身銭を切って批判

2010年02月06日

たみ家は「批判」って言葉を聞くと、直感的に、「進歩」とか「レベルアップ」と同じような意味にとらえます。
「ふ~ん。物事を良くしようと、意志の力が加わるのね。」って感覚。

たいがいの物事は、批判からしか良くならないことを知っているから。

ただ、何かを批判すれば、そこに感情の渦ができるので、建設的に働きかけても、敵ができかねんので、人の感情を読むクセは並よりつくかもね。
読んでも、損得勘定は無視することもちょいちょいありますが。
良い力も、力を使えば、自分に良くも悪くも力で返ってくることはままあるだろうしね。

批判以外から物事が良くなったと思ってる人は、それが優しいオブラートに包まれたとしても、批判であるってことに気づいてないだけでしょう。

自分で気づくってことも、自分で批判したんですね。
褒めて伸ばすのも、オブラートを使って、他者批判の効果を高めたり、自己批判を促してるわけですね。
上手くいってると思ってるときの方が、いろいろ改良する動機が高まるってことは、そのとき、自己批判が効果的かつ楽しくなってるに過ぎんわけです。

変えることは批判でしょ。
変えなくていいなら、変えないでしょ。
変えずに物事が良くなるって背理でしょ。
良くなるって、方向性のある量であり、ベクトルなんだから。

「批判」とは言わないけど、同じ商品安く買える店を教えてあげることも、給付金がもらえる方法を教えてあげることも、構造的には批判なんですね。
行動に変化を促してるわけです。
現状より良い状況に向けて変化を促すことは批判じゃないの?
高い店で買うこと、もらえる給付金をもらわないことを否定されてるんです。


ところが、たみ家も、そんなに他人の世話焼きたいわけではないんです。

周りの人の批判とかは、よほどすぐに相手の得になる場合とか、重大な問題が見える場合かしかしたいとは思いませんね。

ただ、政権や行政組織への批判は、国民としての徳であり、義務であり、もちろん権利でもあり、真善美の極致だと思っているので、それは身銭切ってでもしますなあ。

国民主権ってのは、まあ、国会や行政組織を運営したり監視するのを庶民がするってことで、役割上、一部の者に、濃い役目を担わせてるだけだからね。
そのあり方は、普段、1億の有権者が義務として、論じなければならない。
本来、それをしない自由があるのかさえ疑問だ。

不特定多数相手の客商売は、何を批判しても、身銭切るんですわ。
当たり障りない話に終始できれば、楽ですわなあ。

だからこそ、それだけの身銭切る価値のある、本当に地域や世の中が良くなるという思いが内側から押さえてもにじみ出て、押さえなんだらほとばしるぐらいでなかったら、お気楽に簡単に批判とかできんのですわな。

建設的で、価値のある論点で、地域の物事を良くするという強い意志をもってするんですわな。



 
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