悪のはじまりと美しき悪

2011年06月14日

自然界に悪は存在しません。

クジラがイワシを大量に呑み込んでも大量殺戮っぽいけど悪でない。

ライオンがシマウマの親子を襲って食っても悪でない。

鹿のオスがメスと交尾だけして立ち去って育児放棄して、子どもがみんな狼に食われても誰も悪でない。

悪とはグループで暮らすようになって初めて発生する。

なぜグループで暮らすかは関数の世界だ。

一交尾で一つの卵塊から一万匹も水中で生まれたら、育児しようがないし、万単位生まれたら、まあ、強くて運が良ければどれかは残るだろうという話。

こんな世界に悪などありようがない。

ところが生理的早産で少子だと、種が残る(「を残す」でなく「が残る」と書いてるのがたみ家の注意深さ)、にはグループで暮らさないと、外敵から身を守るにも、エサ取ってくるにも都合が悪い。

一人だと店開けたまま買い物に行けないのと似てるね。

乳飲み子たくさん抱えてオスが交尾しっぱなしで放浪癖で次のメス追っかけて、単独で母ちゃんエサ取ってこれませんからね。

こうしてグループができて、そこに守るべきものがあって初めて、悪という概念が発生する。

そして、死、殺、滅につながること、その途上にあること、それを防ぐためのシステムを犯すことを概ね悪というようになる。

たみ家のブログでいくつか質の高い分野の一つは、この手の現在の経済学や政策学の柱にきちんとつながる、自然史、文明史や男女のことを絡めた哲学話なのに中学の数学で説明できる関数話だろう。

悪って概念に座標が入って関数になって、あるファクターの動きが何を導くか示すでしょう。

つまり、社会に人口が増える。
老人が増えたり、高学歴を要して社会的に生理的早産化したり、地球環境からの資源が不足すれば、悪の概念が拡張され、義務やルールが増えるわけです。

だから、ちょっと前は16歳の女子高生とセックスしたらいかんなんて犯罪はなかったし、たみ家の頃でも美人の中学生はときどきイケメンの先生と卒業とほぼ同時に結婚すること、そんなに珍しくなかった。

世の中の変化を通じて、必要な政策や条例を考えるのに、上みたいなこと頭に入ってないと、言葉が上滑りで線が細くなるんです。

ここらは大事だし、質も高いし、こういうことをわかってもらった方が政策の議論が通じやすいからもう少し補足しますよ。

現在の政治とか政策とか法とか経済とか科学とか技術なんてのは、自然界において、誰が死のうが殺されようが、滅びようが弱肉強食・適者生存の自然界の掟の結果であり、悪などなかった頃と現代文明の人権思想のもと弱い者を多く生かし、それを維持し続ける社会システム間の齟齬・矛盾を軽減・緩和しようとするものである。

いわゆる「いい人」より、映画などで美しき悪がもてはやされたり、リアルでも異性にモテるのも、文明下の良し悪しと、弱肉強食・適者生存を基本とした人間の根底にあるオスメスの本能的好みとの違いと言えるかもね。

そういう意味では、男女間の本能的な好みにこそ理由があって、それは関数で説明しやすい。
ただ理由を先に考えないだけの話。

実存は本質に先立つなんちゃって。


 
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