやることなら、お洒落やファッションは何だって資源は消費するんだから、別に悪いことでも何でもない。
ただ、環境にいいと言った時点で、生業として、割箸を使ってる飲食業者や割箸の製造販売業者を環境に悪い存在と間接的に非難してることになるわけです。
じゃあ、ほんとはどうなん?
って、言いたくもなるわけです。
割箸1膳節約するために、車でしかいけんとこに、ガソリン燃やして行って、環境にいいわけないですから。
ただ、ファッションや嗜好としての消費なら、100円台のうどんをはしごされに、遠方から橋を渡られるのもレジャーですから、それは当然楽しみとしてありなんです。
お洒落な着物や帯をするような楽しみとして、華やかな箸袋を持ってる方は素敵だなあと、たみ家個人も思います。
マイ箸の環境効果に疑問を投げかけ続けてましたが、個人的に特に女性がマイ箸持ってるとかわいらしいなあとは思います。
ただ、環境に良いからって言われると、本人がいい気持ちでやってることを批判してがっかりさせたくない気持ちとこういう誤解は解いていかないとという軽い使命感めいたものがこれまた軽く葛藤します。
そのあたり、環境にいいとPRして、集客したり販売するのはある意味常道なんでしょう。
そういう話として、イオンさんの市民植樹なんかは賢いなあと思う。
イオンさんは、敷地にいろいろ近隣住民などの参加のもとに、植樹して、市民参加で環境にいいことをしてるとPRに利用しますが、植木屋さんに植えさせると人件費がいるけど、植木だけ用意して近隣住民が植えると人件費がほとんどタダになるので、植木代だけで、植木屋さんにしてもらうのの4割程度で植樹できてしまうそうです。
そのうえ、住民参加のもと地元や環境にやさしいことをPRし、近隣住民に当事者意識を持たせ、進出して来たことへの敵対心を緩和させ、○周年植樹祭とか、ずっとイベントのタネにもできます。
イオンは環境を利用するにしても施設整備のコストカットと売上や利益ともがっちりと結びつけさせた上で、いろんな関連効果や長い目での種まきまで同時にやってしまうとこが賢いと思う。
イオンは、大資本。
小資本が対抗するなら、2枚上手の知恵でアプローチしないと厳しそう。
Posted by たみ家 at
00:14
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使い捨てハンカチと割箸
2008年06月07日
以前、ティッシュペーパー1枚と割箸1膳の使う木材の量は同じぐらいと聞いたことを引用しました。
はて、ほんとうにそうか?
と考えてみました。
うちの店だって、使われる割箸の膳数よりもティシュペーパーの枚数の方が消費数量多いですから。
マイ箸運動されてる方は、ティッシュペーパーの利用の削減にも神経を使っているのでしょうか?
製紙会社に聞いたり、調べものしなくても、おおむね正解にたどりつく方法はないかと思って考えたら、やっぱり、割箸の消費木材は、ティッシュペーパー1枚と同じぐらいだと思えました。
ティシュペーパー1枚っていう日常感覚は、2枚で1組になってる1組のこととさせて下さい。
すると、ネピアの未開封の1箱が240gぐらいで、空箱が40g程度なので、200組入ってるので、1組1gぐらいなわけです。
割箸が1膳が4gぐらいです。
すると、あれだけ柔らかい厳選された繊維は、乾燥木材の重量の半分も取り出せると思えないでしょう。
すると、木材4gから、2gとてもティシュペーパーは作れないことになり、ほぼ、割箸1膳は、ティッシュペーパー1枚と同等かそれ以下の量の木材しか消費してないだろうってことは、聞かなくても、考えるだけでほぼ完結します。
その考えでいくと、同じ約4gのA4コピー用紙は1枚で割箸よりもはるかに森林破壊してるわけです。
そうすると、ネットで見れる記事はネットで見ろ、新聞なんか、複数とるなとか、おおよそ文明文化を無視した話になります。
マイ箸運動をやってる方は、ティッシュペーパーを年間200枚使ったら、日本人の平均利用量の割箸分よりも森林破壊したことになるので、キンバリー・クラーク社が1924年にはじめて、使い捨てハンカチとして、売り出したティッシュペーパーを使わずに、ハンカチを何度も洗って鼻をかまないといけないわけです。
使い捨てのティッシュペーパーを使わずにハンカチを何度も洗う行為と、使い捨ての割箸を使わずにマイ箸を洗う行為は、構造的に完全相似ではないでしょうか?
衛生的な問題も、洗うと手間がかかったり、水を汚す問題もそっくりです。もし、ティッシュペーパーがもったいなくなくて、割箸がもったいないってのであれば、考え方に問題があると思う。
中国産割箸は、シラカバやハクヨウが多いけど、ティッシュの並の分は、北米の針葉樹、ええ分は柔らかさを出すためユーカリのパルプを使うのかな。
たみ家が間伐材割箸を使おうというのは、割箸に使われた木材の消費を抑えるためでなく、国内の林業の振興のためです。
ティッシュペーパーの消費量は、日本は東京オリンピックの頃(正確には1963年か、何かオリンピックに合わせて日本も西洋化しないとっていう匂いがしますね。)にはじめて上陸したそうですが、人口が3億人強のアメリカの3倍も消費があるので、1人当たりだと、アメリカ人の約8倍も使ってることになります。
そんなら、割箸のことを言うよりも、銀行や消費者金融その他の無料景品にティッシュペーパーを入れたり配布するのをやめさせる方が何十倍も森林破壊を遅らせる効果があるのでは?
日本人は、人口は世界の約50分の1ですが、紙の消費は約12分の1なので、世界平均の4倍紙を使ってるそうです。
ただ、もったいないとか環境に悪いからといって、新聞読むのをやめたり、紙の消費を減らして、車乗るのやめて、落とすときに水を汚すから化粧はやめましょうとか、そんなことに一生懸命にわざわざ行動を起こして時間を使って、生産性の低い、活力のない、前向きな結果が先にないことで皆が皆の行動を批判しあう、不幸せな国にならんのだろうかと気になります。
使うべきを使って、効率よく無駄を省いて、それでも良くないなら、意味のある代替手段を考えるというアプローチでいいんでないでしょうか?
はて、ほんとうにそうか?
と考えてみました。
うちの店だって、使われる割箸の膳数よりもティシュペーパーの枚数の方が消費数量多いですから。
マイ箸運動されてる方は、ティッシュペーパーの利用の削減にも神経を使っているのでしょうか?
