渋滞学と囲碁

2008年09月01日

ついこないだ、四国新聞で「渋滞学」って取り上げられてました。

たしか数理学の学者の提唱とか書いてあったような。

高速道路の渋滞も

体液の渋滞から来る病気も

富士登山の混雑も

人事の停滞も

狭いところに多くの粒子が集まるという、現象としては同じ性質だと。

たみ家も、普段からけっこうそういう感じ方をする方です。

スキーしてるときと将棋してるときは、同じことをしてると感じていました。

斜面を下まで見ながら、こういってああいって、ここいってこういく。
あっ。思ったような斜面でなかった!(相手が予想外の手で来たのとだいたい同じ感じ方。)
じゃあ、こういこう。

みたいな。

駒が自分の身体か、判断のスピードがもっと速いか、恐怖心がより強いかなどの差で

基本やってることは同じと、正しいかどうかはともかく、たみ家は感じていました。

ところが

「将棋も算数の問題もテニスもスキーもやってることは同じじゃない?やってるときに同じことをしてるなと自分は感じるんだけど。」
とときどきもらしても、なかなか同意が得られません。

実生活では、正しいかどうかは、あまり問題じゃないんです。
正しくても、周囲に理解されないことをしてうまくいくことはまずありませんから。
また、日常のレベルのことは、理解されるための努力まで足したらたいてい元の行為のコストとの合算で割りに合わなくなるし。

商売や株やファッションや村社会、その他テレビなどが形成する世論にかかるものなどにそういう傾向を感じる。

この点、将棋や囲碁は気楽でいい。
たぶん、勝ってる方の考えがより優れているんだなあと、だいたい証明ができるから。

よくある権威主義で、たみ家が言っても納得しなくても、同じことを数理学者や医者や大企業幹部などが言うと納得する。
まあ、わからんでもないけど、自分の頭で、もうちっと考えてくれよと思うことは多々ある。

見た目がまったく違うことを同じと考えるとこが大事で、本質に流れる原則が見えたらそうなると思う。

共通するとこが見えるとより、「根が共通してるのに、見えるものが違うのはなぜか」と違いがより明確になる。


そういう感覚は、囲碁から得たとこが多いと思う。

たとえが強引ですが
おぜにさんや不動産や自分の病気、名声や権力のような性質のまったく違うものを交換し続けながら、最後はそれを数量評価で競う。

地やあげ石などがおぜにさんや不動産で、眼形の乏しさや切断の傷などが健康問題やスキャンダルの心配などで、位や厚みなどが名声や権力など無形で将来に影響するものに似ているかもしれません。

で、ある意味、自分の右腕の骨折と味方の武将への褒美の不動産とおぜにさんと引き換えに、敵の城を破って大将1人やっつけるの割りに合うかな?

みたいな、性質が違うものの交換を評価し続けるわけです。

右腕なら割りに合わんけど、それを左足ともうちょっとの出費に変えたらOK?みたいな他の選択を考えたりもするだろうし。

また、他のとこで起きた事件で、それまでにやったいいことが良くないことに変化することもあります。

土地を買ったのはそのときはいい判断だったけど、他に道路ができてその土地は良い土地じゃなくなった。
みたいな。
じゃあ、その道路ができるのは妨害しとけ、とか、土地買った時点で他に道路ができる可能性まで視野に入れとけよ。
みたいな判断は囲碁では起きます。

で、盤面で起こることの道理をよく理解したうえで、たいてい正確に広く深く考えて、評価して、正しい意見を言ってる方がたいていは勝つわけです。

囲碁では、上野の速球やボルトの快足とかよりもすごいことが起こってても、やってる人でさえも達人がやったことのすごさが目に見えんのが残念ですね。
投手だったら球が速いとか、ホームランが遠くに飛んだとか、すごい人のすごさはやったことのない人でも見えますから。

