香川版 テレビ討論会って?
2008年06月14日
前記事で、全文引用でとあるネット上の記事に疑問を投げかけておりました。
なぜそこまでしたのか。
一見すると、「まちづくり」の活動を正面から否定していると受け取られかねない記事を四国新聞の「論点香川」を執筆されてる方がご自身のサイトで書かれていたのを問題視したからです。
よくあるパターンですが、新聞などに寄稿しようとするときって、自分のブログなどに書いたことを元ネタにして、もう一段階練って原稿にすることってありがちだと思うんです。
「まちづくり」活動や住民の自治への参加を正面から否定する趣旨が、県内で20万部も出る四国新聞上で、かつファンも多い彼の手で書かれることは、超推進派であり、超推進派や推進派の多くの人と活動をともにするたみ家としては、何としてでも、彼の真意を確かめたい、または、討論の場を設けたいと思いました。
また、「あなたの記事を全文引用までして疑問を投げかける輩がおりますよ。」と、彼の知人を通して知ってもらうことで、けん制効果があるのでも良い思いました。
言いたいことはいろいろあるんです。
そもそも経済活動について「全員持ち場につけ」と指令するというのは、行政や政治の指令がまるで、民間の経済活動の上位にあるかのようでないか。
また、「全員が持ち場につけ」と言える潜水艦は、目的がはっきりしているし、持ち場もはっきりしている。
しかし、現在は、何をしたらうまくいくのか誰もわからない、また変化の激しい時代でもある。
変化の少ない時代は、持ち場と権限でモノを言うのが有効であるが、変化が激しい時代には、持ち場と権限にしばられずに流動的に個々の構成員が考えないといけないといわれています。
バーンズとストーカーの機械的組織と有機的組織の理論が参考になるでしょう。
また、「まちづくり」活動には、需要創出の意味があるし、経済活動の場に、人はある意味足りないとも言えるし余ってるともいえる。
トータルでどうというより、状況によって余ったり足りなくなったりする状況をときどきに都合よく使える人を使わないと企業はやっていけんから不安定雇用の問題がある。
前記事でも書いたように持ち場がない、だから、生産の現場という入りを増やす方で活躍するだけでなく、場合によっては出の負担を減らすことで活躍してもらわざるを得ない状況もあるでしょう。
また、今、地域経済に求められていることは需要の創出であり、知恵や知識が高度に実用化されることではないか?
そこには、人が交流する場が必要であり、また、同じ方向を向いて信頼感を醸成することによって、知的・物的資源の共有化による(たとえば気の合うカメラマンが集まったら高額な機材を共有したりできるがそれにはある程度仲間での信頼がいる。)意志ある個人へのエンパワーメント効果がある。
テイラーやマズローや産業史に触れたのは、このあたりの問題に正面から取り組むためのものでした。
不況は生産手段の高度化によって何度も訪れました。
今の地方の衰退も、グローバルエコノミーやITによる通信手段の飛躍的発達や生産現場の合理化によるとこが多いと思い、これは歴史から学べるとこがあると思いました。
「まちづくり」活動は、ある意味、巨大な異業種交流会になれるのではないだろうか?
また、人は、「持ち場につけ」と指令されて、経済的動機のみによって動かすのには限界があるというのが、メイヨー・レスリスバーガーの有名なホーソン工場の実験でいわれたところであり、マズローが段階欲求説によって考えたところでもあろう。
確かに、「まちづくり」活動や住民の自治参加といわれるものについては、生産性の低い一見エネルギーロスと思われることも少なくない。
しかし、かつての職能集団や狭い地域の枠の境界を越え、エネルギーを発する分子が大きく動くためにも、地域の未利用資源の共有化のためにも、経済のパイを大きくし、パイの中の動きを容易にして、パイを大きくするエネルギーを維持、涵養するためにも、「まちづくり」や住民の自治参加は重要であると考える。
人が信頼感を醸成しながら、成長しなければ、地域の経済活動の発展は難しいのではないかと考えるのがたみ家の視点であり、引用したコラムにはその視点がまったくない。
自治への参加うんぬんについても、民主主義がおかしいといわれることについても、問題があるということは、制度と利用したり運用する人間との間で不適合があるということである。
その不適合は何かを考えると、政治参加は投票だけすれば良いとはいえないと考える。
言いたいことはまだまだあるし、言葉じりだけをとらえて行間を読み切るには、引用した文章は量が少ないし、たみ家が真意を読めてない可能性が大いにある。
しかし、この論調で四国新聞に出ると、「まちづくり」活動や住民の自治参加って、やっとる側の自己満足で、意味ないんかなあと思われかねない。
サンデープロジェクトや日曜討論みたいにテレビで
「香川経済非常事態宣言!住民、政治、産業界は何をすべきか!」と題して、NHK高松支局かRNCあたりでやりませんか?