製紙会社に聞いたり、調べものしなくても、おおむね正解にたどりつく方法はないかと思って考えたら、やっぱり、割箸の消費木材は、ティッシュペーパー1枚と同じぐらいだと思えました。
ティシュペーパー1枚っていう日常感覚は、2枚で1組になってる1組のこととさせて下さい。
すると、ネピアの未開封の1箱が240gぐらいで、空箱が40g程度なので、200組入ってるので、1組1gぐらいなわけです。
割箸が1膳が4gぐらいです。
すると、あれだけ柔らかい厳選された繊維は、乾燥木材の重量の半分も取り出せると思えないでしょう。
すると、木材4gから、2gとてもティシュペーパーは作れないことになり、ほぼ、割箸1膳は、ティッシュペーパー1枚と同等かそれ以下の量の木材しか消費してないだろうってことは、聞かなくても、考えるだけでほぼ完結します。
その考えでいくと、同じ約4gのA4コピー用紙は1枚で割箸よりもはるかに森林破壊してるわけです。
そうすると、ネットで見れる記事はネットで見ろ、新聞なんか、複数とるなとか、おおよそ文明文化を無視した話になります。
マイ箸運動をやってる方は、ティッシュペーパーを年間200枚使ったら、日本人の平均利用量の割箸分よりも森林破壊したことになるので、キンバリー・クラーク社が1924年にはじめて、使い捨てハンカチとして、売り出したティッシュペーパーを使わずに、ハンカチを何度も洗って鼻をかまないといけないわけです。
使い捨てのティッシュペーパーを使わずにハンカチを何度も洗う行為と、使い捨ての割箸を使わずにマイ箸を洗う行為は、構造的に完全相似ではないでしょうか?
衛生的な問題も、洗うと手間がかかったり、水を汚す問題もそっくりです。もし、ティッシュペーパーがもったいなくなくて、割箸がもったいないってのであれば、考え方に問題があると思う。
中国産割箸は、シラカバやハクヨウが多いけど、ティッシュの並の分は、北米の針葉樹、ええ分は柔らかさを出すためユーカリのパルプを使うのかな。
たみ家が間伐材割箸を使おうというのは、割箸に使われた木材の消費を抑えるためでなく、国内の林業の振興のためです。
ティッシュペーパーの消費量は、日本は東京オリンピックの頃(正確には1963年か、何かオリンピックに合わせて日本も西洋化しないとっていう匂いがしますね。)にはじめて上陸したそうですが、人口が3億人強のアメリカの3倍も消費があるので、1人当たりだと、アメリカ人の約8倍も使ってることになります。
そんなら、割箸のことを言うよりも、銀行や消費者金融その他の無料景品にティッシュペーパーを入れたり配布するのをやめさせる方が何十倍も森林破壊を遅らせる効果があるのでは?
日本人は、人口は世界の約50分の1ですが、紙の消費は約12分の1なので、世界平均の4倍紙を使ってるそうです。
ただ、もったいないとか環境に悪いからといって、新聞読むのをやめたり、紙の消費を減らして、車乗るのやめて、落とすときに水を汚すから化粧はやめましょうとか、そんなことに一生懸命にわざわざ行動を起こして時間を使って、生産性の低い、活力のない、前向きな結果が先にないことで皆が皆の行動を批判しあう、不幸せな国にならんのだろうかと気になります。
使うべきを使って、効率よく無駄を省いて、それでも良くないなら、意味のある代替手段を考えるというアプローチでいいんでないでしょうか?
Posted by たみ家 at
23:10
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間伐材割箸
2008年06月07日
ついに、昨日の四国新聞の「一日一言」で、取り上げられてましたね。
県産間伐材による割箸作りにめどが立ったと。
今まで作り手が現れなかったが、ついに。
しかし、用意されるのは、まだ2万膳なので、うち1店の年間さえまったくまかなえない。
そこで、若者向けのイベントで活用するらしい。
先般、あるここのブロガーの方に、間伐材割箸が1膳2.2円だとおうかがいした。
今の中国産は1膳1円。
県産だとどうなるだろうか?
正直、うちのような店は、客単価は低い。
客数は飲食業界の中では売上の割りに多い。
うちがラーメン屋や居酒屋の単価取れてるなら迷いはない。
ただでさえ、値上要因が多いうえに、お客さんの喜びと本来関係ない部分でコストアップするのは、値下げを抑えている現状ではしにくいとこがある。
しかし、6月の環境月間とか、箸にちなむ月(8月を「ハシガツ」で無理やり)とか、(そういうのあるんなら)林業月間とか、年間の2、3ヶ月分ぐらい、1膳3円程度までなら、そう無理もないので入れてみたいですね。
1膳3円で、年間はちょっとうちの選択としては厳しいなあ。
こんなこと(大事かもしれないが、死活問題でないし、お客さんの直接満足にもつながらないこと)で、年間10万円以上使うなら、遅れている厨房設備の更新や予期せぬ故障に備えて修繕積み立てでもしておかないとやれん。
消費者が環境にやさしいお店や企業を選ぶ時代とかいう方もいらっしゃいますが、セルフうどん店で、それを押し出して集客を狙うってのは、ちょっと情けないというか、それで選ぶってことは、他が何かやればそこを選ぶのだから、定着しないお客さんということにならないだろうか?
うちはあまりしたくないなあ。
とりあえず、いつうちに回って来そうか、こっちから関係者の方に聞いてみよう。
県産間伐材による割箸作りにめどが立ったと。
今まで作り手が現れなかったが、ついに。
しかし、用意されるのは、まだ2万膳なので、うち1店の年間さえまったくまかなえない。
そこで、若者向けのイベントで活用するらしい。
先般、あるここのブロガーの方に、間伐材割箸が1膳2.2円だとおうかがいした。
今の中国産は1膳1円。
県産だとどうなるだろうか?
正直、うちのような店は、客単価は低い。
客数は飲食業界の中では売上の割りに多い。
うちがラーメン屋や居酒屋の単価取れてるなら迷いはない。
ただでさえ、値上要因が多いうえに、お客さんの喜びと本来関係ない部分でコストアップするのは、値下げを抑えている現状ではしにくいとこがある。
しかし、6月の環境月間とか、箸にちなむ月(8月を「ハシガツ」で無理やり)とか、(そういうのあるんなら)林業月間とか、年間の2、3ヶ月分ぐらい、1膳3円程度までなら、そう無理もないので入れてみたいですね。
1膳3円で、年間はちょっとうちの選択としては厳しいなあ。
こんなこと(大事かもしれないが、死活問題でないし、お客さんの直接満足にもつながらないこと)で、年間10万円以上使うなら、遅れている厨房設備の更新や予期せぬ故障に備えて修繕積み立てでもしておかないとやれん。
消費者が環境にやさしいお店や企業を選ぶ時代とかいう方もいらっしゃいますが、セルフうどん店で、それを押し出して集客を狙うってのは、ちょっと情けないというか、それで選ぶってことは、他が何かやればそこを選ぶのだから、定着しないお客さんということにならないだろうか?
