統合の前提 2 欲求をやりくりする存在
2008年06月08日
経営学についていくつかの分け方があると思う。
一つは組織をどうするかの経営組織論とか?
二つ目は、おぜにさんをどこにどう投入したらいいかの財務投資論とか?
みたいな大雑把な分け方があると思う。
もう座学はうどん屋始めるちょっと前からまったくやってないので、そんな感じとしか言えませんが。
経営学の組織論って、兆億単位が当たり前のおぜにさんの世界で、人を働かすための研究してるわけだから、ある意味、「人とは何か」みたいな研究におぜにさんが最も投入された世界かもしれない。
「人とは何か」だから、動物学者や精神医や心理学者もたくさんからんでるし、法学者が技術者に転身したからそういう見方が発達したみたいに、いろんな分野から「人とは何か」を考える知見が結集している。
ところが、経営学の組織論って、人聞きが悪い言葉を使えば、経営者が「倒れん程度に人をこきつかって、できるだけ長く使って、最高の生産性と収益を上げるため」の研究だったりもするわけですよね。
平家物語や日本書紀などが「勝者がつくった歴史」と言われますが、経営学の組織論も「持てる者がつくった持てる者のツールとしての人間像探求」とも言えるわけです。
もちろん、様々な修正が加えられてますが、ぶっちゃけ経営者がおぜにさんを投入して展開する人間研究は儲けのため以外に普通にはないってのはわかりきってるでしょう。
それにおぜにさん使って儲けと関係ない研究しとったら、株主総会で怒こられるじゃないですか。
いいことしてるようでも、現場や組合組織の反乱を恐れてのことだったり、企業イメージを損ねんためだったり、お上にしょっぴかれないように法令をいちおう守っとくためだったり、「経営」のための学問である以上、それを否定するのは背理でしょう。
しかし、兆億単位のおぜにさんの世界のことだけに、研究は他の分野よりもよく進んでいることは多いかもしれません。
で、人間のモデルとして、
ちょっと前提を飛ばしますが
「人とはどういう存在か」ついて、「経済人モデル」から「経営人モデル」とか「社会人モデル」とかいう言い方をよくします。
「経済人」とか「経営人」とか「社会人」てのは訳語が日本語の語感と一致してないので、ビジネスマンのことでも、経営者のことでも、学生などに対する社会人の意味でもまったくありません。
「経済人モデル」っていうのは、人間はより報酬を求めるなど合理的な選択をするであろうという、合理的な生き方をする存在とした人間像モデルです。
民主主義ってのも、人間は合理的に問題を考えて投票したり政治参加をするであろうという前提にあります。
けっして、顔がかっこいいからとか、会ったことはないけど幼稚園が同じだからという理由で議員を選ぶことは前提にしてません。
「経営人モデル」ってのは、今ある与えられた情況のなかで選択し、一定の成果があれば満足し、一定の充足を得ればベストを求めて行動なんかはしないだろうという人間像モデルです。
知らないけど、たぶん、「経済」が「エコノミック」、「経営」が「マネッジ」、「社会」が「ソーシャル」みたいな原語なんで、直訳的に日本語にしたらヘンな日本語になってしまったってとこではないでしょうか?
