KYと経営学と英語学習
2008年04月19日
昔、アメリカ北東部の小さな町で、向こうの地元紙を読みました。
中小企業経営者や管理職向けのメッセージで、「イスラム教徒が勤務時間にお祈りを始めるようなことに理解を示し、寛容であれ。」
そんな見出しがありました。
これから日本がとるべき道は少子高齢化の中で、違和感のある習慣に対して不寛容な状況から、外国からの移民受け入れの大先輩であるアメリカをある程度見習って、様々な未知の習慣に対して寛容にシフトすることではないでしょうか?
そうであれば、「KY」のように、狭いお友達空間の中で通用する感覚にすがりつくような言葉は、当然、偏狭な認識や世界観から来るわけでよろしくないということになる。
去年の流行語大賞の賞の中にあったか知りませんが、今年の賞に「KY」が入るようであれば、また日本は危なっかしい国になったと思えるわけです。
また、名古屋高裁の裁判長が誰かに襲われるようなことになれば、まさに、「2.26」や「5.15」の再来です。
名古屋高裁の裁判長が感情の爆発によって襲われるようなことが起こらないことを深く祈りたい。
また、経営学の最初の立てりで、マネジメントを「外部に対するマネジメント」と「内部に対するマネジメント」に大別します。
外部マネジメントは、主に市場、次いで取引先、経済動向や政治動向や人口動態など組織の外側の変化への対応について。
内部マネジメントは、組織内部の人事を中心とした対応について。
ここで、すべての組織の崩壊の最も多い理由は、内部の価値を優先しているうちに外部への感覚が麻痺することと言われたと思います。
外部への価値よりも内部の価値を優先したときに組織は崩壊するってことです。
最近、従業員価値を高めるとか、従業員満足を高めるという会社が増えてますが、これらは、それが外部への価値を高める手段になるからそうすると言ってるに過ぎません。
すると、学校に行ってる、ガキンチョさんたちが「KY」って言って、内部のものさしを最優先して、良心に基づく善悪やルールを無視できるのは、構造的になぜか?という疑問が氷解します。
ガキンチョさんたちは、外部からの暴風からは、すべて親や学校の保護で守られているんです。
だから、ぬるま湯の中で、狭い感覚の中で、「KY」なんて甘ったれて言えるわけです。
そういう甘ったれさんのお子ちゃま言葉を、マスメディアや政治家や大の大人が意味合いも考えずに軽々しく使うんはおかしいのよ。
人生の先輩は、自分たちの狭い仲間内の感覚から離れて、外の感覚に触れていき、良心に基づいて行動するように、毅然として、ガキンチョさんたちに諭さなければならないのではないでしょうか?
迎合したり、意味も考えずにおもしろがって、大人が使うもんじゃあないでしょ!
今日、新聞報道で、それなりの地位にある人が高裁判決に対して「そんなの関係ねぇ」とか言ったとか、たみ家は「2.26」「5.15」にだけはつながって欲しくないと思いました。
そういや、英語学習との関連に触れてませんでしたが、英語学習には健全な世界観を養う意味もあると思うし、広く世界のニュース、特に世界に資本と軍を送っているアメリカの問題意識に基づく、広く当事者的な世界への関心に近づく意味があると思います。
日本の国際ニュースは遅すぎるし、選ばれる題材へのバイアスがかかり過ぎているように思えます。
中小企業経営者や管理職向けのメッセージで、「イスラム教徒が勤務時間にお祈りを始めるようなことに理解を示し、寛容であれ。」
そんな見出しがありました。
これから日本がとるべき道は少子高齢化の中で、違和感のある習慣に対して不寛容な状況から、外国からの移民受け入れの大先輩であるアメリカをある程度見習って、様々な未知の習慣に対して寛容にシフトすることではないでしょうか?