うちはあまりしたくないなあ。
とりあえず、いつうちに回って来そうか、こっちから関係者の方に聞いてみよう。
Posted by たみ家 at
06:50
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おぜにさんの3大機能 3 ある地域ない地域
2008年06月05日
そうそう、おぜにさんのことを長いこと書いてる理由は、人と社会をつなぐ関係の中で最も普遍性が高く、重要度も比較的高い、
普遍性 × 重要性 = が最も大きそうな、おぜにさんに対する観念をいじくってたら、地域の活力に関するヒントがぽろぽろって出てくるのではないかと思って、またも頭の体操をしております。
いろんな教科書の類に書いてあるおぜにさん(貨幣)の3大機能は
①価値の尺度や表示の機能
②価値の蓄積機能
③交換を容易にする機能
ということになってます。
よく、「幸せはカネじゃない。」とかおっしゃる方がいますが、幸せとおぜにさんが関係ないのはどういう場合か、逆から考えてみたい。
これも今朝から初めて考えたことだから、ちょっと荒っぽい。
①は、価値を表すので、権威・看板
②は、蓄えておけるので、いろんな場面や時に、オプションを持てる
③は、価値の交換を容易にするので、社会の活動のスピードを速める。
動きが速まれば、経済活動は拡大再生産性があるのが前提なので、経済的価値が大きくなるのが速まるともいえるかもしれない。
つまり、
①、おぜにさんのある地域は、魅力のある地域としての尺度として、みんなが欲しがるおぜにさんの量が大きいという看板があり、(テレビでいうと視聴率至上主義みたいなものか)それがあるということは優れた地域なのかなという権威づけをされるので、人が集まりやすい。
よって魅力的になりやすいし、よりおぜにさんも多くなりやすい。
そして、
②、都会でも田舎でもいちおう日本ではたいてい人は生きていけるので、差はオプションといえるでしょう。
ってことは、おぜにさんがあると都会になれるし、蓄積があれば、文化や芸術などちょっとした余裕が出るし、いろんな先駆的な試みに寛容になれるでしょう。
ってことは、より魅力的になれる。
また
③、処分できない不動産など流動性の低い資産しかなかったり、義務的経費の率が高い状態では、取引もできない血のめぐりも悪いですが、流動性資産のおぜにさんが大きいと交換が容易な状態になるので、社会の動きのスピードが速くなり、血のめぐりが良くなり、熱が入る。
当然、活力が高まるし、拡大再生産性から、おぜにさんがまた多くなりやすい。
ってことで、やっぱり、地域にはおぜにさんが大事。
じゃあ、「ゼニで幸せになるんやない。」というのは、
たとえば、熱烈に愛し合う二人の間に、社会の権威は関係なあい。
君しかいない。あなたしかいない。のだから、オプションなんか関係ないなあい。
君とボクとの間ではゆっくり時間が流れていてほしいので、スピードなんか関係ないなあい。
とか
自分の価値観をとてもしっかり持っている場合なんかが典型ではないでしょうか?
濃密な人間関係を基礎にするか、財物を媒介しない頭の中でかなりはっきりした世界を持っている場合に関しては、おぜにさんは入ってきにくいのではないでしょうか?
映画の中の南の島は、恋と音楽とパパイヤがあって、あんまり頭の中の世界はいらんから、それはそれで幸せかも。
濃密な人間関係と、はっきりできあがった価値観・世界観。
これには普遍性があるのか?また、それらを持ってる人が多かったとしても、いろんなパターンの人間関係や社会的事象をそれをもとに処理できるか?
世界観をじっくりわかりあう前に、おぜにさんを媒介して、何でも処理するわなあ。
今朝、急に考え始めたことだから
おぜにさんがない地域とある地域は何が違ってくるのか?
おぜにさんが介在しない幸せとはどういうのがあるのか?
これは、どっかでまたもうちょっと掘り下げてみたい。
普遍性 × 重要性 = が最も大きそうな、おぜにさんに対する観念をいじくってたら、地域の活力に関するヒントがぽろぽろって出てくるのではないかと思って、またも頭の体操をしております。
いろんな教科書の類に書いてあるおぜにさん(貨幣)の3大機能は
①価値の尺度や表示の機能
②価値の蓄積機能
③交換を容易にする機能
ということになってます。
よく、「幸せはカネじゃない。」とかおっしゃる方がいますが、幸せとおぜにさんが関係ないのはどういう場合か、逆から考えてみたい。
これも今朝から初めて考えたことだから、ちょっと荒っぽい。
①は、価値を表すので、権威・看板
②は、蓄えておけるので、いろんな場面や時に、オプションを持てる
③は、価値の交換を容易にするので、社会の活動のスピードを速める。
動きが速まれば、経済活動は拡大再生産性があるのが前提なので、経済的価値が大きくなるのが速まるともいえるかもしれない。
つまり、
①、おぜにさんのある地域は、魅力のある地域としての尺度として、みんなが欲しがるおぜにさんの量が大きいという看板があり、(テレビでいうと視聴率至上主義みたいなものか)それがあるということは優れた地域なのかなという権威づけをされるので、人が集まりやすい。
よって魅力的になりやすいし、よりおぜにさんも多くなりやすい。
そして、
②、都会でも田舎でもいちおう日本ではたいてい人は生きていけるので、差はオプションといえるでしょう。
ってことは、おぜにさんがあると都会になれるし、蓄積があれば、文化や芸術などちょっとした余裕が出るし、いろんな先駆的な試みに寛容になれるでしょう。
ってことは、より魅力的になれる。
また
③、処分できない不動産など流動性の低い資産しかなかったり、義務的経費の率が高い状態では、取引もできない血のめぐりも悪いですが、流動性資産のおぜにさんが大きいと交換が容易な状態になるので、社会の動きのスピードが速くなり、血のめぐりが良くなり、熱が入る。
当然、活力が高まるし、拡大再生産性から、おぜにさんがまた多くなりやすい。
ってことで、やっぱり、地域にはおぜにさんが大事。
じゃあ、「ゼニで幸せになるんやない。」というのは、
たとえば、熱烈に愛し合う二人の間に、社会の権威は関係なあい。
君しかいない。あなたしかいない。のだから、オプションなんか関係ないなあい。
君とボクとの間ではゆっくり時間が流れていてほしいので、スピードなんか関係ないなあい。
とか
自分の価値観をとてもしっかり持っている場合なんかが典型ではないでしょうか?
