おぜにさんにシビアになる理由 2
2008年09月28日
たみ家は、お金持ちになりたいと思ったことがなかった。
「安定」とか「福利厚生」とか聞くと、「気持ちわりい。そんなのいらねえ。」と直感的に思う方だ。
実際は、立ち止まって、もう一回考えてみて、「あっ。やっぱりもらうわ。」とか思うけど。
さて、じゃあ、何を思ってたのか。
21歳までは、試合で上に行きたい。
練習して、試合に多く臨んで、大きな大会で上に行くことが大事だった。
練習とかに賭けてる時間がすごく長いから、長くがんばったものが達成しないことの辛さは、当時の自分にはおぜにさんがないことよりも何よりも辛いことだった。
勤めに入ってからは、自分の考えを実現したい。
難しい試験などに合格して、自分のレベルを高めたい。
こういう思いが強すぎて、他のことをほとんど考えてこなかったかも。
また、おぜにさんに困ったことがなかった。
今もお金持ちになりたいとは思わないなあ。
ただ、おぜにさんを失うことは刃物で刺されて血を流すぐらい辛いこととか。
「ほんとうにおぜにさんがなくなったら、空気がなくなるように、死ぬことになる」
ぐらいの気持ちにはなってます。
おぜにさんがなくなっても死なないですむと思ってる人は、何かに守られてることが自然になってて、おぜにさんがないことの恐怖がわからんのだと思う。
たみ家は、おぜにさんがないことで、病気でボロボロに追い込まれながら返せそうもない借金に追い立てられてる人をちょいちょい見るし、面接に来たりもする。
その人達を見たら、自分が失敗したらそうなっても不思議でないと思うようなパターンの人もいる。
そういう意味で安心したいから、おぜにさんが欲しいと以前よりは思うが、依然、お金持ちの暮らしには憧れるものがまったくない。
「鍛錬して達成することが喜びである。」
そういう図式が幼稚園に入るかどうかぐらいから、小中以降染み付き、それ以外をあまり大きな喜びと思えんようになってたのだと思う。
このことについては、いくつか残念だと思うことがある。
しんどい思いして達成したって、ただの自己満足で、他人を納得させたり、ついてこさせることができないと感じたことはいくつかある。
自分は、他人の人間的魅力についていこうとはまったく思わない。
その人のやろうとしてることが良いことかどうかで判断する。
魅力のある人なら周りが動くから、達成の可能性は高まると思うから、判断にプラスはするが、人間的魅力にはついていかない。
だからか、自分も人間的に魅力的になろうとかあまり思わない方だった。
自分がそれについていかないから。
合理的な判断を中心に多くの人が客観的に考えやすい指標から、豊かになり、困ったことを解決できるようなことをいろいろ考えて実行していきたいと基本思っている。
ただ、最近、おぜにさんへの欲を高めると、人間的な魅力が高まるのではないかと思うことがいくつかあった。
特に、砂漠の軍人のように、水さえ飲めれば、達成を目指して、砂を枕にして寝ることもほとんど苦に感じないようなタイプは、なおさらそうだ。
実際に、脆い零細うどん屋の立場で、安心できる状況などあり得ず、自由時間も少ないのでは、脅かされ感がいつもあって、心に余裕が出んわなあ。
たみ家が鉄男プロジェクトに踏み切った理由も、いろいろあって、栗林公園前に讃岐うどんや香川の郷土資料コーナーをつくろうとしても自分もそこにいられないし、信頼できる人を常駐させることもできなかったことも1つだった。
そこで、おぜにさんが入る営業をすれば、働かせてるぐらいだからある程度信頼できるスタッフかどうかわかるし、その人もおぜにさんが入るからこそ、長く来る理由になる。
そこの横に資料コーナーをつくるなら、人を常駐させられる。
おぜにさんが入ることをすることでしか、おぜにさんを取らない郷土資料コーナーを開ける策が見つからなかった。
おぜにさんが信頼と継続と余裕を取り持つケースだと思う。
また、おぜにさんが入ることをするから人が中に入ってくる。
ただ、「うどん資料コーナー」とだけ貼り紙をして、それだけで通行人や観光客を納得させるだけの資料はなかなか集められない。
しかし、お好み焼き屋の待ち時間用の「ゴルゴ13」のような感覚なら、充分といえる資料は集めやすいと思う。
お好み焼きがあるから「ゴルゴ」が読まれるのであって、ゴルゴだけ置いてあっても読まない。
ここ因果関係の説明を飛ばしますが
おぜにさんへの欲があれば、ゴルゴは読まれる。
欲がなければ、読まれない。
よほどのカリスマならともかく
たみ家はカリスマでもないし、カリスマを身につけてそれで何とかしようとも思わない。
盲目的に従うことも、従う人間が回りにいることも苦手だ。
そういうカリスマなき人間にとっては、ある程度、他人が理解できる普遍的な欲があった方が、周囲がついてきやすいのではないかと思うことがときどきあった。
去年なんか、たみ家は、1年に10日ぐらいしか靴下はかなかったし、靴も3日ぐらいしかはかなかった。
「じゃあ、真冬もほとんど素足にサンダルで、たまに0度以下になってはじめてサンダルに靴下かよ!」
この時点で、よほどたみ家を理解してくれてる人以外に対して、ついてきてくれというのは厳しい。
ある程度、うどん店という店舗だけで物事が済んだ段階から、やることやるべきことに広がりを持つようになったことや、会社づくりが現実のものとなったことで、さすらい剣豪のような感覚から、抜け出していかないといけないと思うことが増えた。