そうであれば、「KY」のように、狭いお友達空間の中で通用する感覚にすがりつくような言葉は、当然、偏狭な認識や世界観から来るわけでよろしくないということになる。
去年の流行語大賞の賞の中にあったか知りませんが、今年の賞に「KY」が入るようであれば、また日本は危なっかしい国になったと思えるわけです。
また、名古屋高裁の裁判長が誰かに襲われるようなことになれば、まさに、「2.26」や「5.15」の再来です。
名古屋高裁の裁判長が感情の爆発によって襲われるようなことが起こらないことを深く祈りたい。
また、経営学の最初の立てりで、マネジメントを「外部に対するマネジメント」と「内部に対するマネジメント」に大別します。
外部マネジメントは、主に市場、次いで取引先、経済動向や政治動向や人口動態など組織の外側の変化への対応について。
内部マネジメントは、組織内部の人事を中心とした対応について。
ここで、すべての組織の崩壊の最も多い理由は、内部の価値を優先しているうちに外部への感覚が麻痺することと言われたと思います。
外部への価値よりも内部の価値を優先したときに組織は崩壊するってことです。
最近、従業員価値を高めるとか、従業員満足を高めるという会社が増えてますが、これらは、それが外部への価値を高める手段になるからそうすると言ってるに過ぎません。
すると、学校に行ってる、ガキンチョさんたちが「KY」って言って、内部のものさしを最優先して、良心に基づく善悪やルールを無視できるのは、構造的になぜか?という疑問が氷解します。
ガキンチョさんたちは、外部からの暴風からは、すべて親や学校の保護で守られているんです。
だから、ぬるま湯の中で、狭い感覚の中で、「KY」なんて甘ったれて言えるわけです。
そういう甘ったれさんのお子ちゃま言葉を、マスメディアや政治家や大の大人が意味合いも考えずに軽々しく使うんはおかしいのよ。
人生の先輩は、自分たちの狭い仲間内の感覚から離れて、外の感覚に触れていき、良心に基づいて行動するように、毅然として、ガキンチョさんたちに諭さなければならないのではないでしょうか?
迎合したり、意味も考えずにおもしろがって、大人が使うもんじゃあないでしょ!
今日、新聞報道で、それなりの地位にある人が高裁判決に対して「そんなの関係ねぇ」とか言ったとか、たみ家は「2.26」「5.15」にだけはつながって欲しくないと思いました。
そういや、英語学習との関連に触れてませんでしたが、英語学習には健全な世界観を養う意味もあると思うし、広く世界のニュース、特に世界に資本と軍を送っているアメリカの問題意識に基づく、広く当事者的な世界への関心に近づく意味があると思います。
日本の国際ニュースは遅すぎるし、選ばれる題材へのバイアスがかかり過ぎているように思えます。
Posted by たみ家 at 21:27│Comments(2)
この記事へのコメント
たみ屋さんと同意見です。
「KY」に対して深く考えたことが無かったのでなるほどと思いました。
私も英語学習はマスメディアのバイアスから逃れる1つの手段だと思います。
以前「翻訳文化を捨てろ」という意見を持っていました。翻訳をすると翻訳者のバイアスがかかるからです。情報も同じですね。ダイレクトに情報を手に入れるために他言語を学ぶべきだと思います。少なくとも一番使われている英語を学ぶ意味はあると思います。
「KY」に対して深く考えたことが無かったのでなるほどと思いました。
私も英語学習はマスメディアのバイアスから逃れる1つの手段だと思います。
以前「翻訳文化を捨てろ」という意見を持っていました。翻訳をすると翻訳者のバイアスがかかるからです。情報も同じですね。ダイレクトに情報を手に入れるために他言語を学ぶべきだと思います。少なくとも一番使われている英語を学ぶ意味はあると思います。
Posted by 屋台ブルー
at 2008年04月21日 21:39

屋台ブルーさま
英語学習の意味について、中教審で議論されてることが、マスコミや市民の間でいろいろ言われますが、論ずる意味合いがとにかく狭すぎると思うんです。
よく「日本語がしっかりしてから英語」っていう人がいますが、別次元のもので、日本語がしっかりするまで算数をするなっていうのと似てるとこがあると思います。
英語学習の意味について、中教審で議論されてることが、マスコミや市民の間でいろいろ言われますが、論ずる意味合いがとにかく狭すぎると思うんです。
よく「日本語がしっかりしてから英語」っていう人がいますが、別次元のもので、日本語がしっかりするまで算数をするなっていうのと似てるとこがあると思います。
Posted by たみ家
at 2008年04月22日 18:40
