基本的な思考パターン
2008年05月06日
たみ家は、基本的に、発言の種類の中で何が最も価値があると思っているかというと、「提案」です。
記録も報告も分析も提案のためにあると思います。
提案には、基本的に、「意志」と「価値」があります。
また、未来に働きかけるという意味では、「未知」があって、「道」を開くってのは、韻を踏んだと見せかけてダジャレが言いたかっただけです。
たみ家は何気に、不満を述べたり、現状分析をする人が、その後に「こうしたらいいのに。」とか言って、不満や過去や現状の分析という、現在時点までで発言を打ち切らない人に会うと、ちょっとホッとします。
また、提案してみたら、けっこう自分がその世界に無知なだけで、低レベル提案だったり、月並みだったり、月並みではないけど、もうどっかが似たようなことをやってたりすることも少なくはない。
すると、問題意識をもったうえで、無知な分野について触れると、秀でるまではいかないけど、一発提案を入れて問題意識を持ったがゆえに、並にはすぐにいけると思います。
一発提案が無い状態で、同じ知識を入れても、ほとんど身につかないでしょう。
問題意識の結果で、既出の類似の取り組みをより深く知ることができます。
また、月並みだったり、もうどっかがやってた場合は、「おおっ!自分、まったくその分野のこと知らない状態でも、そこで仕事をしているプロと同じ問題意識を持って、同じレベルの方法論は思いついたわけね。」と自分の考え方自体の正しさの答え合わせができるわけです。
だから、提案は
月並みでも、既出でも、初でも、全部すばらしいわけです。
なぜ全部すばらしくなるのかというと、冒頭のように、必ず、「良くしようとする意志」と、「良くなるであろう潜在的な価値」があるからだと思います。
その人が無知だったとしても、意志のある人に知識を加える結果をもたらすから、そうでない人に知識を加えるのと価値が違うんです。
足し算でなく、掛け算とか、累乗になるみたいな言い方もありでしょうか。
また、似たことですが、後につながるには、自分の提案の低レベルのとこは認めて補おうと勉強したり、既出の中から学べることを学ぼうとしたり、うまくいかない事情についても学んで、考慮できるようにしたりできての話だとは思います。
そもそも類似のものが既出であることが、それがうまくいっていようと、そうでなかろうと、それをすることの妨げになんかなるはずがありません。
うどん屋の近所に当たり前のようにうどん屋が出来るように、類似のものが同じターゲットに向けて、ごく近隣でできるのは当たり前で、出店もアイディアも本質変わらないでしょう。
売り方をちょっと変えたり、価格帯を変えたり、品揃えを増やしたり、既出のアイディアを活かして、新しく世の中の役に立てることはいくらでもあるでしょう。
よく、提案すると「そんなのもう誰かがやってるよ。」とか冷や水をかけるような感じで、言う人がいます。
たみ家はこういう人の病気が治ってほしいと思うことがあります。
地域や日本が活性化しない理由は、この手の病と関係があるのではないかと思ってます。
価値があるかどうか、人の役に立つかどうかが大事なのだから、そのことで困って提案して、何人かの人に聞いてみて、自分の周囲であまり知られてないってことは、既出のアイディアがあっても、広く多くの人の役に立ててないのだから、無いのと同じです。
じゃあ、既出があるなら、商品やアイディアはいいけど訴求の仕方が良くないとか、人の役に立つ良いものなのに埋もれてるものを掘り出して、考えてみることに価値があると思います。
よくあることです。
誰かが呼んでも広がらないあだ名が、ある人が呼ぶと爆発的に広がって、それ以外の呼び方がなくなるとか、もう、本名さえ忘れるとか。
自分の提案が既出のアイディアだったときに、それがあまりうまくいかなかったとしても、構造的にうまくいかないものだってこともあるかもしれないけど、あだ名を呼ぶ人が変わったらすぐに爆発するようなものも多いと思います。
むしろ、ちょっと改良を加えた場合も含めれば、後者のようなことの方が多いのではないでしょうか?
