何のために
2008年02月23日
四国銀行の待ち時間で、5分ほど日経ビジネスを斜め読み。
ドリス・ドラッカーという、弁理士でもあり、ピーター・ドラッカーという2年ほど前になくなった超偉人の未亡人へのインタビューが載ってました。
そこに、たみ家が地名について書いたり、割箸のリサイクルやマイ箸に疑問を投げかける背景に近い考え方が書かれてました。
ピーターが言うに
社会に何が起きていて、何をすべきかを自分で考え、それを実践することが大事。
しかし、環境問題をはじめとした新しい問題が時代の変化とともに出てくるので、そのための考え方も刻々と進化しなければならない。
そのうえで、人々が、いきいきと活動し、社会の成員として成果を上げられる「エフェクティブ」な存在であってほしい。
そのために、社会と人、またその関わりに焦点を当て続け、考えたり、表現し続けてきたのだ。
と
箸の問題についていうなら、端(箸)おりますが、
・社会に起きてることを誤認してないか?
・充分に、産業や、人々の暮らし、他の環境指標との調和が取れるように考えられているか?
・刻々と問題解決のためのアプローチや技術の進化がある中で、その方法で良いのか?
・生身の人間や外食をしている人がいるという都市生活とそれを必要とする現代の資本主義社会というものをきちんと眺めているだろうか?
・また、効果が上がりそうにないことに長年かかわることは、責任的にも、人々がいきいきと価値ある存在であろうとすることにも引っかかりはしないか?
地名についても、世の中に起こることに敏感になるには、身近なものに、疑問を持って、探求したり、そこに理由を見出すことが大事なんではないかと思う。
何気ない風景や人々の会話なども含めて、何かに瞬間的に「!?」となることが大事で、町名探求はそれ自体がトリビアとして楽しいし、町歩きなど、今、地域で盛り上げようとしているテーマの素材とも関わるし、「!?」てなるトレーニングにはとてもいいと思う。
まだ書いてないけど
世俗的に当たり前に言われてることに
標準偏差とか、Xの何乗とか、わざわざめんどうに書くことがあるかもしれません。
それは、世俗的に言われていることを評価するのにも、方法の進化がいると思うからです。
たとえば、いいことは最低でも2次方程式、悪いことは1次の方程式とか、たみ家は考えてます。
事故に合ったらその場で不幸、でも、健康はさらにそれを活かす努力をしないとそれを幸せにつなげられない。
1000万円失ったら、即不幸、でも、得たとしても、家族の争いや周囲のやっかみのタネにしないように努力したり、有益に使わないと、幸せにつなげられるかはわからない。
物事を良くするには最低2度入力がいる。
だから成し難いことも多いし、ときに、一人の勝者に対して、多くの敗者にもなるんだと思うし、また、悪い結果はすぐに出ることが多いのに対して、いい結果を求めるには才気だけでなく、忍耐がいるのだと思う。
また、マイクロソフトのような超巨大企業ができるのを考えると、足し算でなく、技術、戦略、パートナー、時勢・運、努力・継続など、足し算でなく、高次に累乗か積という考えでないと説明がしにくいと思います。
わざわざ標準偏差とか方程式に持っていくのは、現代、何かやろうと思うと、たいてい何かを犠牲にしたり、抵触する副作用・反射的作用に悩まされることが多いと思います。
世俗的な言い方では、比較ができませんが、標準偏差とか、数学の概念を引っ張ると、座標に効果の点を記して、最適な線を描きそれに近いのはどちらか、とか、ある条件が動いたら、他はどうなるとか、比較ができるようになると思います。
何について言及するかとか
なぜ、わざわざ簡単に言われてることを難しげに書くのかとか
結局は、ピーター・ドラッカーが大事にしてきたことにたみ家も共感しているからかなあと思います。
普段は、無意識に近く、感覚的に行動してるのですが、その根元にやっぱりそういうものがあるなあとはときどき感じたりします。
ドリス・ドラッカーという、弁理士でもあり、ピーター・ドラッカーという2年ほど前になくなった超偉人の未亡人へのインタビューが載ってました。
そこに、たみ家が地名について書いたり、割箸のリサイクルやマイ箸に疑問を投げかける背景に近い考え方が書かれてました。
ピーターが言うに
社会に何が起きていて、何をすべきかを自分で考え、それを実践することが大事。
しかし、環境問題をはじめとした新しい問題が時代の変化とともに出てくるので、そのための考え方も刻々と進化しなければならない。
そのうえで、人々が、いきいきと活動し、社会の成員として成果を上げられる「エフェクティブ」な存在であってほしい。
そのために、社会と人、またその関わりに焦点を当て続け、考えたり、表現し続けてきたのだ。
と
箸の問題についていうなら、端(箸)おりますが、
・社会に起きてることを誤認してないか?
