退職金の性質

2008年07月26日

世の中ウケがあまり良くなくても、こういうことは言っておいた方がいいかなと思うことがいくつかある。

1つは前にも書いたけど、刑罰について遺族の処罰感情は入れるべきでない。
これの延長に、大分の教育委員会の不祥事がある。
試験と刑罰は制度としてはほぼ同じ意味がある。
知ってる人間や目の前にいる人間に対して、情状が入る余地をつくれば、必ずそれは、お金持ってる人間や権力に近い人間だけが何でも好き放題にできるようになる。

最近、遺族の処罰感情を国が入れるようになったのは、国が自分に都合の悪い人間を罰することができるようにするためとか、政治へのウサを他に向けさせるガス抜きのためや、権力に近い人間が、物事をフリーハンドで自分に都合よく曲げる抜け穴をつくるためとかで、国民のためになんて絶対にない。
それでも処罰感情を入れて欲しいという人はいるかもしれない。
しかし、国などは、国民を害したり、コントロールしやすくなると喜びながらそうするだけで、国民のためにではない。
処罰感情を量刑に入れることは、司法制度が大分の教育委員会化するに他ならない。

そういうことって、政治家や霞ヶ関官僚のあまり上品とはいえない飲み話を長く聞いてきたからわかるんだろうか?
普通に誰もがたみ家と同じように考えるしかないほど、理論的にも歴史的にも経験的にもそれしかないと思うんだが。

大分が特別だと思いますか?
香川が同じだとは言わない。
でも、同じことができるええ加減な制度と、それをしたら出世できたり、儲かるなど同じ動機は香川にもある。
同じとは言わないが制度も動機も同じなら、同じことが起こってもなんら不思議ではない。

そして、おおよその公的制度は似たような状況にある。
それをわざわざ広げてかからんでも。

もう1つは、公務員が懲戒免職になった場合に、退職金をもらえなくなるのっておかしくない?

税務や会計をいじってると、退職金って、給与をボーナスを後払いするのと同じように退職後に後払いするもので、すでに「過去に働いて」発生した賃金債権と解釈することになるのが自然だと思う。

すでに働いて発生した賃金の受け取りの権利を仮に、交通事故で当ててしまって、怖くなって逃げて懲戒免職になったからって、もらえなくなるのはおかしい。

普通サラリーマンは、働いた給料は、仮にどんな犯罪を犯してももらえるはず。
痴漢した悪いヤツだから、今まで働いた分の給料をあげないってのはない。

刑罰を受けるからといって、働いてすでに発生した賃金を取られるのは、公務員だろうと普通の会社員だろうとおかしいのは同じだろう。

退職金の性質についてよく次の①~③が挙げられます。

① 長く勤めたご褒美

② 退職後の生活保障

③ 賃金の後払い

最高裁判例はたみ家と同じで、③です。

会社は働いたことに対して、賃金の払い方はいろいろにしても、お金を払わなければならないことは間違いない。
しかし、退職後の生活保障をする理由なんか、国の政策としてはともかく、会社にはないはず。
また、長く勤めたご褒美ってことは、退職金の支払い義務と労務提供の間で、会計的に借り方と貸し方が合わない。
長く勤めたからって、何千万円ももらえるってのは、勤続のご褒美がメインの理由なら対価性がはっきりしないだけに、不自然に多くない?

また、公務員だからこそ、労働の対価としてお金を後払いってのは税金から出す根拠が明確だけど、長く勤めたご褒美が手厚いってのはいかにもお手盛りみたいで、①を取ることこそおかしくないだろうか?

なるほど、まじめに問題なく長く勤めることに対してのご褒美なら、懲戒免職が受け取りできなくなる理由になる可能性はある。
しかし、退職金がすでに発生した労務の対価の後払いなら、受け取りさせない理由は立ちにくい。

公務員の綱紀の粛正や、民の感情のガス抜きを公務員やその家族の生活の基礎であり、すでに発生した労務の対価を奪うことで、何とかしようとするのは、ちょっとこわい。
配偶者が仮に夫として、退職金無しで、支払い能力がなくなったというのに、妻が住宅ローンを払い続けて、こどもの進学をあきらめたりするのだろうか?
これは、賃金の後払い説を取るなら、あまりにも不当だろう。

昔、ユダヤ人がひどい目にあったり、ハンセン病の人達が長いこと隔離された間、誰も声をあげてやらなかったし、やれなかった。
感情で物事を動かしたときに、彼らを良くしようとする感情は働かず、命や人生の全てを奪うまで、感情は良い方に働かなかった。

いじめは命がなくなるまで続けられ。
部活のしごきは大怪我するまで続けられ。
サークルの一気飲みは、命がなくなったり、病院送りになるまで続けられ。

たみ家は、ときどきこういうの直に見たなあ。

で、ガキの世界は幼稚だなあ。なんじゃそりゃ?
と思ったら
歳食った人達の世界を見ても。

歴史もそうだった。
勤め先もそうだった。人のいい人が、ときどき、しなくてもいいはずの過労死してた。
新聞などで見るニュースもそうだった。

ほんとうに大事なときに、ムードや感情を破ることが世の中を良くするための一番大事なことでないかとさえ思える。

ある意味、理詰めで考えることって優しさだと思う。
理詰めでないと、見えない関係に対して、優しくなれないことがある。

公務員の退職金であれ、刑罰であれ、公的なことに感情を入れたら、それは必ず、国を悪くし、人々の生活を悪くする方にしか、向かないことを理詰めと歴史や経験から、今一度見直してもいいと思う。
大きな問題の中に、感情はちょっとでも入れてしまったら、たいがい、暴走しようとするし、暴走を止めることは難しい。
誰かのお子さんが熱心で、親御さんも教育一家で立派な人達だから、点数が足りなくても、先生にしてあげたい。
というのと似ている。

感情はわからんでもない。
でも、そこに作用させてはいけない。
それは戦争や虐殺などにとてもつながりやすいから。
理屈でもそう。歴史でもそう。周囲からの経験でもそうではないでしょうか?



 
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