濃密な人間関係を基礎にするか、財物を媒介しない頭の中でかなりはっきりした世界を持っている場合に関しては、おぜにさんは入ってきにくいのではないでしょうか?
映画の中の南の島は、恋と音楽とパパイヤがあって、あんまり頭の中の世界はいらんから、それはそれで幸せかも。
濃密な人間関係と、はっきりできあがった価値観・世界観。
これには普遍性があるのか?また、それらを持ってる人が多かったとしても、いろんなパターンの人間関係や社会的事象をそれをもとに処理できるか?
世界観をじっくりわかりあう前に、おぜにさんを媒介して、何でも処理するわなあ。
今朝、急に考え始めたことだから
おぜにさんがない地域とある地域は何が違ってくるのか?
おぜにさんが介在しない幸せとはどういうのがあるのか?
これは、どっかでまたもうちょっと掘り下げてみたい。
Posted by たみ家 at
01:09
│Comments(0)
おぜにさんの3大機能 2 なぜ悪者に。
2008年06月05日
おぜにさん(貨幣=いわゆる「カネ」)は、なぜか汚いと言われることがある。
なぜか?
そんなこと、今日まで漫然と流されてきて理由を考えたことなかった。
これは何となく、朝ちょっと考えたらわかった気がした。
なぜ、貸し借りなど、おぜにさんは、人間関係を壊すといわれるのか?
これは、わからないような気がするけど、わかったような気もした。
これが答えだったらちょっとこわいけど、正解っぽい?
おぜにさんが理由で起こることは、おぜにさんの基本的な性質や機能が理由だと考えるのが自然かも。
前記事で、おぜにさんの3大機能について、次のとおり書きました。
①価値の尺度や表示の機能
②価値の蓄積機能
③交換を容易にする機能
機能に加えて、性質として、誰もがそれなりに価値を認めるものであり、流動性が高く、電子マネーのように観念的にもなれるので、自由に動いて、ある人の発生させられる経済的価値を簡単に飲み込んでしまえる。
おぜにさんが悪者になる理由は、
主に①の「価値の尺度や表示の機能」が持つ「情報性」と、「流動性」・「観念性」ではないでしょうか?
たとえば、ある人が、事故死をして逸失利益をもとに算定して、賠償が3000万円だったとする。
ところが、他のある人の場合は、2億円だとする。
本来つけられない失われた命の価値に数字をつけて比較させてしまうところがいやらしい。
社会的に成功した何億も持ってるお金持ちの人が、公園や海岸を自発的に毎日30分、社会奉仕の気持ちで清掃してたとする。
そこに、市が、「よくやってくれました。あなたの働きに報いて、毎日30分間、のんびりマイペースだったので、時給400円分の労働と換算して、1月分、6千円あげます。でも、これからはお金が出るので、市に報告して、ときどき来る市の監督員の指図に従って下さい。」と言われたとする。
これは腹が立つというか、がっかりするというか、おぜにさんがからむ前は、社会的に成功した人は毎日の社会奉仕をお金には換算せず、それに代えられないもっと大きな価値を感じていたと思う。
ところが、何億円も持ってる人が、「1月やって6千円です。」って言われると、すごくつまらない気分になると思う。
社会のために、地域のためにと思ってやってることは、あえてお金に換算せずに、「いいことをしている。」という気分でとどめておくから、楽しいのであって、その労働価値の情報を得てしまうと、かえってモチベーションが落ちてしまうこともあるでしょう。
また、おぜにさんをもらわないときは自発的で主体的だったことが、もらってしまうと従属的な関係になってしまうので、おもしろくなくなる。
おぜにさんには、情報的機能があって、「もらうということは従属している。」、また、「もらったからにはやったことの価値はそんだけ。」という情報を発信する。
これも、伝統的に言われてきた「報酬を上げれば、やる気が出て生産性が上がる。」とは限らない例だと思う。
また、ガソリンはいくら貴重でも、ドラム缶10本動かすのはたいへんですが、おぜにさんは、電子マネーのように実体なしで観念的に動かせるなど、動きを極めて速く大きくすることができるので、判断を誤ると、簡単に人の生み出せる経済的価値や生活を飲み込んでしまい、取り返しのつかない状況に追い込んでしまえる。
いろいろ事例がありすぎるし、書きすぎると痛ましすぎることもあるし、今日はじめて考えたことだから、うまく書けなかったけど、おぜにさんが悪者になるのは、価値の尺度や表示機能から来る情報性と、流動性・観念性ゆえではないでしょうか?
いろいろあるようでも、やっぱり、これからの派生形・変化形ではないでしょうか?
それとも、まだまだ、悪者になる理由をカバーしきれてないでしょうか?
なぜか?
そんなこと、今日まで漫然と流されてきて理由を考えたことなかった。
これは何となく、朝ちょっと考えたらわかった気がした。
なぜ、貸し借りなど、おぜにさんは、人間関係を壊すといわれるのか?
これは、わからないような気がするけど、わかったような気もした。
これが答えだったらちょっとこわいけど、正解っぽい?
おぜにさんが理由で起こることは、おぜにさんの基本的な性質や機能が理由だと考えるのが自然かも。
前記事で、おぜにさんの3大機能について、次のとおり書きました。
①価値の尺度や表示の機能
②価値の蓄積機能
③交換を容易にする機能
機能に加えて、性質として、誰もがそれなりに価値を認めるものであり、流動性が高く、電子マネーのように観念的にもなれるので、自由に動いて、ある人の発生させられる経済的価値を簡単に飲み込んでしまえる。
おぜにさんが悪者になる理由は、
主に①の「価値の尺度や表示の機能」が持つ「情報性」と、「流動性」・「観念性」ではないでしょうか?