・充分に、産業や、人々の暮らし、他の環境指標との調和が取れるように考えられているか?
・刻々と問題解決のためのアプローチや技術の進化がある中で、その方法で良いのか?
・生身の人間や外食をしている人がいるという都市生活とそれを必要とする現代の資本主義社会というものをきちんと眺めているだろうか?
・また、効果が上がりそうにないことに長年かかわることは、責任的にも、人々がいきいきと価値ある存在であろうとすることにも引っかかりはしないか?
地名についても、世の中に起こることに敏感になるには、身近なものに、疑問を持って、探求したり、そこに理由を見出すことが大事なんではないかと思う。
何気ない風景や人々の会話なども含めて、何かに瞬間的に「!?」となることが大事で、町名探求はそれ自体がトリビアとして楽しいし、町歩きなど、今、地域で盛り上げようとしているテーマの素材とも関わるし、「!?」てなるトレーニングにはとてもいいと思う。
まだ書いてないけど
世俗的に当たり前に言われてることに
標準偏差とか、Xの何乗とか、わざわざめんどうに書くことがあるかもしれません。
それは、世俗的に言われていることを評価するのにも、方法の進化がいると思うからです。
たとえば、いいことは最低でも2次方程式、悪いことは1次の方程式とか、たみ家は考えてます。
事故に合ったらその場で不幸、でも、健康はさらにそれを活かす努力をしないとそれを幸せにつなげられない。
1000万円失ったら、即不幸、でも、得たとしても、家族の争いや周囲のやっかみのタネにしないように努力したり、有益に使わないと、幸せにつなげられるかはわからない。
物事を良くするには最低2度入力がいる。
だから成し難いことも多いし、ときに、一人の勝者に対して、多くの敗者にもなるんだと思うし、また、悪い結果はすぐに出ることが多いのに対して、いい結果を求めるには才気だけでなく、忍耐がいるのだと思う。
また、マイクロソフトのような超巨大企業ができるのを考えると、足し算でなく、技術、戦略、パートナー、時勢・運、努力・継続など、足し算でなく、高次に累乗か積という考えでないと説明がしにくいと思います。
わざわざ標準偏差とか方程式に持っていくのは、現代、何かやろうと思うと、たいてい何かを犠牲にしたり、抵触する副作用・反射的作用に悩まされることが多いと思います。
世俗的な言い方では、比較ができませんが、標準偏差とか、数学の概念を引っ張ると、座標に効果の点を記して、最適な線を描きそれに近いのはどちらか、とか、ある条件が動いたら、他はどうなるとか、比較ができるようになると思います。
何について言及するかとか
なぜ、わざわざ簡単に言われてることを難しげに書くのかとか
結局は、ピーター・ドラッカーが大事にしてきたことにたみ家も共感しているからかなあと思います。
普段は、無意識に近く、感覚的に行動してるのですが、その根元にやっぱりそういうものがあるなあとはときどき感じたりします。
Posted by たみ家 at 00:25│Comments(0)