自由な社会は不自由
2008年04月13日
地域の問題を考えたときに、「はて?」と目的に帰ろうとして
「豊かな社会」って何?
「平等」って何?
「自由な社会」って?
そもそも「自由」って?
といういろいろな考え方や言い方がありそうな問題に直面します。
自由の反対は、国などが税金をたくさんとって、規制をたくさんかけることだとします。
じゃあ、自由は、税金を少なくして、規制をかけないことになってしまう。
すると、生活保護や高齢者福祉などにお金はいきません。車椅子で外に出られるような公共交通機関やさまざまな施設でのバリアフリー化などが遅れます。
また、最低賃金や労働条件などさまざまに規制をかけていかないと、企業の方が生身の労働者よりも自由に契約すると圧倒的に強く出られるので、労働者は常に厳しい立場におかれます。
自由にすると、結果的に人々の暮らしのレベルで見たときに、不自由な人が圧倒的に増えてしまう。
これは、新自由主義とかいわれる改革路線と通じて、結果として、格差社会といわれるようになりました。
これは、以前に書いた、「潜在能力アプローチ」から見て、問題があることは明白、というより、それ以前の問題ですが。
また、小泉改革路線は、そう悪くもなかったが、副作用も大きかったと思う。
個々具体の副作用へのケアはともかくとして、荒療治が必要な状況だったとは思える。
自由ってのは、熱に似てて、分子の運動がはげしくなる状況にたとえられそう。
つまり、座標に点を打つと、平均から大きな距離の点が無数に増えていく状況になる。
そして、お金は、「個人飲食店と国 2」で書いたように、低いところから高いところに流れる性質があります。
だから、単純で形式的な自由は、少数のお金持ちと多数の低所得者を二極化し、その差をどんどん広げようとします。
格差社会ですね。
インターネットの普及やグローバリゼイションのようなさらなる分子の活発化は、さらに、この差を速く拡大させていくことになるでしょう。
この辺は、全然くわしくないのですが、「熱」にすごく似てると思うんです。
ここで、2重の意味で、標準偏差がリスクであるという考え方に出くわします。
いや、組織の変革を妨げるのが変化を嫌う心情にあるとすると、さらにもう一段階、標準偏差がリスクということにかかります。
世の中にあふれている、すべての変化には、変化に対応するための初期投資や選択を必要とします。
何気ないことでも、変化というものは、力がない者を淘汰しようとする作用を働かせます。
そして、コインの表裏でのギャンブルの例でも書きましたが、平均期待収益の高い投資は、個々の結果と平均値との乖離が大きいものなので、お金持ちしか平均期待収益率の高い投資は出来ませんし、口座開設手数料など、大きな取引が出来る人しか、初期投資を回収しにくいし、余裕資金であれば、時間的なフレを減らして、コインをたくさん投げれば、ほっておいてもほぼ表裏2分の1ずつになるように、投資市場の平均に結果を近づけるようリスクヘッジできます。
これらのことは、お金持ちしか、収益性の高い投資はできないのだから、お金はほっておくと高いところに流れ、そうでない人は努力によって、その不利を補うという結論を導きます。
投資の話は、収益率 a 投資額 X 口座開設料など初期投資の固定費が b
お店なら、 粗利 a 売上 X 家賃など固定費 b
の 利益=aX-bに似てて
努力して、コスト意識を高めて、aの率を上げ、営業がんばっていい商品を出して、人気を高めて、Xを大きくし、大家さんと交渉したり、いい物件を探したりして、bを下げるとか、お金持ちじゃなかったら努力することになると思う。
標準偏差、大数の法則、単純な一次の方程式など、簡単な算数の理屈は、「お金は高きに流れます。」と常識で言われていることを思い切り、念押ししてきます。
すると、単純で形式的な自由が、多数の自由を奪う結果を導きがちになることも明白。
だから、議員でも役人でも、経済界のリーダーでも、適切な規制や調整をかける眼力が要求されるし、また、普通の一般市民がそれを監視したり、タガが緩まないように、適切なプレッシャーをかけられるよう、また協働できるよう、勉強してないといかんという結論になってくる。
そう思うと
「豊かな社会」って何ですか?
「平等」って何ですか?
「幸せ」って何ですか?
「じゃあ、個々の幸せと社会はどう関わるものなの?」
そういうような問いかけが意味を持ってくる。
経済学とか、法律学だけでなく、その他多くの学問の領域は、そういう脈の中で価値を持ち、それぞれ関連していくものではないだろうか?
