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Posted by あしたさぬき.JP at

獅子舞は大事

2008年04月29日

「香川遺産」さんのブログを見たら、コメント欄がなかったので、エネルギーが行き場を失いこちらへ

香川には獅子舞が1000以上あります。
愛媛で100ちょっと、高知や徳島は、50もなかったと思う。

中四国残り全部あわせても、香川の方が多い。

これって、すごいこっちゃ。

獅子頭とか油単のような伝統工芸品もあるし。
獅子頭と油単なら手がけてるところは、錦町か扇町あたりや、今橋駅の近くにもありますね。
三野や善通寺の方にもありましたかね。

善通寺や白鳥には虎獅子がありましたかね。

北海道の開拓のときに、香川から入植した人々が獅子舞を向こうで始めて、いまだに受け継がれているところもあります。

1000以上の集落が支えてるってことは、当事者や家族などあわせて、10万人以上は関係者いるんじゃないの?

それに、こどもが当事者として最初に地域と関わる大事な行事だったりするかもしれないし、3世代ぐらいが、交流する場でもありそう。

ちなみに、ちょうさや太鼓台の盛んな、豊浜方面や小豆島や坂出の一部を除いては、獅子舞はかなりバランスよく分布してますね。

三木が有名ですが、高松内陸部は全般に多いですねえ。

三木町長が獅子舞に目をつけたのは、ほんとにいいとこに目をつけたと思います。

県花や県木のオリーブだって、あまねく分布してるわけでないし、従事している人も多くない。

だったら、獅子舞こそ、香川のキャラクターとして、本腰入れて大事にする必要があると思う。

農耕や信仰や娯楽や青年会のような集落の人材育成など歴史と密接で、なお、現在、文化や産業や教育と深く関わり、何より、広くたくさんの人々が関わっているところが大事。

コミュニティーの活力づくりや高齢者の居場所づくりや定住化促進のしかけとしても、お祭りを大事にしたいとこですが、その具体的な形として、獅子舞を県として、内外に力強くアピールすることは大事だと思うけどなあ。
  

Posted by たみ家 at 14:06Comments(3)

5月3~6日は休業いたします。

2008年04月29日

今年は、GW営業したかったんですが、諸事情により、カレンダーの赤い数字のとこをそのまま休みにいたしました。

うちのすぐ西側のコインパーキングも機械の取り付けにかかっており、予定では5月2日稼働開始予定とのことで、うちに営業せよとの神のお告げかと思ったのですが。。。

来年は開けられるように、体制を充実させたいなあ。
  

Posted by たみ家 at 07:10Comments(0)

工学部に行きたいなあ

2008年04月27日

アメリカの事情を聞くと、ほんとに就職してからも大学に行ってる社会人が多いような気がする。
40歳や50歳の大学生って珍しくないし、行ってる人の方が多数派とまでは言わないけど、特別な人って感じじゃなかったと思う。

日本では、
①「副業する暇があったら、本業に集中しなさい。」とか
②「大学に行く暇があるなら、仕事をがんばったらいいのに。」とか
③医者が法学部や経済学部に行くと「医者なのにどうして?」
みたいな反応をする人が多い。
これはこれで一理だけど、端からこういう考えに流れるのはほんとに危ないことだと思う。

仕事とか社会貢献って、点じゃないでしょ。

関係性でしょ。

たまねぎを勉強するのに、たまねぎの原子や分子を研究する人もいるかもしれないけど
ほとんどの場合、たまねぎをどんな料理に使ったら美味しいかとか、たまねぎは健康にいいかとか、何と組み合わせると美味しいかとか、たまねぎの外との関係性のことでしょう。

