絵を描くことや鉄道マニアとの比較
2009年08月17日
今までにも触れたことはありますが、たみ家の店の前には、木製ベンチが2つ置いてある。
事実上、前記事「広めたい素の感覚 2」です。
JR栗林駅などから、平和病院や井川病院に行き帰り中、杖や荷物用の乳母車みたいなのにもたれながら歩き、歩幅が30cmもないような、おばあはんが途中で座れるところをつくってやろうというのが当初の狙いでした。
平和病院などで入院中なのか、藤塚町一丁目にはリハビリで散歩してると思われる人が多い。
そういう人は、1kmぐらい先(ちょうどリハビリを兼ねてマルナカ田町店におやつや日用品を買いに行くとそれぐらいか。)に行くと、途中で座りたくなるのか、リハビリ散歩っぽい人がよく座っている。
たみ家は、絵とか音楽で人を喜ばせたいとか思った時期もあるが、挑戦しても続かないのは、そこまで好きでないか向かないかなんだろうなあ。
でも、たかが2つで3万円もしないベンチは、自分の考えを表現して街で形を持ち、意図は知られなくても多くの目に触れ、人の役に立っている。
芸術に才能の無い人間はこうやって絵を描くことにした。
アマチュアですごく上手な絵描きでも、油絵とかキャンバスに描いたらけっこうおぜにさんかかるだろうし、ギャラリーに展示するのもおぜにさんいるだろうし、たぶん、交差点の傍にベンチを置くよりもたくさんの人に見てもらえはしないだろうし、人の役に立てる絵を描くなんて、ちょっと上手いぐらいでは無理だろう。
仲のいい老夫婦が散歩中にちょっと休憩したり、祭りのときに座るとこが少ないので、浴衣のカップルが座ったりするなど、絵心の無いたみ家が軽い動機で描いたその絵は状況で変化していく。
栗林公園前のビル借りたり、そこで喫茶やたこ焼きやるのも、みやげ物屋が衰退する時代の流れに逆らってみる抵抗精神などなど、県内でトップクラスに自動車通行量が多く、多くの観光客が訪れる誉れ高い名園の前で、何か描いたろうと思って、用意した未完のキャンバスのつもりが半分弱ほどあります。
打算は別にあるけど、気分はほとんどそれかなあ。
たみ家は、鉄道や船のことを調べたりするのが小学校のときに好きだった。
でも、地域や社会こそが、自分というか自分たちが乗ってる船だと思ったらあまり興味が無くなった。
その社会という船のことは、考えたり調べることで、おぜにさんを得たり、自分や関係者を幸せにしたりすることがある。
そして、その船こそ、複雑でいろいろ知ったり調べたりするだけの価値ある情報や美しい情景を含んでいたりする。
たとえば、刑法や会計制度や税制なんかも、タイタニック号での乗船に当たってのルールみたいなもんだろう。
乗るんならルール守ってね。乗るんなら負担してね。
マニアはそこも研究しないと。
たみ家は将棋とかの大会によく出ていたし、野球やテニスの試合や駅伝なんかもよく出ていた。
自分がちゃんと選手登録しているチームでは大した選手でなくても、クラスや職場や地域の小さい単位のチームではけっこう喝采を浴びたと思う。
いろんな意味で楽しかったと思う。
正直、運動で活躍すると、あまり仲間うちで、バカなのに、表立ってはバカにされずにすむし、異性のウケも良かった。
よく、「誰でも人生に3回はモテ期があって」と言いますが、モテるタイプでないたみ家にモテ期があったとしたら、それらの多くは運動によるものだったと思う。
たみ家、スポーツまったくダメだったら、人生にモテ期あったかどうか怪しいなあ。
将棋は考えるから楽しい。
そして、有利になる考え方や勝ちパターンなどを覚えたり、覚えるに当たって理解したりするのも楽しい。
どっちの考えが優れているかを競うのに、議論は地位や肩書きなどによる差別や理解不足などでわかってもらえず、優れている方が通らないことも多いが、将棋はその点ピュアなとこが好き。
球技なんかもチームで達成したり、喝采を浴びる喜びなんかがある。
