欲を言えば
2010年04月16日
冒頭から横道ですが
「饅頭って、何で頭なんだよ?」
諸葛孔明率いる軍が、揚子江の氾濫で足止め食ってたとき、そこの村の人が生け贄を捧げて河の神を鎮める慣わしになってると聞いたそうな。
そこで、孔明は、生け贄としての人の頭を模して、羊の肉詰めの饅頭をつくって、河の神に「これからはこれで満足せえ!」と言ったそうな。
ちょっと、資料不足なんだけど、饅頭は神に捧げる生け贄の頭なの?
もうちょっと詳しく調べないと、「饅頭の『頭』は生け贄の頭」だと人には言えないね。
もしかして、鏡餅は?
どうでもいいことだし、あんまり興味も無いけど、こうやって書いてしまったら書いたことが踏み台になって、自然にこれから詳しくなっていくだろうと思う。
本題だけど
信号番号の話をして、反対意見みたいなのに会うと、ちょっとがっかりするんだ。
別にイエスマンを求めてるわけじゃないよ。
議論を何のためにするのかよく考えてほしい。
何かを良くするために言うわけですよね。
じゃあ、公道に広く設置する信号番号について議論するなら、関係する多くの人の生活や行動にとって、何が良くなるかを考えるのが目的ですよね。
反対理由を考えることもしてはならないわけではないけど、広く人の暮らしが良くなることに対して、どれだけの人にとって何がよくなるのかをまず探して、それがわかって初めて、それが費用などデメリットと照らして反対すべきかどうかって話ですよね。
良くなることがあると主張してるたみ家に対して、デメリットがないなら何ら反対する理由って誰も出せないでしょ。
じゃあ、メリットがあるから、それを上回るデメリット有としなきゃ意味ある反論にならないでしょ。
つまり、反論する人は、メリットを考えなきゃならないわけです。
じゃあ、デメリットを最初から言った人は、何かメリットが小さいと最初からわかったのかい?
そもそも、少しでもメリットがあるなら、そのメリットを活かしたり、デメリットを出しにくくしてメリットだけが出るように考えることが、世の中を良くするための議論でしょう。
ただ反論する意見には、あまり価値がないわけです。
今、現実に設置されてないわけですし、それがそのまま続くだけですから、世の中に何ら変更は加わらないし、思考も発展しない。
この意見に、世の中を良くする志や機能がありますか?
重ね重ね、イエスマンを求めてるわけではないし、反対意見も訓練としていいハードルにはなります。
でもね。もうちょっと反対する人は価値のある議論の仕方を学んでほしい。
政策担当者でも「僕は使わない。」と言った人がいたが、公道に広く設置されるもののメリットについて政策担当者が「僕」からスタートしてしゃべるのはアホ。
たとえば、土日に、うどん巡りの人がスムーズに車線変更したら、それだけで渋滞緩和になるでしょ。
車運転しない人もそれで、より配達をスムーズに行ってもらえたら気づかなくてもメリットがあるわけです。
ただ反対する人の気持ちがわからん。
誰にもメリットが何もないと思うのか?
もし、メリットよりデメリットが大きいと思ったら、次に、世の中を良くしたいと思うなら、他のメリットを抱き合わせてデメリットをより大きくできないかとデメリットを認めたうえでも考えるのでは?
そもそも、世の中を良くする議論だから、自分が使うかどうかはあまり関係ないわけです。
自分がもらえるかどうかで、政策の賛否を決めるなら、こども手当てや高校無償化など、もらえる人は賛成で、もらわない人は反対するというレベルと同じで、世の中を良くする視点じゃないわけです。
まあ、自分から出発して考えることを、全否定しきれないけど、公道に広く設置するもののメリットを考えるときには、世の中のすべての人の顔とすべての人の行動を限られた知能の中で、できるだけ思い浮かべたり調べたり対話しながら探さないといけないわけです。
それを怠って、「僕は使わないから反対」みたいな、応答は、まあ、そんなもんなのかもしれないえど、欲を言えば、世の中の多くの人の顔と行動をつぶさに思い浮かべるクッションや忍耐を多くの人に持ってもらいたいのだ。
それをやったうえでの反対でないと、それは建設的な反対とは言えないと思う。
その建設的でない反対は、選挙目的のばら撒きを許す反対だね。
自分は使うか使わないかで判断して、もらえる側なら、賛成って話なのだから。
この議論をしていて、忸怩たる思いがするのは、ここらへんとも絡むな。
政策関係者が広く多くの人の顔や行動をつぶさに思い浮かべてそれを良くしようとする忍耐をしてこなかったこと。
多くの人が自分は使うか使わないか、もらえるかもらえないかの視点で、世の中に広く関わることについて、賛否をしてきたこと。
また、議員など海外派遣させろと思う。海外で活動した人なら、たぶんたみ家の話がイメージできた人が多いと思う。
海を見たことない人や携帯電話を使ったことの無い人に、それらを説明するのは難しい。
でも、難しいからと進まないのでは困る。
海外に行かずに国内の人々の生活を良くするアイディアが出ないとは言わないけど、幅は極端に狭くなるわな。
幅が広くても中身がまったく詰まらない場合もあるでしょうし、でも、世の中の多くの人が、視野を狭めるように狭めるようにものを考え出すことは危険だと思うな。
この
想像力・忍耐の欠如
自分がもらえればいいという感覚
視野を狭めて考えてきたこと
3点が世の中に染み渡ってることについて、忸怩たる思いがしてきたのだと思う。
「饅頭って、何で頭なんだよ?」
諸葛孔明率いる軍が、揚子江の氾濫で足止め食ってたとき、そこの村の人が生け贄を捧げて河の神を鎮める慣わしになってると聞いたそうな。
そこで、孔明は、生け贄としての人の頭を模して、羊の肉詰めの饅頭をつくって、河の神に「これからはこれで満足せえ!」と言ったそうな。
ちょっと、資料不足なんだけど、饅頭は神に捧げる生け贄の頭なの?