日本が、先進国の仲間入りできたのは①~③のような感覚が役立ったのかもしれないが、今の苦境にあるのも①~③が犯人っぽいと思う。

国境に守られながら、モノづくりに励む国家は、点を見てたらいい部分があったが、今は、関係性を見なければいけない時代になってると思う。

構造主義ってよくいいますよね。

何をやっても跳ね返ってくる、環境問題も、点だけを見ることを許さない社会への変化と密接だし。


たみ家は、飲食業界の立ち仕事の長さ、1日に、仕事以外をあわせたら、自営なら14、15時間ぐらい立ってたりする勤務実態への問題意識は大いにあります。

うどん屋は、よく11:00ぐらいに開けて15:00ぐらいに閉めるけど、楽したいんじゃなくて、雇い人に任せずに、一家族でやるなら、もうそれで普通の人ならいっぱいいっぱいになると思う。
店を4時間開けるのでも、ざっと立ちの週6の10時間労働だから、それだけで、圧倒的にサラリーマンよりも身体は疲れるだろうし、冷熱や寒暖の差も多いし、姿勢に無理も多い。

血行が悪くなるのと、背骨など骨格系への負担が大きい。

それに、買い物や洗濯や帳簿つけたり、雑務が加わるので、これ以上やったら、普通に家族との時間を過ごして長期に安定した暮らしの最低限は守れないだろう。
自宅がお店の人は、まあ、過ごす時間自体は長くなるかもしれないけど。


みなさん。
「自分の選んだ道だ。」
「がまんできる。」
「他の飲食業でもそれぐらいみんなやってる。」
といって、しょうがないと受け入れる。

そうすると、あまり売上が伸びないので、長時間開けてがんばるけど、人を雇って休めないようなお店の人は、軒並み、早かれ遅かれ、50代に入って、心筋梗塞や脳梗塞、ヘルニアなどなどで、危険コースに入っていく。

ここのブログに参加してるお店は、(うち以外は?)繁盛店が多いし、こういうところに情報を発信する意志があるぐらいだから工夫もするとこだと思うから、当てはまらないかもしれませんが、過酷な生活をしている人が多い。

まあ、飲食店は、いちおう主だし、お客さんに喜ばれたりで、やりがいもあるから、そんな暗い気持ちでやってる人が多いわけではなく、ヘルニアでコルセットしてても、心筋梗塞でいつまた入院するかわからん人でも、幸せで誇りに満ちてたりすると思います。

しかし、そういう状況を楽にできる安価で使いやすい製品をつくって、広めることができたら、野球場で、人工芝を天然芝に変えるみたいに、選手寿命を延ばすかもしれないし、早くやめなくて済むので、地場の食品卸さんとかの取引先が減らずにすむかもしれない。

また、小さいお店が減ると、そこに定期購読の週刊誌とかを持って行ってる小さい本屋さんとかもお客が減らずにすむかもしれないし、アーケードの電灯代を負担するお店の分母が減らなくてもすむし、祭りへの寄付や道を掃除する人も減らないかも。
など、地域ということを考えたら、細々といろいろ、自営飲食店の選手寿命を延ばしたい意味はある。

そういう問題意識を人に頼ったり、既存の企業の製品で対応するだけでなく、自分でダイレクトに作れるようになって、自分の組織で内製化できるようになりたいなあと思う。

社会貢献という意味でいうと、自分が2店目をどっかに出すよりは、自分が感じた問題意識から、何百店の選手寿命を延ばすことができた方が貢献は大きいような気がする。

内製化しなくても、誰か他の企業と連携すればいいんでしょうが、工学部でも行くと、信頼できる企業と関係が持てるかもしれないし、いい製品かどうかを見抜く目ができるかもしれない。

問題意識を形にして貢献しようとするときに、協力を求めて、いちいち、どこの誰がいいのか、探しまくるのがだるいんですわ。
そこで、工学部に行ってみたいとか思うんですが、たみ家は工学部のことって全然知らないし、年数も授業時間も費用も何にも知らないなあ。

まあ、週6で十数時間店にいるから、言ってみただけで、行ってみることはないと思うけど。
  

Posted by たみ家 at 17:04Comments(3)

こんどこそ船が好き

2008年04月27日

船ってのは、よく「このままでは日本という船が沈む。」とか使われる意味の船のことです。

バイクが好きとか、鉄道が好きとかいうのと同じで、地域のことを考えるとかいうと公徳心があるとか、善良とか、品行方正と結びつける人がよくいるんですが、たみ家にとっては、バイク好き、テニスやスノボ好きの代わりとして、「自分が乗ってる広く地理や人間関係や生産活動などがつくりだす船」のことを考えるのが好きという、船マニアで、品行方正とか善良とは基本的に関係ないと思ってます。