しかし、社会問題のことを考えるには、将棋よりももっとたくさん学ばないといけないことがあるし、パターンも複雑多岐。
詰め将棋やゲームのボスキャラよりも、社会問題の解決や緩和という課題は、ぶつかりがいがある。
また、将棋は勝っても、その勝利を共有できる人がいない。
自分が嬉しいだけで、誰の役にも立たない。
球技でもチームの人数は限られている。
一方、原爆の被爆者を応援する裁判の運動に関わって勝利を得れば、いったいどれだけ大勢のチームの人と喜びを共有できるだろうか、また、クラスマッチで勝ちたいというのとその勝利への切実さや喜びはどれほど違うだろうか。
社会のことを考え、対話し、勉強し、活動する。
このことは、あまりにたくさんの娯楽の楽しさを同時に高いレベルで兼ね備えすぎているのだ。
どうやったら、誰がこれよりもおもろいと言えるものを探せるんだ。
いや、美食もデートも運動もマッサージも、何もかもが楽しいです。
何もかもが楽しいなら、美食もたまにはするけど、たくさんの人と喜びを共有できたり、他人の不幸や切実な問題を救う可能性のある楽しさにのめりこみたい。
これは、「この国のかたち」やリーダーシップ論の続きでもあります。
前記事で、好き嫌いの問題で、善悪ではないと書きましたが、前記事では好き嫌いの問題としてクローズアップしただけで、やっぱり善悪はないとは言えない。
資本主義社会の流れの中で、私たちが共同体として生きていくことに有利になりそうな考え方が善で、それに反するものが悪と、乱暴な分け方の考え方はないでもない。
で、その善悪は人の多様性や等身大の人間の性と摩擦を起こしやすいかもしれない。
こういう摩擦を処理しながら、共同体として生きていくのに有利な考え方の旗を振り、同時にそれらの副作用・弊害についても予想しつつケアする。
要は国民がしたくない努力や犠牲を、スムーズに払わせながら、結果として、払った人も集団も良くなるようにするってことだろう。
事実上、前記事「広めたい素の感覚 2」です。
JR栗林駅などから、平和病院や井川病院に行き帰り中、杖や荷物用の乳母車みたいなのにもたれながら歩き、歩幅が30cmもないような、おばあはんが途中で座れるところをつくってやろうというのが当初の狙いでした。
平和病院などで入院中なのか、藤塚町一丁目にはリハビリで散歩してると思われる人が多い。
そういう人は、1kmぐらい先(ちょうどリハビリを兼ねてマルナカ田町店におやつや日用品を買いに行くとそれぐらいか。)に行くと、途中で座りたくなるのか、リハビリ散歩っぽい人がよく座っている。
たみ家は、絵とか音楽で人を喜ばせたいとか思った時期もあるが、挑戦しても続かないのは、そこまで好きでないか向かないかなんだろうなあ。
でも、たかが2つで3万円もしないベンチは、自分の考えを表現して街で形を持ち、意図は知られなくても多くの目に触れ、人の役に立っている。
芸術に才能の無い人間はこうやって絵を描くことにした。
アマチュアですごく上手な絵描きでも、油絵とかキャンバスに描いたらけっこうおぜにさんかかるだろうし、ギャラリーに展示するのもおぜにさんいるだろうし、たぶん、交差点の傍にベンチを置くよりもたくさんの人に見てもらえはしないだろうし、人の役に立てる絵を描くなんて、ちょっと上手いぐらいでは無理だろう。
仲のいい老夫婦が散歩中にちょっと休憩したり、祭りのときに座るとこが少ないので、浴衣のカップルが座ったりするなど、絵心の無いたみ家が軽い動機で描いたその絵は状況で変化していく。
栗林公園前のビル借りたり、そこで喫茶やたこ焼きやるのも、みやげ物屋が衰退する時代の流れに逆らってみる抵抗精神などなど、県内でトップクラスに自動車通行量が多く、多くの観光客が訪れる誉れ高い名園の前で、何か描いたろうと思って、用意した未完のキャンバスのつもりが半分弱ほどあります。