囲碁もあんなすごさが野球やテニスみたいに肉眼で確認できるものなら、もっとすごい人気になるのにね。
この本質的な弱点を克服ってできないんでしょうか。
大スクリーンで、城壁を破ったときの迫力映像とか、敵の兵糧を断つために輸送経路の橋を爆破みたいなのが見えたらおもろいのにね。
野球が150m飛んで豪快なホームランなら、囲碁のすごい手は竜が火を噴いて街ごとなぎ払ったぐらいのすごさがあるかもしれないのにね。

さて
日常の世渡りなら、正しいことを追求することも、言う必要もないでしょう。
何でも、周りに合わせて置けばいい。

もっと広い範囲の長いこと解決しない問題については、長いこと解決しないだけに、見たとおりの判断はすべて間違いになると思うし、目的と手段を明確に1対1で対応させることもうまくいかない。

見たとおりのことや1対1で対応することは、長いこと解決しないこともないし、問題にもならない。
それでうまくいかないことだけが、長く大きな問題として残るのでは。



この記事へのコメント
私に「コメントしてね~」と言ってるような内容なので。(^^;

囲碁の受けにくさは、見た目に派手さがないところでしょう。白丸と黒丸だけですから・・・。(^^;
それと、死に石を、終局処理までは取り上げないことが多いから、劇的な場面がない。
まあ、そんな劇的な死活の場合、死んだ時点で投了するので、ますますわかりませんね。

囲碁が他の競技と大きく違うのは、勝因がほとんどないことです。敗着という言葉で分析します。よくわかりませんが、このあたりに人気が出にくい原因がありそうですね。

ルールの複雑さがない囲碁の場合、盤面の分析力と洞察力が勝敗を左右します。つまり、自分の欲や都合などを考えると、正確な判断ができないということです。ということは、揺らぐことのない心を持っていないと勝てない、ということになります。
これは囲碁に限ったことではないですが、囲碁の場合、より重要な要素になる気がします。

本質を見極める力(相手の意図と先を読み切る力)と、揺らぐことのない強靭な精神力が勝敗を決めるのだと思います。
Posted by かずかず at 2008年09月06日 08:53
いやあ。まったく誘ってないといえば、ウソになりますねえ。
死んだ大石が最期まで影響しつづけるから、囲碁のよさがあるとはいえ、なかなか難しいですね。

なるほど、将棋にしても囲碁にしても、間違いが起きるから勝負になるってのがほとんどの場合の真実かも。

囲碁は、義務教育にあってもいいような気がする。

実現するかどうかでなく、ほんとに実現したら、日本の知的能力は飛躍的に上がって、国力としての今の問題はほんとにほとんど解消すると思う。
将棋でなく、囲碁でなければ、わざわざそれをする価値はないと思う。
囲碁は抜群に優れたところがあると思う。

ちなみに、たみ家は高校選手権は団体では全国に行ってましたが、その頃、ベスト4に、開成、灘、麻布、8にラサールと筑波大付属駒場が入ってました。

将棋もそこそこ、スーパー進学校が強い傾向がありますが、囲碁は極端です。
家がしっかりしてないと、囲碁って覚える機会が街や学校にないんでしょう。
クラスで自分以外に囲碁のルール知ってる人に会ったことありませんでしたが、当時、将棋は男子でルール知らない人は見たことがありませんでした。

そんなだから、女子の方はしっかりした家のお父さんからしか絶対的に教わる機会がなく、社長や医者のお嬢さんが多く、わざわざ小さいときから、一緒に趣味をしたいと思うような可愛い娘が多かったのか、上位は美人が多かったです。

たみ家もルールだけなら、幼稚園に入る前から覚えてたので、学校でも教える気になったら、そんなに難しいはずないんだけどなあ。
平仮名が書けないときでも、楽に覚えたはずだから、難しくないはずなんだけど。
そのときの状況がまったく記憶にないのですが、逆に、ルールを覚えた記憶すらないから、苦はなかったはず。
Posted by たみ家たみ家 at 2008年09月08日 02:08
 
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    コメント(2)