たとえば、ある人が、事故死をして逸失利益をもとに算定して、賠償が3000万円だったとする。
ところが、他のある人の場合は、2億円だとする。
本来つけられない失われた命の価値に数字をつけて比較させてしまうところがいやらしい。
社会的に成功した何億も持ってるお金持ちの人が、公園や海岸を自発的に毎日30分、社会奉仕の気持ちで清掃してたとする。
そこに、市が、「よくやってくれました。あなたの働きに報いて、毎日30分間、のんびりマイペースだったので、時給400円分の労働と換算して、1月分、6千円あげます。でも、これからはお金が出るので、市に報告して、ときどき来る市の監督員の指図に従って下さい。」と言われたとする。
これは腹が立つというか、がっかりするというか、おぜにさんがからむ前は、社会的に成功した人は毎日の社会奉仕をお金には換算せず、それに代えられないもっと大きな価値を感じていたと思う。
ところが、何億円も持ってる人が、「1月やって6千円です。」って言われると、すごくつまらない気分になると思う。
社会のために、地域のためにと思ってやってることは、あえてお金に換算せずに、「いいことをしている。」という気分でとどめておくから、楽しいのであって、その労働価値の情報を得てしまうと、かえってモチベーションが落ちてしまうこともあるでしょう。
また、おぜにさんをもらわないときは自発的で主体的だったことが、もらってしまうと従属的な関係になってしまうので、おもしろくなくなる。
おぜにさんには、情報的機能があって、「もらうということは従属している。」、また、「もらったからにはやったことの価値はそんだけ。」という情報を発信する。
これも、伝統的に言われてきた「報酬を上げれば、やる気が出て生産性が上がる。」とは限らない例だと思う。
また、ガソリンはいくら貴重でも、ドラム缶10本動かすのはたいへんですが、おぜにさんは、電子マネーのように実体なしで観念的に動かせるなど、動きを極めて速く大きくすることができるので、判断を誤ると、簡単に人の生み出せる経済的価値や生活を飲み込んでしまい、取り返しのつかない状況に追い込んでしまえる。
いろいろ事例がありすぎるし、書きすぎると痛ましすぎることもあるし、今日はじめて考えたことだから、うまく書けなかったけど、おぜにさんが悪者になるのは、価値の尺度や表示機能から来る情報性と、流動性・観念性ゆえではないでしょうか?
いろいろあるようでも、やっぱり、これからの派生形・変化形ではないでしょうか?
それとも、まだまだ、悪者になる理由をカバーしきれてないでしょうか?
Posted by たみ家 at
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おぜにさんの3大機能 1
2008年06月04日
経済学の最初の方で出ますかね。
中学とかでもかじる程度に聞いたような。
貨幣(うちのブログでは「おぜにさん」)の3大機能
①価値の尺度や表示の機能
かけうどん1玉が180円だったら、180円の価値があるのかな。
よくわからないけど、栗林公園の入場料は400円だから、こっちの方が価値が大きいのだろう。
②価値の蓄積機能
うどん玉を300玉ずっと持ってても、時間がたったら食べられませんし、他の人も欲しがりません。
だから、腐敗しないように、おぜにさんの形にして、蓄えましょう。
③交換を容易にする機能
粉を仕入れようと思っても、粉屋さんばかりをお客さんにはできないので、粉を持ってないサラリーマンの方から、おぜにさんをいただいて粉屋で粉を買います。
いつまでも、欲しいものを持っている人をお客さんとして待ってたら、仕事になりません。
まあ、これだけのことをいうなら、意味はないので、これを現実にあてはめたり、上積みしていかないといけません。
もう一つ、心理学の3大領域と聞いたことがあるのですが
1番目が、ジークムント・フロイトを祖とする「精神分析」で、無意識とか深層心理に人は動かされているので、案外、人は自由に行動してないとする。
2番目が、パブロフの犬で有名な、条件反射の実験の、イワン・パブロフを祖とする「行動心理学」で、人は、遺伝と環境に制約されて行動していて、案外、自由意志ってないもんだとする。
パブロフって、100年ほど前にノーベル賞とってるのね。
案外、帝政ロシアも遅れてたようで、科学が進んでたのかな。
この方、ウラジミール・レーニンとも親交があって、レーニンはパブロフを絶賛して、ロシア革命の思想にも大いに取り入れたらしい。
ウラジミールといえば、プーチンもウラジミールだけど、よくある名前なのかな?
それとも、親がレーニンに憧れてたのかな?
3番目がアブラハム・マズローを祖とする「人間性心理学」で、人間は創意や主体性や自己実現欲求という独自の肯定すべき面を持っていて、それにも注目する必要があると考え、5段階欲求のピラミッドを描いて、自己実現欲求に重きを置いたそうです。
フロイトやパブロフと比較して、第3領域って言い出したのは、マズローだそうで、人間の良い面や主体性を肯定し、人間とその他の動物を分けて考えようとしたそうです。
たみ家は、高校時代から30歳ぐらいまでは、このマズローがとにかく好きでなかった。
というか、マズローの説を持ってきて語る人の内容が好きでなかったし、段階欲求説が自分や世の中の実態と合わないような気もしていたからです。
おぜにさんの欲求は、ある程度おぜにさんが増えて満たされると、そこそのものには向かなくなる。
よく政治家がカネ(おぜにさん)に汚いと言いますが、政治家がおぜにさんを欲しがるのは、ぜいたくしたいからではないと思います。
昔は、報酬とやる気は連動すると考えられてましたが、人間って、そうばっかりでもないという話として、アメリカで、ホーソン工場の実験が行われたり、マズローが出たのは興味深いと思います。
中学とかでもかじる程度に聞いたような。
貨幣(うちのブログでは「おぜにさん」)の3大機能
①価値の尺度や表示の機能
かけうどん1玉が180円だったら、180円の価値があるのかな。
よくわからないけど、栗林公園の入場料は400円だから、こっちの方が価値が大きいのだろう。
②価値の蓄積機能
うどん玉を300玉ずっと持ってても、時間がたったら食べられませんし、他の人も欲しがりません。
だから、腐敗しないように、おぜにさんの形にして、蓄えましょう。
③交換を容易にする機能
粉を仕入れようと思っても、粉屋さんばかりをお客さんにはできないので、粉を持ってないサラリーマンの方から、おぜにさんをいただいて粉屋で粉を買います。
いつまでも、欲しいものを持っている人をお客さんとして待ってたら、仕事になりません。
まあ、これだけのことをいうなら、意味はないので、これを現実にあてはめたり、上積みしていかないといけません。
もう一つ、心理学の3大領域と聞いたことがあるのですが
1番目が、ジークムント・フロイトを祖とする「精神分析」で、無意識とか深層心理に人は動かされているので、案外、人は自由に行動してないとする。
2番目が、パブロフの犬で有名な、条件反射の実験の、イワン・パブロフを祖とする「行動心理学」で、人は、遺伝と環境に制約されて行動していて、案外、自由意志ってないもんだとする。
パブロフって、100年ほど前にノーベル賞とってるのね。
案外、帝政ロシアも遅れてたようで、科学が進んでたのかな。
この方、ウラジミール・レーニンとも親交があって、レーニンはパブロフを絶賛して、ロシア革命の思想にも大いに取り入れたらしい。
ウラジミールといえば、プーチンもウラジミールだけど、よくある名前なのかな?
