議論とは? 1
2008年08月02日
これも 1としましたが、 気が向いたときだけ 2以降にしよう。
たみ家の経験上、自分が発する議論というのは
①こうしたら良くなるという 「提案」
か
②それは危険を伴っているよ という 「警鐘」
という具体的な価値を伴っているものが多いと思う。
それは適切なのか、必要なのか、実現できるのか、今の方法の方が良くないか?
今はじめていいのか? 誰の責任で? どこまで範囲広げるんや? おぜにさん何ぼいるんや?
副作用はないんか?そっちの方が危なくないか?
などなどなど
それを論じるのだと思う。
たいてい、誰かの利益や、誰かの不幸について、何とかしようとするものだから、具体的な益があり、それがうまくいかないときの惨状が目に浮かぶから、適当な落としどころはあるにしても、「1発2発の応酬では引き下がらんよ。」
という気持ちが湧くための心理的エネルギーが継続的に補給されることが多い。
また、具体的な利益がないときでも、具体的な利益がからむ場合にどう考えるかについて意見を交えるわけです。
議論が人を幸せにするためや、人の不幸を防ぐため以外に始まるなんて、本来ありえるのか?
たみ家の経験上、自分が発する議論というのは
①こうしたら良くなるという 「提案」
か
②それは危険を伴っているよ という 「警鐘」
という具体的な価値を伴っているものが多いと思う。
それは適切なのか、必要なのか、実現できるのか、今の方法の方が良くないか?
今はじめていいのか? 誰の責任で? どこまで範囲広げるんや? おぜにさん何ぼいるんや?
副作用はないんか?そっちの方が危なくないか?
などなどなど
それを論じるのだと思う。
たいてい、誰かの利益や、誰かの不幸について、何とかしようとするものだから、具体的な益があり、それがうまくいかないときの惨状が目に浮かぶから、適当な落としどころはあるにしても、「1発2発の応酬では引き下がらんよ。」
という気持ちが湧くための心理的エネルギーが継続的に補給されることが多い。
また、具体的な利益がないときでも、具体的な利益がからむ場合にどう考えるかについて意見を交えるわけです。
議論が人を幸せにするためや、人の不幸を防ぐため以外に始まるなんて、本来ありえるのか?
Posted by たみ家 at 07:30│Comments(0)