「豊かな社会」って何?
「平等」って何?
「自由な社会」って?
そもそも「自由」って?
といういろいろな考え方や言い方がありそうな問題に直面します。
自由の反対は、国などが税金をたくさんとって、規制をたくさんかけることだとします。
じゃあ、自由は、税金を少なくして、規制をかけないことになってしまう。
すると、生活保護や高齢者福祉などにお金はいきません。車椅子で外に出られるような公共交通機関やさまざまな施設でのバリアフリー化などが遅れます。
また、最低賃金や労働条件などさまざまに規制をかけていかないと、企業の方が生身の労働者よりも自由に契約すると圧倒的に強く出られるので、労働者は常に厳しい立場におかれます。
自由にすると、結果的に人々の暮らしのレベルで見たときに、不自由な人が圧倒的に増えてしまう。
これは、新自由主義とかいわれる改革路線と通じて、結果として、格差社会といわれるようになりました。
これは、以前に書いた、「潜在能力アプローチ」から見て、問題があることは明白、というより、それ以前の問題ですが。
また、小泉改革路線は、そう悪くもなかったが、副作用も大きかったと思う。
個々具体の副作用へのケアはともかくとして、荒療治が必要な状況だったとは思える。
自由ってのは、熱に似てて、分子の運動がはげしくなる状況にたとえられそう。
つまり、座標に点を打つと、平均から大きな距離の点が無数に増えていく状況になる。
そして、お金は、「個人飲食店と国 2」で書いたように、低いところから高いところに流れる性質があります。
だから、単純で形式的な自由は、少数のお金持ちと多数の低所得者を二極化し、その差をどんどん広げようとします。
格差社会ですね。
インターネットの普及やグローバリゼイションのようなさらなる分子の活発化は、さらに、この差を速く拡大させていくことになるでしょう。
この辺は、全然くわしくないのですが、「熱」にすごく似てると思うんです。
ここで、2重の意味で、標準偏差がリスクであるという考え方に出くわします。
いや、組織の変革を妨げるのが変化を嫌う心情にあるとすると、さらにもう一段階、標準偏差がリスクということにかかります。
世の中にあふれている、すべての変化には、変化に対応するための初期投資や選択を必要とします。
何気ないことでも、変化というものは、力がない者を淘汰しようとする作用を働かせます。
そして、コインの表裏でのギャンブルの例でも書きましたが、平均期待収益の高い投資は、個々の結果と平均値との乖離が大きいものなので、お金持ちしか平均期待収益率の高い投資は出来ませんし、口座開設手数料など、大きな取引が出来る人しか、初期投資を回収しにくいし、余裕資金であれば、時間的なフレを減らして、コインをたくさん投げれば、ほっておいてもほぼ表裏2分の1ずつになるように、投資市場の平均に結果を近づけるようリスクヘッジできます。
これらのことは、お金持ちしか、収益性の高い投資はできないのだから、お金はほっておくと高いところに流れ、そうでない人は努力によって、その不利を補うという結論を導きます。
投資の話は、収益率 a 投資額 X 口座開設料など初期投資の固定費が b
お店なら、 粗利 a 売上 X 家賃など固定費 b
の 利益=aX-bに似てて
努力して、コスト意識を高めて、aの率を上げ、営業がんばっていい商品を出して、人気を高めて、Xを大きくし、大家さんと交渉したり、いい物件を探したりして、bを下げるとか、お金持ちじゃなかったら努力することになると思う。
標準偏差、大数の法則、単純な一次の方程式など、簡単な算数の理屈は、「お金は高きに流れます。」と常識で言われていることを思い切り、念押ししてきます。
すると、単純で形式的な自由が、多数の自由を奪う結果を導きがちになることも明白。
だから、議員でも役人でも、経済界のリーダーでも、適切な規制や調整をかける眼力が要求されるし、また、普通の一般市民がそれを監視したり、タガが緩まないように、適切なプレッシャーをかけられるよう、また協働できるよう、勉強してないといかんという結論になってくる。
そう思うと
「豊かな社会」って何ですか?
「平等」って何ですか?
「幸せ」って何ですか?
「じゃあ、個々の幸せと社会はどう関わるものなの?」
そういうような問いかけが意味を持ってくる。
経済学とか、法律学だけでなく、その他多くの学問の領域は、そういう脈の中で価値を持ち、それぞれ関連していくものではないだろうか?
Posted by たみ家 at 21:02│Comments(0)