恋愛観と時代関数

2010年11月06日

ここんとこ急速に「サヨナラ草食男子」、「肉食の復権」みたいな話が、雑誌やらネット上で増えた。

こういうことは中国という外敵らしきものの存在感が増してきたことによるところが大きいとたみ家は考えている。

昔から「そんなん関係ない」とか言う人絶対いるんですよ。
たみ家は、ずっと観察してきてるんですよ。
また歴史的にもどうだったかは昔の話や本なんか見るときでも気をつけてるんですよ。

「関係ない」とか言う人センス無さすぎ!

たみ家が「第1回耐久お姫様抱っこ香川オープン」をするのは、「愛と力は両方いるやろ!」「豊かな時代に育った親もとで一人っ子で親ともきょうだいとも争わず。ただひたすら仲良くやってきて、今後もそうしていくみたいなんで、物欲旺盛な独裁軍事国家や山奥でやスラム街で大人数で労働力として育てられて都会に出てきたような新興国の人達とどうやってやりあっていくのさ。」みたいな時代観は多少織り込んでました。
まあ、多少ですが。

また、IT化とかテクノストレスとか人間の生身感が世の中から薄れて中性化していく中、女性は、ネイルアートやら見せパンツなどいろいろやってますが、男は昔ながらの生物そのものに根ざした男らしさみたいなものを表現する場がなくなっている。
男がやりがちなものには、ほぼ必ず今は女もやる場がある。
また男率が高そうな格闘技だって打ち倒すものではたみ家が思うところの共感は大きく限定される。
男にしかないことを誇示しながら、それも女性を大事にしながら女性にも協力してもらう形の何かで、男が力強くがんばる場を街で表現したいというのはありました。
それが我々が暮らす日々の状況や日本や地域の将来像や日本の外側を含めた世界全体の流れを考えたときに、正しいとは言い切れないけど、示唆を誰知らずと与えるものになるのではないだろうかとは思ってました。

個々は色々ありますが、雑誌の表紙を飾るような恋愛観は、時代の関数で、外敵や世帯人員や寿命やそれぞれの収入や妊娠に関する医療技術や地球の環境問題など生身の人間と資源との数的なバランス、すなわち時代の経済関数によって大きな影響を受けてきたことは、たぶん原始人の時代からずっとそうだったでしょう。

たみ家はこのような観点から、中学のときには、「耳かき店って絶対にできるけん。だってストレス社会で男が草食化して、少子高齢化で若い女が減って希少になって安全に服脱がずに稼げるようになったら、酒も服脱ぐのもなしで需要あるって、簡易サービスだから安い設定もできるし、男は欲しがるし、女は安全で楽な方がいいに決まってるんだから。」って、夜の街に行ったことのない25年ぐらい前に色んな人に言ってましたが、実行を自分がするはないにしても「そりゃそうかもな」とかある程度センスある回答はなかったですね。

「そんなんあるわけない。」「そんなんでカネ払う需要ないわ」みたいな回答しか誰からもいただけませんでした。

時代の関数は、恋愛観から何からに全部波及するんです。

マルクスはほぼ同じことを言ってるでしょ。

中学でマルクスの名前もたぶん知っていたと思うけど、知ってたかさえ怪しいかというたみ家が、14歳で「若い女がおっさんを膝枕で耳かきする風俗店は必ずできる。」と自信まんまんで社会と人間について朗々とマルクスっぽく語ってたとは、いい線行ってたよな。

時代の関数を毎日ゆるみなく考えてきたからってのはあるけど、まあたみ家が等身大で事業として扱うには、話が大き過ぎて、自分がおぜにさんを稼ぐこととの関係で言えば無駄な教養みたいになってるかもね。



 
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