だから、オリジナルと思って、提案して、既出だったら、「ラッキー。初めからつくらなくても、もう研究材料がある。」とか「おおっ。その分野無知なのに、プロと同じ発想ができてる時点で、自分はまあまあやな。」とか、「あれ、既出だけど知らない人も多いなあ。これ多くの人に役立つと思うのに、みんなに知ってもらいたいなあ。」と貢献意欲をかきたてたりで、何も悪いことなんかおこらんわけです。
けっこうオリジナルかなと思って既出だったら、プロと同じ答えを出せたことで、うれしくなってモチベーションが上がって、その分野への勉強意欲が高まることもけっこうあるんです。
そりゃ、日本だけで大人が1億人はおるんやから、最初の提案者でない方が当たり前やから、最初でないのが普通やろうっていう常識的な謙虚さはいると思います。
で、ほんとにオリジナルだったら、それはそれですばらしいなあと思うわけです。
物事を良くしようという発想段階の場に、減点主義や満場一致主義をとるってのがおかしいわけです。
設計や施行の段階は別ですよ。発想段階の場で入れるのがいかんのです。
初だと思ったら、初でなかった。それは厳密に言うと間違いかもしれないけど、初かどうかは世の中の人に役立つかどうかと関係がない。
また、提案は、未来のことを言うわけだから、過去や現在を分析して事実を述べるのと違って、間違う可能性があるし、言えば、周囲に恵まれなければ恥をかくように間違うこともあるでしょう。
また、弁証法的な言い方だと、提案するってことは、なされてない現状の否定であるから、何らかの意味で批判になる。
また、提案という誰かに行動を促すことが、越権行為と感じるセクト主義との摩擦も起こりうる。
というと、縦割り主義とか縄張り意識が強いとこで提案すると、なるほど敵をつくりかねないとかいうと、この国の病ってとこまで広げてもうなずけないでしょうか?
よく日本は恥の文化だといいますが、あまりにも提案する人が少ない状況があると、受講料払ってまで通ってる初心者英会話教室で、講師に「What’s new?」と聞かれて、当てられる順に、「Nothing.」とみんなで答えるのと似てるなあと思います。
未来のことを言うから価値があるのであって、過去や現在の分析はいくらしたって、そこで終わってしまう限りは、そこに未来を良くする意志である提案が乗らんと、何一つ世の中良くなりはしないのにね。
記録も報告も分析も提案のためにあると思います。
提案には、基本的に、「意志」と「価値」があります。
また、未来に働きかけるという意味では、「未知」があって、「道」を開くってのは、韻を踏んだと見せかけてダジャレが言いたかっただけです。
たみ家は何気に、不満を述べたり、現状分析をする人が、その後に「こうしたらいいのに。」とか言って、不満や過去や現状の分析という、現在時点までで発言を打ち切らない人に会うと、ちょっとホッとします。
また、提案してみたら、けっこう自分がその世界に無知なだけで、低レベル提案だったり、月並みだったり、月並みではないけど、もうどっかが似たようなことをやってたりすることも少なくはない。
すると、問題意識をもったうえで、無知な分野について触れると、秀でるまではいかないけど、一発提案を入れて問題意識を持ったがゆえに、並にはすぐにいけると思います。
一発提案が無い状態で、同じ知識を入れても、ほとんど身につかないでしょう。
問題意識の結果で、既出の類似の取り組みをより深く知ることができます。
また、月並みだったり、もうどっかがやってた場合は、「おおっ!自分、まったくその分野のこと知らない状態でも、そこで仕事をしているプロと同じ問題意識を持って、同じレベルの方法論は思いついたわけね。」と自分の考え方自体の正しさの答え合わせができるわけです。
だから、提案は
月並みでも、既出でも、初でも、全部すばらしいわけです。
なぜ全部すばらしくなるのかというと、冒頭のように、必ず、「良くしようとする意志」と、「良くなるであろう潜在的な価値」があるからだと思います。
その人が無知だったとしても、意志のある人に知識を加える結果をもたらすから、そうでない人に知識を加えるのと価値が違うんです。
足し算でなく、掛け算とか、累乗になるみたいな言い方もありでしょうか。
また、似たことですが、後につながるには、自分の提案の低レベルのとこは認めて補おうと勉強したり、既出の中から学べることを学ぼうとしたり、うまくいかない事情についても学んで、考慮できるようにしたりできての話だとは思います。
そもそも類似のものが既出であることが、それがうまくいっていようと、そうでなかろうと、それをすることの妨げになんかなるはずがありません。
うどん屋の近所に当たり前のようにうどん屋が出来るように、類似のものが同じターゲットに向けて、ごく近隣でできるのは当たり前で、出店もアイディアも本質変わらないでしょう。
売り方をちょっと変えたり、価格帯を変えたり、品揃えを増やしたり、既出のアイディアを活かして、新しく世の中の役に立てることはいくらでもあるでしょう。
よく、提案すると「そんなのもう誰かがやってるよ。」とか冷や水をかけるような感じで、言う人がいます。
たみ家はこういう人の病気が治ってほしいと思うことがあります。
地域や日本が活性化しない理由は、この手の病と関係があるのではないかと思ってます。
価値があるかどうか、人の役に立つかどうかが大事なのだから、そのことで困って提案して、何人かの人に聞いてみて、自分の周囲であまり知られてないってことは、既出のアイディアがあっても、広く多くの人の役に立ててないのだから、無いのと同じです。
じゃあ、既出があるなら、商品やアイディアはいいけど訴求の仕方が良くないとか、人の役に立つ良いものなのに埋もれてるものを掘り出して、考えてみることに価値があると思います。
よくあることです。
誰かが呼んでも広がらないあだ名が、ある人が呼ぶと爆発的に広がって、それ以外の呼び方がなくなるとか、もう、本名さえ忘れるとか。
自分の提案が既出のアイディアだったときに、それがあまりうまくいかなかったとしても、構造的にうまくいかないものだってこともあるかもしれないけど、あだ名を呼ぶ人が変わったらすぐに爆発するようなものも多いと思います。
むしろ、ちょっと改良を加えた場合も含めれば、後者のようなことの方が多いのではないでしょうか?