県内の経済界や政治や行政やNPOから人を出して
ネットや電話やファクスなどで生放送中に視聴者からの意見もどんどん拾えるようにして。
よくあるシンポジウムみたいに、なあなあで、シナリオどおりにしゃべって、賛同しあう番組も悪くないけど、そればっかりでもダメだと思う。
まあ、たみ家が出ると「あれ!?誰やそれ?」ってことになりそうなのだし、たみ家はテレビであがるとかそういうのは無いと思うけど、大勢の前に出るのが好かんでうどん屋やってるクチだからまちづくり活動推進派の補欠の補欠ぐらいでお願いします。
なぜそこまでしたのか。
一見すると、「まちづくり」の活動を正面から否定していると受け取られかねない記事を四国新聞の「論点香川」を執筆されてる方がご自身のサイトで書かれていたのを問題視したからです。
よくあるパターンですが、新聞などに寄稿しようとするときって、自分のブログなどに書いたことを元ネタにして、もう一段階練って原稿にすることってありがちだと思うんです。
「まちづくり」活動や住民の自治への参加を正面から否定する趣旨が、県内で20万部も出る四国新聞上で、かつファンも多い彼の手で書かれることは、超推進派であり、超推進派や推進派の多くの人と活動をともにするたみ家としては、何としてでも、彼の真意を確かめたい、または、討論の場を設けたいと思いました。
また、「あなたの記事を全文引用までして疑問を投げかける輩がおりますよ。」と、彼の知人を通して知ってもらうことで、けん制効果があるのでも良い思いました。
言いたいことはいろいろあるんです。
そもそも経済活動について「全員持ち場につけ」と指令するというのは、行政や政治の指令がまるで、民間の経済活動の上位にあるかのようでないか。
また、「全員が持ち場につけ」と言える潜水艦は、目的がはっきりしているし、持ち場もはっきりしている。
しかし、現在は、何をしたらうまくいくのか誰もわからない、また変化の激しい時代でもある。
変化の少ない時代は、持ち場と権限でモノを言うのが有効であるが、変化が激しい時代には、持ち場と権限にしばられずに流動的に個々の構成員が考えないといけないといわれています。
バーンズとストーカーの機械的組織と有機的組織の理論が参考になるでしょう。
また、「まちづくり」活動には、需要創出の意味があるし、経済活動の場に、人はある意味足りないとも言えるし余ってるともいえる。
トータルでどうというより、状況によって余ったり足りなくなったりする状況をときどきに都合よく使える人を使わないと企業はやっていけんから不安定雇用の問題がある。
前記事でも書いたように持ち場がない、だから、生産の現場という入りを増やす方で活躍するだけでなく、場合によっては出の負担を減らすことで活躍してもらわざるを得ない状況もあるでしょう。
また、今、地域経済に求められていることは需要の創出であり、知恵や知識が高度に実用化されることではないか?
そこには、人が交流する場が必要であり、また、同じ方向を向いて信頼感を醸成することによって、知的・物的資源の共有化による(たとえば気の合うカメラマンが集まったら高額な機材を共有したりできるがそれにはある程度仲間での信頼がいる。)意志ある個人へのエンパワーメント効果がある。
テイラーやマズローや産業史に触れたのは、このあたりの問題に正面から取り組むためのものでした。
不況は生産手段の高度化によって何度も訪れました。
今の地方の衰退も、グローバルエコノミーやITによる通信手段の飛躍的発達や生産現場の合理化によるとこが多いと思い、これは歴史から学べるとこがあると思いました。
「まちづくり」活動は、ある意味、巨大な異業種交流会になれるのではないだろうか?
また、人は、「持ち場につけ」と指令されて、経済的動機のみによって動かすのには限界があるというのが、メイヨー・レスリスバーガーの有名なホーソン工場の実験でいわれたところであり、マズローが段階欲求説によって考えたところでもあろう。
確かに、「まちづくり」活動や住民の自治参加といわれるものについては、生産性の低い一見エネルギーロスと思われることも少なくない。
しかし、かつての職能集団や狭い地域の枠の境界を越え、エネルギーを発する分子が大きく動くためにも、地域の未利用資源の共有化のためにも、経済のパイを大きくし、パイの中の動きを容易にして、パイを大きくするエネルギーを維持、涵養するためにも、「まちづくり」や住民の自治参加は重要であると考える。
人が信頼感を醸成しながら、成長しなければ、地域の経済活動の発展は難しいのではないかと考えるのがたみ家の視点であり、引用したコラムにはその視点がまったくない。
自治への参加うんぬんについても、民主主義がおかしいといわれることについても、問題があるということは、制度と利用したり運用する人間との間で不適合があるということである。
その不適合は何かを考えると、政治参加は投票だけすれば良いとはいえないと考える。
言いたいことはまだまだあるし、言葉じりだけをとらえて行間を読み切るには、引用した文章は量が少ないし、たみ家が真意を読めてない可能性が大いにある。
しかし、この論調で四国新聞に出ると、「まちづくり」活動や住民の自治参加って、やっとる側の自己満足で、意味ないんかなあと思われかねない。
サンデープロジェクトや日曜討論みたいにテレビで
「香川経済非常事態宣言!住民、政治、産業界は何をすべきか!」と題して、NHK高松支局かRNCあたりでやりませんか?