それとも、親がレーニンに憧れてたのかな?
3番目がアブラハム・マズローを祖とする「人間性心理学」で、人間は創意や主体性や自己実現欲求という独自の肯定すべき面を持っていて、それにも注目する必要があると考え、5段階欲求のピラミッドを描いて、自己実現欲求に重きを置いたそうです。
フロイトやパブロフと比較して、第3領域って言い出したのは、マズローだそうで、人間の良い面や主体性を肯定し、人間とその他の動物を分けて考えようとしたそうです。
たみ家は、高校時代から30歳ぐらいまでは、このマズローがとにかく好きでなかった。
というか、マズローの説を持ってきて語る人の内容が好きでなかったし、段階欲求説が自分や世の中の実態と合わないような気もしていたからです。
おぜにさんの欲求は、ある程度おぜにさんが増えて満たされると、そこそのものには向かなくなる。
よく政治家がカネ(おぜにさん)に汚いと言いますが、政治家がおぜにさんを欲しがるのは、ぜいたくしたいからではないと思います。
昔は、報酬とやる気は連動すると考えられてましたが、人間って、そうばっかりでもないという話として、アメリカで、ホーソン工場の実験が行われたり、マズローが出たのは興味深いと思います。
Posted by たみ家 at
08:18
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風景の言葉2 何でもしゃべってる
2008年06月01日
「人が話す言葉は必ずしもほんとうでない。」とはよく言います。
ただ、話す内容から、その人の関心や知識を読み取ったり、家庭生活や人間関係を感じることもあるでしょう。
敬語の使い方を聞けば、育った環境やどういうとこで勤めたか勤めてないかなども推測できるでしょう。
普段言わないようなことを急に優しげに言い出したら、「浮気しとらへんか?」とか「実はリストラされて昼スーツ着て公園で寝とりはせんだろうか?」と、背広の内ポケットを探ったり、会社に電話したり、テレビではよくある。
そんなこと一言も言ってないのにね。
統計も、言葉をしゃべってるようなものでしょう。
必ずしも信じちゃあいけない。
でも、そっからいろいろ感じたり、現実と合わなかったり、誤解しやすいとこ、調査した人の意図などを勘繰ることで、関連するいろんなことが見えてくる。
風景も、世の中や地域や地球の森羅万象がしゃべってる言葉だと思う。
山を大きく切ってあったら、花崗岩質なのかとか、何か建つのかなとか。
山の植生を見て、こっちが日当たりのいい方向なのかなとか。
たみ家は、風景のしゃべってる言葉を、重視したいと思ってます。
さて、有名な麺通団の田尾さんが新聞やHP上にいろいろご意見を書いておられます。
たみ家は、お会いしたことぐらいはありますが、親しいわけでもありませんし、まともにお話をしたこともありません。
この方がすごいなあと思うことは、批判的な精神や観察眼をきちんと持ちながら、それをユーモアやコミュニケーション力で分厚く包めることだと思います。
批判って、ある意味、建設的に物をつくったり、築くことそのものよりも大事なことはあると思う。
というより、個人レベルから、大きな社会レベルに移れば移るほど、つくることそのものよりも批判することの方が価値が大きいことが多くなる。
だから、大きな会社や国では、取締役とか政治家といわれる自前で何もつくらず、自ら執行もしない人が、批判や質問をして、エライさんになれる。
ある程度、体制がととのって、巨大化したものには、もう新しいものはつくりにくいし、それなりに機能はしてるのでドラスティックに何かをつくりだすほどに変えれることは多くないというか採算が合わない。
だから、おかしな方向に行きそうなときに、おかしいぞって言って、巨大化したものの暴走を抑えたり、進路を整えることが大事になってくる。
巨大化してるだけに、優先順位を一つ変えたり、進路を1度ずらすだけで、多くの人を救えたり救えなかったり、何十億円のロスを減らせたりできるし、人手自体は、ものすごくたくさんの中の一人だから批判専門家もいてくれていいということになる。
これが、2人しかいないうどん屋では、とにかくつくらんとしょうがないし、手の動かない批判精神の旺盛な人は、外部にお客さんやお友達としてはいてくれていいけど、中にはいてもらっては困る。
また、個人事業のうどん屋がどうなろうと、自己責任だし、社会的に大した意味はないので、批判が有効に働こうと働くまいと、さして世の中に意味はない。
批判は、刃物に似ているので、裁断して、形を整えたり、利用できる大きさにしなければならないように、誰もがしなきゃいけないし、いつでもすごく重要です。
刃物や火は危険だけど、ないと、うどんも麺の形にならないし、茹でられないように料理一般ができません。
ただ、刃物には人は寄り付かないし、というか一緒に寝れません。
人に向けたらいかんこともあるし、普段は包んでおかんと自分も人も傷つけるおそれがある。だから、批判の意味や本質を考えないと、人を傷つけては孤独に陥ったり、逆に、恐れて波風立てずに漫然とヘンな方向に行ったり、停滞したりすることもある。
その辺、田尾さんは稀有な存在であり、テレビや新聞などマスメディアや批判が大嫌いな行政からも人気があるところだと思う。
批判が得意な人は、孤独に刃を研ぎ澄まし強くなることのみを求める、さすらい剣豪みたいな人がけっこう多いですから。
観光行政や地域興しなど今うまく行ってないことをうまく行くように提言することは、たいてい今の状況に対する批判である。
だから、お金もらって書く価値がある、それは個人に対するものでなく、大きな関係のものへの批判だからこそ意味がある。
大きな関係だからこそ、形を整えたり、切って見て、見えないとこをチェックする必要があるけど、個人に刃物を向けて切ったら、結果によっては傷害罪やそれ以上になる。
この方、今日6月1日付けの四国新聞P3「論点香川」でも、「香川の驚きのシーン発見」と、景色に注目してますし、こないだも外国の風景が出たら血眼になって珍しいものを探すみたいなこと書いてましたし、香川県の広報誌でも、かなりの期間に渡って、風景を題材に2P分執筆されてました。
また、団長日記でも、家から見る朝の雲と夕方の雲の様子と海に立つ波の様子、またその関係について言及されてました。
風景に意味を持たせているわけです。
そして、風景に意味を持たせるということは、事実から感じるってことなんです。
また、風景そのものは、みかんの木があるからといって、土壌がどうだ、気候がどうだとしゃべってるわけではありません。
が、おのずから、土壌や気候や場合によっては土地所有者の意思などをしゃべってることになります。
事実から感じ、関係を読み取る。
風景に意味を持たせたり、言及するってことはそういうことなんです。