たみ家は、ここで、
「人間は、欲求をやりくりする存在である。」
という
「欲求人モデル」
の人間像を立てておきます。
「経営人モデル」と似てるのですが、合理的でも欲求にないことはしないことを強調しておきたいし、欲求の性質や行動との諸関係、またこれを何とかすることの重要性を強調しようというものです。
ただ、漠然と最適を求めたり思ったりはしますが、行動の段になると、思ってるだけのことはしないし、やったこともそこそこの満足を得た段階で、まあいいやとなります。
みなさん。
禁煙もメタボ対策も案外うまくいかんじゃん。
やらなきゃいけないことはわかってるのに。
強い欲求に支えられて、優先順位を1番か2番には持ってこないと、人間3番目あたりの意識は急に弱くなるから、まあ2番の欲求にないとせんね。
また、合理的にはやっちゃまずいけど、うっかり殴ってしまったとか、U草先生のように、日本国内でも最高峰に合理的に考えられる人でありながら、爆発的な欲求を何とかできずに、踏み外してしまうこともあります。
そのときは、人生全部と同じ重さが、意識下ではあったり、衝動爆発で、合理性飛んでしまったり。
そうすると、欲求に支えられたことはやるので、好きなことが自分や人様の役に立つことだったり、そういう風に誘導できるなら、ムリない範囲でやれるならやっとけばいいねってことにもなるし、先般、書いた方程式の次数の話ともつながります。
欲求って、ビール1杯目はうまいけど、10杯目はいらんのと同じで、欲しくてしょうがなくても、どっかで欲求が頭打ちになったり長続きしなかったりするし、途中から焼酎が欲しくもなるし、当然料理もいるし、もうええかげん食べたら、気の合うマスターがいるとこや、バンドやってるとこや若い女性がいるとこにも行きたいとなる。
「欲求のやりくり」には資源の最適配分と同じ理屈や限界効用逓減の法則が働くように、ええ具合の量と組み合わせとタイミングの選択をしたり。
また、努力するとか目的に向かうってのはたいてい、欲求のコントロールだし、だんなや嫁の欠点をがまんして欲求を抑えたり、しょうもない上司でもいちおう持ち上げておいたり、目をつぶるのも、物事や関係を長続きさすための欲求のやりくり(マネジメント)の意味があると思う。
人は合理的に動く存在でなく、欲求にないことはせんし、欲求に動かされてそれをやりくりしていく存在であり、一番危険なことは欲求のやりくりに失敗して、たとえば(人によっては会社がいやだっただけでやりたいこともなかったのに)できもせん事業に手を出したり、カードショッピングしすぎての借金地獄、飲みすぎて病気、カッとして犯罪とかすることだと思う。
これらは、マズローの段階欲求説への疑問や、批判が持つ正の力と危なさのコントロールなどいろいろなとこへと波及していきます。
今まで書いてきたことのことをほとんど全部つないでいかないと説明がつかないというか、つながりがはっきりしないところに来たので、それらのつながりがいるとこの前提になるとこを書いてるとこです。
一つは組織をどうするかの経営組織論とか?
二つ目は、おぜにさんをどこにどう投入したらいいかの財務投資論とか?
みたいな大雑把な分け方があると思う。
もう座学はうどん屋始めるちょっと前からまったくやってないので、そんな感じとしか言えませんが。
経営学の組織論って、兆億単位が当たり前のおぜにさんの世界で、人を働かすための研究してるわけだから、ある意味、「人とは何か」みたいな研究におぜにさんが最も投入された世界かもしれない。
「人とは何か」だから、動物学者や精神医や心理学者もたくさんからんでるし、法学者が技術者に転身したからそういう見方が発達したみたいに、いろんな分野から「人とは何か」を考える知見が結集している。
ところが、経営学の組織論って、人聞きが悪い言葉を使えば、経営者が「倒れん程度に人をこきつかって、できるだけ長く使って、最高の生産性と収益を上げるため」の研究だったりもするわけですよね。
平家物語や日本書紀などが「勝者がつくった歴史」と言われますが、経営学の組織論も「持てる者がつくった持てる者のツールとしての人間像探求」とも言えるわけです。
もちろん、様々な修正が加えられてますが、ぶっちゃけ経営者がおぜにさんを投入して展開する人間研究は儲けのため以外に普通にはないってのはわかりきってるでしょう。
それにおぜにさん使って儲けと関係ない研究しとったら、株主総会で怒こられるじゃないですか。
いいことしてるようでも、現場や組合組織の反乱を恐れてのことだったり、企業イメージを損ねんためだったり、お上にしょっぴかれないように法令をいちおう守っとくためだったり、「経営」のための学問である以上、それを否定するのは背理でしょう。
しかし、兆億単位のおぜにさんの世界のことだけに、研究は他の分野よりもよく進んでいることは多いかもしれません。
で、人間のモデルとして、
ちょっと前提を飛ばしますが
「人とはどういう存在か」ついて、「経済人モデル」から「経営人モデル」とか「社会人モデル」とかいう言い方をよくします。
「経済人」とか「経営人」とか「社会人」てのは訳語が日本語の語感と一致してないので、ビジネスマンのことでも、経営者のことでも、学生などに対する社会人の意味でもまったくありません。
「経済人モデル」っていうのは、人間はより報酬を求めるなど合理的な選択をするであろうという、合理的な生き方をする存在とした人間像モデルです。
民主主義ってのも、人間は合理的に問題を考えて投票したり政治参加をするであろうという前提にあります。
けっして、顔がかっこいいからとか、会ったことはないけど幼稚園が同じだからという理由で議員を選ぶことは前提にしてません。
「経営人モデル」ってのは、今ある与えられた情況のなかで選択し、一定の成果があれば満足し、一定の充足を得ればベストを求めて行動なんかはしないだろうという人間像モデルです。
知らないけど、たぶん、「経済」が「エコノミック」、「経営」が「マネッジ」、「社会」が「ソーシャル」みたいな原語なんで、直訳的に日本語にしたらヘンな日本語になってしまったってとこではないでしょうか?