もうちょっと詳しく調べないと、「饅頭の『頭』は生け贄の頭」だと人には言えないね。
もしかして、鏡餅は?
どうでもいいことだし、あんまり興味も無いけど、こうやって書いてしまったら書いたことが踏み台になって、自然にこれから詳しくなっていくだろうと思う。
本題だけど
信号番号の話をして、反対意見みたいなのに会うと、ちょっとがっかりするんだ。
別にイエスマンを求めてるわけじゃないよ。
議論を何のためにするのかよく考えてほしい。
何かを良くするために言うわけですよね。
じゃあ、公道に広く設置する信号番号について議論するなら、関係する多くの人の生活や行動にとって、何が良くなるかを考えるのが目的ですよね。
反対理由を考えることもしてはならないわけではないけど、広く人の暮らしが良くなることに対して、どれだけの人にとって何がよくなるのかをまず探して、それがわかって初めて、それが費用などデメリットと照らして反対すべきかどうかって話ですよね。
良くなることがあると主張してるたみ家に対して、デメリットがないなら何ら反対する理由って誰も出せないでしょ。
じゃあ、メリットがあるから、それを上回るデメリット有としなきゃ意味ある反論にならないでしょ。
つまり、反論する人は、メリットを考えなきゃならないわけです。
じゃあ、デメリットを最初から言った人は、何かメリットが小さいと最初からわかったのかい?
そもそも、少しでもメリットがあるなら、そのメリットを活かしたり、デメリットを出しにくくしてメリットだけが出るように考えることが、世の中を良くするための議論でしょう。
ただ反論する意見には、あまり価値がないわけです。
今、現実に設置されてないわけですし、それがそのまま続くだけですから、世の中に何ら変更は加わらないし、思考も発展しない。
この意見に、世の中を良くする志や機能がありますか?
重ね重ね、イエスマンを求めてるわけではないし、反対意見も訓練としていいハードルにはなります。
でもね。もうちょっと反対する人は価値のある議論の仕方を学んでほしい。
政策担当者でも「僕は使わない。」と言った人がいたが、公道に広く設置されるもののメリットについて政策担当者が「僕」からスタートしてしゃべるのはアホ。
たとえば、土日に、うどん巡りの人がスムーズに車線変更したら、それだけで渋滞緩和になるでしょ。
車運転しない人もそれで、より配達をスムーズに行ってもらえたら気づかなくてもメリットがあるわけです。
ただ反対する人の気持ちがわからん。
誰にもメリットが何もないと思うのか?
もし、メリットよりデメリットが大きいと思ったら、次に、世の中を良くしたいと思うなら、他のメリットを抱き合わせてデメリットをより大きくできないかとデメリットを認めたうえでも考えるのでは?
そもそも、世の中を良くする議論だから、自分が使うかどうかはあまり関係ないわけです。
自分がもらえるかどうかで、政策の賛否を決めるなら、こども手当てや高校無償化など、もらえる人は賛成で、もらわない人は反対するというレベルと同じで、世の中を良くする視点じゃないわけです。
まあ、自分から出発して考えることを、全否定しきれないけど、公道に広く設置するもののメリットを考えるときには、世の中のすべての人の顔とすべての人の行動を限られた知能の中で、できるだけ思い浮かべたり調べたり対話しながら探さないといけないわけです。
それを怠って、「僕は使わないから反対」みたいな、応答は、まあ、そんなもんなのかもしれないえど、欲を言えば、世の中の多くの人の顔と行動をつぶさに思い浮かべるクッションや忍耐を多くの人に持ってもらいたいのだ。
それをやったうえでの反対でないと、それは建設的な反対とは言えないと思う。
その建設的でない反対は、選挙目的のばら撒きを許す反対だね。
自分は使うか使わないかで判断して、もらえる側なら、賛成って話なのだから。
この議論をしていて、忸怩たる思いがするのは、ここらへんとも絡むな。
政策関係者が広く多くの人の顔や行動をつぶさに思い浮かべてそれを良くしようとする忍耐をしてこなかったこと。
多くの人が自分は使うか使わないか、もらえるかもらえないかの視点で、世の中に広く関わることについて、賛否をしてきたこと。
また、議員など海外派遣させろと思う。海外で活動した人なら、たぶんたみ家の話がイメージできた人が多いと思う。
海を見たことない人や携帯電話を使ったことの無い人に、それらを説明するのは難しい。
でも、難しいからと進まないのでは困る。
海外に行かずに国内の人々の生活を良くするアイディアが出ないとは言わないけど、幅は極端に狭くなるわな。
幅が広くても中身がまったく詰まらない場合もあるでしょうし、でも、世の中の多くの人が、視野を狭めるように狭めるようにものを考え出すことは危険だと思うな。
この
想像力・忍耐の欠如
自分がもらえればいいという感覚
視野を狭めて考えてきたこと
3点が世の中に染み渡ってることについて、忸怩たる思いがしてきたのだと思う。
Posted by たみ家 at 07:45│Comments(0)