だから、事実に基づかない人の言うまやかしや、常識といわれていることのワナを見破れるわけです。
統計と風景とはセットでもあります。
統計の数字に「あれ!?」って思ったり、風景から意味を感じれば、情報感受度が著しく上がるわけです。
このためには、現場などミクロの事実をある程度知らないといけないし、みかんの木から意味を読み取るにはみかんの木がどういうとこで生育しやすいとか、個々、風景を構成するものへの知識や関心がいります。
これらが相互にフィードバックすると相乗効果が出るでしょう。
今、ふと思ったんですが、目の前のパソコンのディスプレイは横長に四角い。
・つくりやすい。
・はこびすい。
・見やすい。
などのバランスの結果でしょうが、ディスプレイとはそういうものだと、しゃべってくれてるのと同じです。
言葉といっしょで、聞く側が思っても騙されてるように、違うかもしれませんが。
ただ、話す内容から、その人の関心や知識を読み取ったり、家庭生活や人間関係を感じることもあるでしょう。
敬語の使い方を聞けば、育った環境やどういうとこで勤めたか勤めてないかなども推測できるでしょう。
普段言わないようなことを急に優しげに言い出したら、「浮気しとらへんか?」とか「実はリストラされて昼スーツ着て公園で寝とりはせんだろうか?」と、背広の内ポケットを探ったり、会社に電話したり、テレビではよくある。
そんなこと一言も言ってないのにね。
統計も、言葉をしゃべってるようなものでしょう。
必ずしも信じちゃあいけない。
でも、そっからいろいろ感じたり、現実と合わなかったり、誤解しやすいとこ、調査した人の意図などを勘繰ることで、関連するいろんなことが見えてくる。
風景も、世の中や地域や地球の森羅万象がしゃべってる言葉だと思う。
山を大きく切ってあったら、花崗岩質なのかとか、何か建つのかなとか。
山の植生を見て、こっちが日当たりのいい方向なのかなとか。
たみ家は、風景のしゃべってる言葉を、重視したいと思ってます。
さて、有名な麺通団の田尾さんが新聞やHP上にいろいろご意見を書いておられます。
たみ家は、お会いしたことぐらいはありますが、親しいわけでもありませんし、まともにお話をしたこともありません。
この方がすごいなあと思うことは、批判的な精神や観察眼をきちんと持ちながら、それをユーモアやコミュニケーション力で分厚く包めることだと思います。
批判って、ある意味、建設的に物をつくったり、築くことそのものよりも大事なことはあると思う。
というより、個人レベルから、大きな社会レベルに移れば移るほど、つくることそのものよりも批判することの方が価値が大きいことが多くなる。
だから、大きな会社や国では、取締役とか政治家といわれる自前で何もつくらず、自ら執行もしない人が、批判や質問をして、エライさんになれる。
ある程度、体制がととのって、巨大化したものには、もう新しいものはつくりにくいし、それなりに機能はしてるのでドラスティックに何かをつくりだすほどに変えれることは多くないというか採算が合わない。
だから、おかしな方向に行きそうなときに、おかしいぞって言って、巨大化したものの暴走を抑えたり、進路を整えることが大事になってくる。
巨大化してるだけに、優先順位を一つ変えたり、進路を1度ずらすだけで、多くの人を救えたり救えなかったり、何十億円のロスを減らせたりできるし、人手自体は、ものすごくたくさんの中の一人だから批判専門家もいてくれていいということになる。
これが、2人しかいないうどん屋では、とにかくつくらんとしょうがないし、手の動かない批判精神の旺盛な人は、外部にお客さんやお友達としてはいてくれていいけど、中にはいてもらっては困る。
また、個人事業のうどん屋がどうなろうと、自己責任だし、社会的に大した意味はないので、批判が有効に働こうと働くまいと、さして世の中に意味はない。
批判は、刃物に似ているので、裁断して、形を整えたり、利用できる大きさにしなければならないように、誰もがしなきゃいけないし、いつでもすごく重要です。
刃物や火は危険だけど、ないと、うどんも麺の形にならないし、茹でられないように料理一般ができません。
ただ、刃物には人は寄り付かないし、というか一緒に寝れません。
人に向けたらいかんこともあるし、普段は包んでおかんと自分も人も傷つけるおそれがある。だから、批判の意味や本質を考えないと、人を傷つけては孤独に陥ったり、逆に、恐れて波風立てずに漫然とヘンな方向に行ったり、停滞したりすることもある。
その辺、田尾さんは稀有な存在であり、テレビや新聞などマスメディアや批判が大嫌いな行政からも人気があるところだと思う。
批判が得意な人は、孤独に刃を研ぎ澄まし強くなることのみを求める、さすらい剣豪みたいな人がけっこう多いですから。
観光行政や地域興しなど今うまく行ってないことをうまく行くように提言することは、たいてい今の状況に対する批判である。
だから、お金もらって書く価値がある、それは個人に対するものでなく、大きな関係のものへの批判だからこそ意味がある。
大きな関係だからこそ、形を整えたり、切って見て、見えないとこをチェックする必要があるけど、個人に刃物を向けて切ったら、結果によっては傷害罪やそれ以上になる。
この方、今日6月1日付けの四国新聞P3「論点香川」でも、「香川の驚きのシーン発見」と、景色に注目してますし、こないだも外国の風景が出たら血眼になって珍しいものを探すみたいなこと書いてましたし、香川県の広報誌でも、かなりの期間に渡って、風景を題材に2P分執筆されてました。
また、団長日記でも、家から見る朝の雲と夕方の雲の様子と海に立つ波の様子、またその関係について言及されてました。
風景に意味を持たせているわけです。
そして、風景に意味を持たせるということは、事実から感じるってことなんです。
また、風景そのものは、みかんの木があるからといって、土壌がどうだ、気候がどうだとしゃべってるわけではありません。
が、おのずから、土壌や気候や場合によっては土地所有者の意思などをしゃべってることになります。
事実から感じ、関係を読み取る。
風景に意味を持たせたり、言及するってことはそういうことなんです。
だから、事実に基づかない人の言うまやかしや、常識といわれていることのワナを見破れるわけです。
統計と風景とはセットでもあります。
統計の数字に「あれ!?」って思ったり、風景から意味を感じれば、情報感受度が著しく上がるわけです。
このためには、現場などミクロの事実をある程度知らないといけないし、みかんの木から意味を読み取るにはみかんの木がどういうとこで生育しやすいとか、個々、風景を構成するものへの知識や関心がいります。
これらが相互にフィードバックすると相乗効果が出るでしょう。
今、ふと思ったんですが、目の前のパソコンのディスプレイは横長に四角い。
