朝起き抜けや風呂場でよく考えることの入り口

2011年01月14日

過去と現在の個人的なことは感情の問題で話が済む。

現在と未来の多数人の問題は理屈で話しをする必要がある。

理屈ってのは、共通の言語ってこと。

共通だけど、言語は学ばなければ持てない。

感情は学ぶ前にあるが。

違いに歩み寄るには、すべての人がもともとの学ぶ前の自分と違う、ありのままでない自分の姿にならなければ、人と人は共通の舞台で話ができない。

しかし、共通の言語をつくるときには、過去の感情をデータとして理解したり織り込んでつくらないと、困難にぶつかりやすいまたは困難にぶつかったときにもろい。


感情が個々の性質。
これは多様でもある。

理屈は、全体の目的と手段。

全体の目的と手段は個々の性質を知らずに考えられないよね。


政治とは目的と手段を統合して、公倍を目指しながら公約数的に感情を満足させることに近いか。

おぜにさんは、差別的だけど、平等に神のように人の上に君臨する。
そして、その流れは、舞台設計の差異を拒絶しながら、舞台内の分布においては差異を好む。

また、共通でありながら、それで満たすものはおおむね多様な感情である。

法令集って、税金に関することが一番多い。

公平であろうとするときに理屈がいる。

税関系の法令って

おぜにさんむしるという感情的に最もムカつく部類のことをやるからこそ、公平でないとまずい。
さらに高度な福祉国家では、いろんな方法でおぜにさんをむしってどっかに回さないと運営ができないのに、そのすべてに公平を説明するための理屈を要求される。

だから、ずば抜けて、税金関係の法令は数が多い。

世の中、公平とか共通とか未来への備えってことがどうでもよければ、文章とか書物って、むちゃくちゃ減るだろうなあ。

冬が寒い国に先進国が多いのは、嫌でも未来を考え、嫌でも不足する食糧の分配について公平を考えざるを得なかったからではないだろうかとなんとなく思う。
だから理屈が発達して、共通の言語によって、組織がつくられやすかった。

南の島との違いはそこだと思う。
未来や公平よりも、歌って、食べて、恋をするで事足りたところが、理屈の発達した冬の国に支配された。


「正義」って言葉を使うときは、必ず正義でないものを理由つけて斬ろうとする魂胆がある。
不幸や問題がなければ斬る相手がいない。

冬のある国には、必ず不幸があるから、必ず誰か斬る相手をつくれる。

正義の名の下に、法令、軍、官僚組織、徴税機構、教育、科学が発達した。


政策って、こういう問答を延々やってないと、絶対にうまくいかない。

パイからむしることでなく、パイの中で不幸を出さずに大きくするには、この手の問答が絶対にいる。

とくに、これからは、女性がこういう話を好んでしてないと、高齢化が進む社会の経営や世論形成はうまくいかないだろうなあ。

しかし、それはそれで新しい問題が出るでしょう。

矛盾する。

矛盾するのは当たり前。

人の営みは死ぬまで延々矛盾と折り合いをつけることだから。



 
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