「安定」とか「福利厚生」とか聞くと、「気持ちわりい。そんなのいらねえ。」と直感的に思う方だ。
実際は、立ち止まって、もう一回考えてみて、「あっ。やっぱりもらうわ。」とか思うけど。
さて、じゃあ、何を思ってたのか。
21歳までは、試合で上に行きたい。
練習して、試合に多く臨んで、大きな大会で上に行くことが大事だった。
練習とかに賭けてる時間がすごく長いから、長くがんばったものが達成しないことの辛さは、当時の自分にはおぜにさんがないことよりも何よりも辛いことだった。
勤めに入ってからは、自分の考えを実現したい。
難しい試験などに合格して、自分のレベルを高めたい。
こういう思いが強すぎて、他のことをほとんど考えてこなかったかも。
また、おぜにさんに困ったことがなかった。
今もお金持ちになりたいとは思わないなあ。
ただ、おぜにさんを失うことは刃物で刺されて血を流すぐらい辛いこととか。
「ほんとうにおぜにさんがなくなったら、空気がなくなるように、死ぬことになる」
ぐらいの気持ちにはなってます。
おぜにさんがなくなっても死なないですむと思ってる人は、何かに守られてることが自然になってて、おぜにさんがないことの恐怖がわからんのだと思う。
たみ家は、おぜにさんがないことで、病気でボロボロに追い込まれながら返せそうもない借金に追い立てられてる人をちょいちょい見るし、面接に来たりもする。
その人達を見たら、自分が失敗したらそうなっても不思議でないと思うようなパターンの人もいる。
そういう意味で安心したいから、おぜにさんが欲しいと以前よりは思うが、依然、お金持ちの暮らしには憧れるものがまったくない。
「鍛錬して達成することが喜びである。」
そういう図式が幼稚園に入るかどうかぐらいから、小中以降染み付き、それ以外をあまり大きな喜びと思えんようになってたのだと思う。
このことについては、いくつか残念だと思うことがある。
しんどい思いして達成したって、ただの自己満足で、他人を納得させたり、ついてこさせることができないと感じたことはいくつかある。
自分は、他人の人間的魅力についていこうとはまったく思わない。
その人のやろうとしてることが良いことかどうかで判断する。
魅力のある人なら周りが動くから、達成の可能性は高まると思うから、判断にプラスはするが、人間的魅力にはついていかない。
だからか、自分も人間的に魅力的になろうとかあまり思わない方だった。
自分がそれについていかないから。
合理的な判断を中心に多くの人が客観的に考えやすい指標から、豊かになり、困ったことを解決できるようなことをいろいろ考えて実行していきたいと基本思っている。
ただ、最近、おぜにさんへの欲を高めると、人間的な魅力が高まるのではないかと思うことがいくつかあった。
特に、砂漠の軍人のように、水さえ飲めれば、達成を目指して、砂を枕にして寝ることもほとんど苦に感じないようなタイプは、なおさらそうだ。
実際に、脆い零細うどん屋の立場で、安心できる状況などあり得ず、自由時間も少ないのでは、脅かされ感がいつもあって、心に余裕が出んわなあ。
たみ家が鉄男プロジェクトに踏み切った理由も、いろいろあって、栗林公園前に讃岐うどんや香川の郷土資料コーナーをつくろうとしても自分もそこにいられないし、信頼できる人を常駐させることもできなかったことも1つだった。
そこで、おぜにさんが入る営業をすれば、働かせてるぐらいだからある程度信頼できるスタッフかどうかわかるし、その人もおぜにさんが入るからこそ、長く来る理由になる。
そこの横に資料コーナーをつくるなら、人を常駐させられる。
おぜにさんが入ることをすることでしか、おぜにさんを取らない郷土資料コーナーを開ける策が見つからなかった。
おぜにさんが信頼と継続と余裕を取り持つケースだと思う。
また、おぜにさんが入ることをするから人が中に入ってくる。
ただ、「うどん資料コーナー」とだけ貼り紙をして、それだけで通行人や観光客を納得させるだけの資料はなかなか集められない。
しかし、お好み焼き屋の待ち時間用の「ゴルゴ13」のような感覚なら、充分といえる資料は集めやすいと思う。
お好み焼きがあるから「ゴルゴ」が読まれるのであって、ゴルゴだけ置いてあっても読まない。
ここ因果関係の説明を飛ばしますが
おぜにさんへの欲があれば、ゴルゴは読まれる。
欲がなければ、読まれない。
よほどのカリスマならともかく
たみ家はカリスマでもないし、カリスマを身につけてそれで何とかしようとも思わない。
盲目的に従うことも、従う人間が回りにいることも苦手だ。
そういうカリスマなき人間にとっては、ある程度、他人が理解できる普遍的な欲があった方が、周囲がついてきやすいのではないかと思うことがときどきあった。
去年なんか、たみ家は、1年に10日ぐらいしか靴下はかなかったし、靴も3日ぐらいしかはかなかった。
「じゃあ、真冬もほとんど素足にサンダルで、たまに0度以下になってはじめてサンダルに靴下かよ!」
この時点で、よほどたみ家を理解してくれてる人以外に対して、ついてきてくれというのは厳しい。
ある程度、うどん店という店舗だけで物事が済んだ段階から、やることやるべきことに広がりを持つようになったことや、会社づくりが現実のものとなったことで、さすらい剣豪のような感覚から、抜け出していかないといけないと思うことが増えた。
Posted by たみ家 at
08:36
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