打算は別にあるけど、気分はほとんどそれかなあ。
たみ家は、鉄道や船のことを調べたりするのが小学校のときに好きだった。
でも、地域や社会こそが、自分というか自分たちが乗ってる船だと思ったらあまり興味が無くなった。
その社会という船のことは、考えたり調べることで、おぜにさんを得たり、自分や関係者を幸せにしたりすることがある。
そして、その船こそ、複雑でいろいろ知ったり調べたりするだけの価値ある情報や美しい情景を含んでいたりする。
たとえば、刑法や会計制度や税制なんかも、タイタニック号での乗船に当たってのルールみたいなもんだろう。
乗るんならルール守ってね。乗るんなら負担してね。
マニアはそこも研究しないと。
たみ家は将棋とかの大会によく出ていたし、野球やテニスの試合や駅伝なんかもよく出ていた。
自分がちゃんと選手登録しているチームでは大した選手でなくても、クラスや職場や地域の小さい単位のチームではけっこう喝采を浴びたと思う。
いろんな意味で楽しかったと思う。
正直、運動で活躍すると、あまり仲間うちで、バカなのに、表立ってはバカにされずにすむし、異性のウケも良かった。
よく、「誰でも人生に3回はモテ期があって」と言いますが、モテるタイプでないたみ家にモテ期があったとしたら、それらの多くは運動によるものだったと思う。
たみ家、スポーツまったくダメだったら、人生にモテ期あったかどうか怪しいなあ。
将棋は考えるから楽しい。
そして、有利になる考え方や勝ちパターンなどを覚えたり、覚えるに当たって理解したりするのも楽しい。
どっちの考えが優れているかを競うのに、議論は地位や肩書きなどによる差別や理解不足などでわかってもらえず、優れている方が通らないことも多いが、将棋はその点ピュアなとこが好き。
球技なんかもチームで達成したり、喝采を浴びる喜びなんかがある。
しかし、社会問題のことを考えるには、将棋よりももっとたくさん学ばないといけないことがあるし、パターンも複雑多岐。
詰め将棋やゲームのボスキャラよりも、社会問題の解決や緩和という課題は、ぶつかりがいがある。
また、将棋は勝っても、その勝利を共有できる人がいない。
自分が嬉しいだけで、誰の役にも立たない。
球技でもチームの人数は限られている。
一方、原爆の被爆者を応援する裁判の運動に関わって勝利を得れば、いったいどれだけ大勢のチームの人と喜びを共有できるだろうか、また、クラスマッチで勝ちたいというのとその勝利への切実さや喜びはどれほど違うだろうか。
社会のことを考え、対話し、勉強し、活動する。
このことは、あまりにたくさんの娯楽の楽しさを同時に高いレベルで兼ね備えすぎているのだ。
どうやったら、誰がこれよりもおもろいと言えるものを探せるんだ。
いや、美食もデートも運動もマッサージも、何もかもが楽しいです。
何もかもが楽しいなら、美食もたまにはするけど、たくさんの人と喜びを共有できたり、他人の不幸や切実な問題を救う可能性のある楽しさにのめりこみたい。
これは、「この国のかたち」やリーダーシップ論の続きでもあります。
前記事で、好き嫌いの問題で、善悪ではないと書きましたが、前記事では好き嫌いの問題としてクローズアップしただけで、やっぱり善悪はないとは言えない。
資本主義社会の流れの中で、私たちが共同体として生きていくことに有利になりそうな考え方が善で、それに反するものが悪と、乱暴な分け方の考え方はないでもない。
で、その善悪は人の多様性や等身大の人間の性と摩擦を起こしやすいかもしれない。
こういう摩擦を処理しながら、共同体として生きていくのに有利な考え方の旗を振り、同時にそれらの副作用・弊害についても予想しつつケアする。
要は国民がしたくない努力や犠牲を、スムーズに払わせながら、結果として、払った人も集団も良くなるようにするってことだろう。
Posted by たみ家 at 23:49│Comments(0)