たみ家は、ここで、
「人間は、欲求をやりくりする存在である。」
という
「欲求人モデル」
の人間像を立てておきます。
「経営人モデル」と似てるのですが、合理的でも欲求にないことはしないことを強調しておきたいし、欲求の性質や行動との諸関係、またこれを何とかすることの重要性を強調しようというものです。
ただ、漠然と最適を求めたり思ったりはしますが、行動の段になると、思ってるだけのことはしないし、やったこともそこそこの満足を得た段階で、まあいいやとなります。
みなさん。
禁煙もメタボ対策も案外うまくいかんじゃん。
やらなきゃいけないことはわかってるのに。
強い欲求に支えられて、優先順位を1番か2番には持ってこないと、人間3番目あたりの意識は急に弱くなるから、まあ2番の欲求にないとせんね。
また、合理的にはやっちゃまずいけど、うっかり殴ってしまったとか、U草先生のように、日本国内でも最高峰に合理的に考えられる人でありながら、爆発的な欲求を何とかできずに、踏み外してしまうこともあります。
そのときは、人生全部と同じ重さが、意識下ではあったり、衝動爆発で、合理性飛んでしまったり。
そうすると、欲求に支えられたことはやるので、好きなことが自分や人様の役に立つことだったり、そういう風に誘導できるなら、ムリない範囲でやれるならやっとけばいいねってことにもなるし、先般、書いた方程式の次数の話ともつながります。
欲求って、ビール1杯目はうまいけど、10杯目はいらんのと同じで、欲しくてしょうがなくても、どっかで欲求が頭打ちになったり長続きしなかったりするし、途中から焼酎が欲しくもなるし、当然料理もいるし、もうええかげん食べたら、気の合うマスターがいるとこや、バンドやってるとこや若い女性がいるとこにも行きたいとなる。
「欲求のやりくり」には資源の最適配分と同じ理屈や限界効用逓減の法則が働くように、ええ具合の量と組み合わせとタイミングの選択をしたり。
また、努力するとか目的に向かうってのはたいてい、欲求のコントロールだし、だんなや嫁の欠点をがまんして欲求を抑えたり、しょうもない上司でもいちおう持ち上げておいたり、目をつぶるのも、物事や関係を長続きさすための欲求のやりくり(マネジメント)の意味があると思う。
人は合理的に動く存在でなく、欲求にないことはせんし、欲求に動かされてそれをやりくりしていく存在であり、一番危険なことは欲求のやりくりに失敗して、たとえば(人によっては会社がいやだっただけでやりたいこともなかったのに)できもせん事業に手を出したり、カードショッピングしすぎての借金地獄、飲みすぎて病気、カッとして犯罪とかすることだと思う。
これらは、マズローの段階欲求説への疑問や、批判が持つ正の力と危なさのコントロールなどいろいろなとこへと波及していきます。
今まで書いてきたことのことをほとんど全部つないでいかないと説明がつかないというか、つながりがはっきりしないところに来たので、それらのつながりがいるとこの前提になるとこを書いてるとこです。
Posted by たみ家 at 14:08│Comments(0)