県内の経済界や政治や行政やNPOから人を出して
ネットや電話やファクスなどで生放送中に視聴者からの意見もどんどん拾えるようにして。
よくあるシンポジウムみたいに、なあなあで、シナリオどおりにしゃべって、賛同しあう番組も悪くないけど、そればっかりでもダメだと思う。
まあ、たみ家が出ると「あれ!?誰やそれ?」ってことになりそうなのだし、たみ家はテレビであがるとかそういうのは無いと思うけど、大勢の前に出るのが好かんでうどん屋やってるクチだからまちづくり活動推進派の補欠の補欠ぐらいでお願いします。
Posted by たみ家 at 21:43│Comments(2)
この記事へのコメント
繰り返しになりますが我が町大阪はある意味行政主体の
「まちづくり」の結果、財政が「あれ」なことになっています。
選挙のたびに議員さんが「豊かなまちづくりを」などと言いますが
官主体の「まちづくり」は成功せん、と思いこんでいます。
「まちづくり」自体は大切なことだし必要なことだと思います。
ただ「まち」って作るもんなんかなぁ、とも思います。
せいぜい作れる「まち」って町内会クラスじゃないかなぁ。
あっちの町会、こっちの町会、それぞれが独自に出来上がって
それを繋げたら大きな「まち」になる。
それが幾つも出来てさらに繋げたら「都市」になるんでないかな。
そういう意味では「まち」って作るもんじゃなくて
「出来る」もんじゃないかなと思います。
官がすべきは「繋ぐ」ことなんじゃないかと。
そう思うと「まち」を作っても決して経済的には有効には働かん。
もし官が需要の創出のために「まち」を作ったら
おそらくその需要にかかる費用は借金となる。
ATCもWTCも多分なんかの需要を創出しようと思ったんだろうけど結果借金だけが残った。
そういう意味では経済的な「まちづくり」に関しては
とりあえず官はいらんことすな、となるんではないかと思います。
「まちづくり」の結果、財政が「あれ」なことになっています。
選挙のたびに議員さんが「豊かなまちづくりを」などと言いますが
官主体の「まちづくり」は成功せん、と思いこんでいます。
「まちづくり」自体は大切なことだし必要なことだと思います。
ただ「まち」って作るもんなんかなぁ、とも思います。
せいぜい作れる「まち」って町内会クラスじゃないかなぁ。
あっちの町会、こっちの町会、それぞれが独自に出来上がって
それを繋げたら大きな「まち」になる。
それが幾つも出来てさらに繋げたら「都市」になるんでないかな。
そういう意味では「まち」って作るもんじゃなくて
「出来る」もんじゃないかなと思います。
官がすべきは「繋ぐ」ことなんじゃないかと。
そう思うと「まち」を作っても決して経済的には有効には働かん。
もし官が需要の創出のために「まち」を作ったら
おそらくその需要にかかる費用は借金となる。
ATCもWTCも多分なんかの需要を創出しようと思ったんだろうけど結果借金だけが残った。
そういう意味では経済的な「まちづくり」に関しては
とりあえず官はいらんことすな、となるんではないかと思います。
Posted by PSY at 2008年06月15日 23:42
PSYさま
先日はありがとうございました。
この官と民間の関係ってのがなかなか難しいと思います。
世間は、割りに簡単に、官の失敗としますが、民が議会などに働きかけてつくったのではないでしょうか?
そうして、民が官につくらせたものに、民の力が追いつかずに需要を埋めれなかったともいえないでしょうか?
もし、団長日記のように、経済活動について民が95%行政は5%としたら、経済が良くない責任の95%は民の責任ではないでしょうか?
「『まち』って作るもんなんかなぁ」とおっしゃるとおり、「まちづくり」って何ですねん?という話は大事だと思います。
先日はありがとうございました。
この官と民間の関係ってのがなかなか難しいと思います。
世間は、割りに簡単に、官の失敗としますが、民が議会などに働きかけてつくったのではないでしょうか?
そうして、民が官につくらせたものに、民の力が追いつかずに需要を埋めれなかったともいえないでしょうか?
もし、団長日記のように、経済活動について民が95%行政は5%としたら、経済が良くない責任の95%は民の責任ではないでしょうか?
「『まち』って作るもんなんかなぁ」とおっしゃるとおり、「まちづくり」って何ですねん?という話は大事だと思います。
Posted by たみ家
at 2008年06月17日 03:05