・つくりやすい。
・はこびすい。
・見やすい。
などのバランスの結果でしょうが、ディスプレイとはそういうものだと、しゃべってくれてるのと同じです。
言葉といっしょで、聞く側が思っても騙されてるように、違うかもしれませんが。
Posted by たみ家 at
14:49
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おぜにさん
2008年06月01日
よく、「お金のためより、やりたいことをやる。」みたいな話を聞きます。
NPOやボランティアグループでも、儲けを汚いことのように言う方に会います。
また、それらのグループが報酬を取ることを悪く言う人もいます。
営利は出しても、個人に分配しないのが、営利と非営利を分ける原則ですが、それさえ理解しない。
これらのグループがもう一つうまくいってないのは、お金に正面からきちんと向き合ってないからだと思う。
やりたいことをやれるのは、他の収入があるか、家に資産があるかで、フリーターが生きていけるのも、国か親元に資産があるだけのこと。
非営利グループも資金調達が恒常的にできなければ、多大な個人の犠牲によるしかない。
なぜ株式会社はかように発展しているのか、なぜ非営利団体はかようにまだまだ危うく弱々しいのか。
ゼニを崇めることもないと思う。
奴隷になることもないと思う。
でも貶めてはいけないし、汚いものとしてでなく、正面から向き合わないといけない。
やりたいことをやるってのはアマチュア精神。
職業にアマチュア精神のいいところをミックスして、モチベーションを高めたりするのは良いと思う。
でも、やりたいことをやるのはアマチュア。
人が価値を認めることをしたら、プロ。
価値を認めるってことは、人は正直だから、お金を出してもいいと思ったらほんとに価値を認めているということ。
お金を出さない人は、たいてい相手の能力や仕事の成果を疑っている可能性が高い。
お金のためにやることが、価値あることで人の役に立つことである可能性は、一般的に高い。
お金のためになることをやって、はじめて、地域に熱が入り、多大な自己犠牲が軽くなり、バランスの良い暮らしにつながり、他者も多くが関われるようになるし、拡大再生産性ができる。
昨今、様々な分野の隙間を埋めていかないといけないことが、少子高齢化やグローバルエコノミーからの国際競争力維持などのための小さな政府化などからも意味を持ち、国・地方政府、会社に次ぐ、非営利団体というものの活躍の場や重要性を大きくさせている。
それに対する、寄付や奉仕に関する文化的な見方や税制や補助金など国・自治体の壁が、健全な発展を妨げているように思う。
さて、ゼニを崇めるでもなく、蔑むでもなく
重要性だけでなく美しき貢献も認めて
親しみをこめて
おだいっさん
おじゅっさん
のように
おぜにさん
と呼んでみたらどうでしょうか?
さぬきの方言「おぜにさん」
・政治と「おぜにさん」の問題=「政治とカネの問題」
・あいつは、おぜにさんに目がない=「あいつはカネに汚い」
・おぜにさんに嫌われたらひとりぼっち=「カネの切れ目は縁の切れ目」
など、気軽に言い換えてみたい。
たみ家、おぜにさんシリーズ3連発なので、よっぽど、おぜにさんが好きなのかと思われそうですが、今の社会の活力の問題は、おぜにさんときちんと向き合ってないからかなあと思うことが近頃妙に増えてるんです。
たみ家は、世の中で長いことうまくいってないことの理由や対策を「ああでもないこうでもない。」10年でも20年でも考えて飽きがこないタイプなんです。
NPOやボランティアグループでも、儲けを汚いことのように言う方に会います。
また、それらのグループが報酬を取ることを悪く言う人もいます。
営利は出しても、個人に分配しないのが、営利と非営利を分ける原則ですが、それさえ理解しない。
これらのグループがもう一つうまくいってないのは、お金に正面からきちんと向き合ってないからだと思う。
やりたいことをやれるのは、他の収入があるか、家に資産があるかで、フリーターが生きていけるのも、国か親元に資産があるだけのこと。
非営利グループも資金調達が恒常的にできなければ、多大な個人の犠牲によるしかない。
なぜ株式会社はかように発展しているのか、なぜ非営利団体はかようにまだまだ危うく弱々しいのか。
ゼニを崇めることもないと思う。
奴隷になることもないと思う。
でも貶めてはいけないし、汚いものとしてでなく、正面から向き合わないといけない。
やりたいことをやるってのはアマチュア精神。
職業にアマチュア精神のいいところをミックスして、モチベーションを高めたりするのは良いと思う。
でも、やりたいことをやるのはアマチュア。
人が価値を認めることをしたら、プロ。
価値を認めるってことは、人は正直だから、お金を出してもいいと思ったらほんとに価値を認めているということ。
お金を出さない人は、たいてい相手の能力や仕事の成果を疑っている可能性が高い。
お金のためにやることが、価値あることで人の役に立つことである可能性は、一般的に高い。
お金のためになることをやって、はじめて、地域に熱が入り、多大な自己犠牲が軽くなり、バランスの良い暮らしにつながり、他者も多くが関われるようになるし、拡大再生産性ができる。
昨今、様々な分野の隙間を埋めていかないといけないことが、少子高齢化やグローバルエコノミーからの国際競争力維持などのための小さな政府化などからも意味を持ち、国・地方政府、会社に次ぐ、非営利団体というものの活躍の場や重要性を大きくさせている。
それに対する、寄付や奉仕に関する文化的な見方や税制や補助金など国・自治体の壁が、健全な発展を妨げているように思う。
さて、ゼニを崇めるでもなく、蔑むでもなく
重要性だけでなく美しき貢献も認めて
親しみをこめて
おだいっさん
おじゅっさん
のように
おぜにさん
と呼んでみたらどうでしょうか?
さぬきの方言「おぜにさん」
・政治と「おぜにさん」の問題=「政治とカネの問題」
・あいつは、おぜにさんに目がない=「あいつはカネに汚い」
・おぜにさんに嫌われたらひとりぼっち=「カネの切れ目は縁の切れ目」
など、気軽に言い換えてみたい。
たみ家、おぜにさんシリーズ3連発なので、よっぽど、おぜにさんが好きなのかと思われそうですが、今の社会の活力の問題は、おぜにさんときちんと向き合ってないからかなあと思うことが近頃妙に増えてるんです。
たみ家は、世の中で長いことうまくいってないことの理由や対策を「ああでもないこうでもない。」10年でも20年でも考えて飽きがこないタイプなんです。
Posted by たみ家 at
13:18
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