「消費」は解決にならない

2009年06月23日

消費によって、短期には、景気は回復するだろう。

しかし、マンションも建て続けるわけにはいかないし

支払い能力の怪しい人に貸し続けて消費させても、サブプライムローン問題のようなことになる。

能力向上の伴わない「消費」は、長期で見ると消耗と疲弊しか生まない。

人口が増え続けている中で永遠に焼畑農業で生きるようなものであり、借金をし続けながらの自転車操業でもある。

社会保障費の削減の取りやめも、高速道路無料化も、それ自体は焼畑農業&多重債務者へのまっしぐらの贅沢になる可能性をはらんでいる。

高速道路利用しない人のおぜにさんが利用する人のおぜにさんとして流れるだけ。
学校教育や研究開発の財源が、高齢化医療費などに流れるだけ。
それ自体は、その後の能力的な裏づけがないと「消耗」につながる。

可耕地を増やすとか、同じ耕地内での付加価値を高めるとか、気象変動のリスクを軽減する方法を見出すとか、借りても払えるだけ給料を稼げる力をつけるとか、能力の裏づけでしか、問題は解決できない。

消費「すること」が解決でなく

消費できる「能力」を生み出し維持し続けることが解決なのだ。

ただ、常に「能力」には落とす重力のような力がかかり続けるから、維持ではだめで、向上し続ける必要があって、普段ぐんぐん向上し続けててはじめて、リスク発現時などとの平均でやっと維持になるのだ。

その能力は、95%以上はお勉強で生まれる、そしてお勉強の力は囲碁で極端に向上させられる。

お勉強以外のことで、この国の問題を解決できることは一切ない。
一切ない。絶対的にありえない。

たみ家はその可能性がありそうに思えたものを見たことがないし、今、ここで聞いたら、何か答えが返ってくるだろうか?

もしお勉強でも解決できないのなら、どんな方法も一切ないということ。
それ以外に一切可能性がないのだから、ひたすらそこに打ち込むのみ。

囲碁の早期必修化は、高齢者医療費の維持、学校教育費の維持、子育て支援費の捻出、高速道路無料化費用の捻出などの中・長期的な解決策として非常に優れているのだ。

囲碁をしたからといって、お勉強ができるかどうかは限らない。
しかし、体育競技でいうところのスポーツテスト1級の肉体と広い関節の可動域が手に入るのはそうだろう。

囲碁は、飢えなど貧困や不安に苦しむ人の問題を短期には無理だが、短期の策を施しながらも、並行して、中長期の解決をもたらす策として、極めて重要なのだ。
だから、囲碁をしようという話は、貧困に苦しむ人への思いやりであり暖かさなのだ。

たみ家は自分の好きなことを大事だと言ってるのではない。

好きであろうと嫌いであろうと、重要で人の幸せにつながったり人の不幸を減らす可能性があると思うことに近づいていって、その意味を確かめて、重要と認めたものについて、期待できる効果と理由やそれを言わんとする背景について言うだけなのだ。

もともと好きなものも嫌いなものもない。

重要だと認めたものを好きになっていくことが多いだけ。



 
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