だから、オリジナルと思って、提案して、既出だったら、「ラッキー。初めからつくらなくても、もう研究材料がある。」とか「おおっ。その分野無知なのに、プロと同じ発想ができてる時点で、自分はまあまあやな。」とか、「あれ、既出だけど知らない人も多いなあ。これ多くの人に役立つと思うのに、みんなに知ってもらいたいなあ。」と貢献意欲をかきたてたりで、何も悪いことなんかおこらんわけです。
けっこうオリジナルかなと思って既出だったら、プロと同じ答えを出せたことで、うれしくなってモチベーションが上がって、その分野への勉強意欲が高まることもけっこうあるんです。
そりゃ、日本だけで大人が1億人はおるんやから、最初の提案者でない方が当たり前やから、最初でないのが普通やろうっていう常識的な謙虚さはいると思います。
で、ほんとにオリジナルだったら、それはそれですばらしいなあと思うわけです。
物事を良くしようという発想段階の場に、減点主義や満場一致主義をとるってのがおかしいわけです。
設計や施行の段階は別ですよ。発想段階の場で入れるのがいかんのです。
初だと思ったら、初でなかった。それは厳密に言うと間違いかもしれないけど、初かどうかは世の中の人に役立つかどうかと関係がない。
また、提案は、未来のことを言うわけだから、過去や現在を分析して事実を述べるのと違って、間違う可能性があるし、言えば、周囲に恵まれなければ恥をかくように間違うこともあるでしょう。
また、弁証法的な言い方だと、提案するってことは、なされてない現状の否定であるから、何らかの意味で批判になる。
また、提案という誰かに行動を促すことが、越権行為と感じるセクト主義との摩擦も起こりうる。
というと、縦割り主義とか縄張り意識が強いとこで提案すると、なるほど敵をつくりかねないとかいうと、この国の病ってとこまで広げてもうなずけないでしょうか?
よく日本は恥の文化だといいますが、あまりにも提案する人が少ない状況があると、受講料払ってまで通ってる初心者英会話教室で、講師に「What’s new?」と聞かれて、当てられる順に、「Nothing.」とみんなで答えるのと似てるなあと思います。
未来のことを言うから価値があるのであって、過去や現在の分析はいくらしたって、そこで終わってしまう限りは、そこに未来を良くする意志である提案が乗らんと、何一つ世の中良くなりはしないのにね。
Posted by たみ家 at 13:06│Comments(2)
この記事へのコメント
おっしゃっていること、本当にそう思います。
意見が意見として素直に聞き入れてもらえるところは始めからないと思って、摩擦を恐れずに発言する勇気が必要なんでしょうね。そして、根気よく相手に『批判ではなく、提案なんだ』とわからせる努力も必要なのかもしれませんね。
意見が意見として素直に聞き入れてもらえるところは始めからないと思って、摩擦を恐れずに発言する勇気が必要なんでしょうね。そして、根気よく相手に『批判ではなく、提案なんだ』とわからせる努力も必要なのかもしれませんね。
Posted by 柳下玲優 at 2008年05月07日 00:01
柳下さま
ありがとうございます。
提案と摩擦って問題もありますが、それ以前に、何となく現実を是認したり、自分のやれることを初めから過小評価してることも大きいように思います。
ありがとうございます。
提案と摩擦って問題もありますが、それ以前に、何となく現実を是認したり、自分のやれることを初めから過小評価してることも大きいように思います。
Posted by たみ家
at 2008年05月07日 22:27
