人権と休暇

2010年08月27日

たみ家は、19や20のときは、国家権力や大企業や雇用主の横暴などから弱い立場の人を守る人権派弁護士になりたいとか思ってましたが、旅行やバイトにはまり込んで勉強あまりせず、就職浪人する余裕はないと高望みもせず簡単なところにさっさと就職してしまいました。

さて
民主主義の発生たる古代ギリシャのアテネとか、大量の奴隷に働かせて、市民は働かなくてもよかった。
オール休暇です。

フランス革命からマルクス・レーニンあたりまで、英仏などは植民地を取りまくって、世界中を踏みにじって、1ヶ月のバカンスとか休暇制度など労働条件を整えてきました。

そして、アメリカに押し付けられたと言う人もいる「日本国憲法」は未だアフリカ諸国が独立さえしておらず、アメリカが資本主義世界の覇者だったときの感覚でつくられている。

さらに、冷戦終結まで整えられつつあった日本の労働諸制度は、北米、西欧、日本の6億人が40億人をただの原材料供給地として、踏みにじってきた中でのもの。


日本人は、ちょっとボケてるかもなあと思うのが

福祉にしても、長期や有給の休暇にしても、働かなくて暮らせる部分が大きいのは、過剰に生産してる人があってのことで、それはたいがいたくさんの踏みにじられてる人の存在が前提になっているということを感じてない人が多いのではないかということ。

今は、中国もインドもブラジルも踏みにじられまい、あわよくば踏みにじる側に回ろうとしてるし、アフリカ諸国だってアラブ諸国だってそうだし、ベネズエラなど多くの中南米諸国でも反米政権ができている。

先進国1人で7人もの後進国の人々を踏みつけていた時代の、欧米発の人権や休暇の感覚から、誰も踏みつけにならないぞとなった、今にいたった世界で許容される感覚が同じであるはずはないと思いませんか?

そうやと言っても、人権を後退させるわけにはいかないと、世界中の70億人が言い出したら、そりゃあ、戦争や紛争になりますよなあ。

働かずに、人間らしい生活できるなんて、どっかで誰かが踏みにじられずに成り立つわけないでしょう。
いや、踏みつけなくても、価値を創造すればとか言うのもおかしい。
価値を創造した人に対して、単純労働に回った側との間に、所得や待遇の格差ができ、やっぱり踏みつけられる関係はできてしまう。
イギリスの産業革命は価値をつくったけど、価値をつくったことで、より非知的な国を踏みにじったでしょう。
ITだって、価値を誰かがつくったら、世の中の格差は大きくなったでしょう。
価値をつくることで踏みつけずに、みんなが幸せを大きくできるとか、事実を無視してるのもいいところでアホな空論の典型。

たみ家は踏みにじることが悪いと言いたいのではないですよ。

踏みにじる相手がいなくなったら生き方・考え方を変えないといけないと言ってるだけです。


富国強兵の策が悪かったと歴史を振り返って言えんと思うんです。
欧米列強はすべてヤクザですから。

でも、明治以降急速に、一家で1人の女性が10人こども産むのが当たり前なんて、やっぱり政策が女性を踏みつけてきたんでしょう。
誰かが誰かを踏みつけたから、有色人種で唯一、踏みつけられる国でなく、踏みつける国に回ることができたんでしょう。

戦後どんどん、女性は、踏みつけられなくなっていきましたよね。
そうすると、当然色んなことが変わっていきましたよね。

今まで、日本が手本としてきた民主主義は、その節目節目、常に、民主主義国家が生産手段や教育の遅れた非民主国家の大多数の人々を大いに踏みつけることを謳歌したときの考え方だということはポイントでしょう。



 
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