すると、鉄ちゃんが電車の機械に興味があるように、道路上の電気設備や標識などの構造物に、「これは何の機能で使って、誰の役に立つんだろう。」とか「狭い船で活動するにはルールがいるだろうけど、どんなルールにしたら船での暮らしはうまくいくんだろう。」とか「おいおい、この船、中でケンカしてるから進路がふらふらしてて、前の氷山にぶつからんか?」とか「漕ぐのめんどくさい人が増えたのか、進むのゆっくりしてない?」とか「ゆっくりするのがいいのか?急ぐのがいいのか?漕ぎ手の体力どれぐらいいるのかな?」「何を調達する必要があるのかな?」「捨てんと重くなるものがあるのか?それって捨ててほんとにいいのか?」など思うわけです。

くしくも、船って軽くなると、浮いて水の抵抗が減るので、捨てるとほんとに速く進めたりする。
部分的に、新自由主義とよく似てるなあ。

よく、法律とか経済学をひっぱるのは、船のルールとか船の中の食事の配分方法などを考えるための小道具みたいなものだと思ってます。

船、船とは言いますが、地球も日本も香川も高松も、その他、サークルとか自治会とか、会社とか、○○家も、○○業界も船といえば船なわけで、たいていの人は、たくさんの見えない船に同時に乗ってるということだと理解してます。
  

Posted by たみ家 at 12:05Comments(0)

船が好き

2008年04月27日

昔、ちょっとおバカ漫画っぽい「ファンキーモンキーティーチャー」読んでました。
どういうわけか、ヤンキー漫画を週5本ぐらい、週刊誌でおっかけてて、何に書いてあったかよく覚えてないんですが、妻子持ちでかっこいいキャラの先輩ヤンキー社会人が後輩ヤンキーに説教を食らわすわけです。

「人間、本物か偽者かは、何に一生懸命になるかで決まる。」と

あまりに昔のことで内容はよく覚えてないんですが
「学校卒業してまで、バイクでぶんぶんデカイ音ならして、ケンカに明け暮れとったらいかん。もっと世の中の役に立つことで好きなことを見つけろ。」みたいなことを言ってました。

たみ家は、ヤンキーではなかったけど、高校のときはとくに進学したいとも思わず、家で机の前で勉強する習慣もまったくなく、何となく、同じ部活でがんばった仲間や大会で知り合ったライバルがみんな大学に行くので、自分も進学しようとあわてて3年になってから進学の準備を始めた感じでした。

ただ、大学進学、就職とする中で、
「勉強って役に立つね。やった分、ほんとうに身近な人を助けてあげたり、いろんな力にダイレクトに結びつくね。」
と思うようになり

冒頭のたぶんファンキーモンキーティーチャーの言葉に触れ、「たみ家は、別にそれほど好き嫌いないから、勉強でも好きになるか。」と思い、そっからは、10年以上、大学受験のときよりは何倍も勉強したような気がする。
時間はともかく、目的意識をもって、納得して好きでやった点が違うと思う。

英語の勉強に関しては、昔のカノジョがたまたま英語教員で、英検やTOEICを受けるたびに近くで待たされて、送り迎えさせられるのがうっとうしいから、いやいやながら自分も受けるようにスタートしただけで、最後まで、まじめに勉強はしませんでしたが、要領がよかったのか、点数は教材のCMの体験談に載っても良さそうなほど、上がりました。

ただ、やってるうちに、英語の勉強がどれほど、多くの人が感じてない意味があるのかがよくわかりました。
たみ家は、英語を勉強してから、数学の本がどんどん読めるようになりました。
とっつきにくいムードのものに拒否感がなくなりました。

経済や福祉の本も効率が問題になってくるから、途中からめんどい本に進んでいくと、数式がどんどん出てくるけど、英語の勉強するまでは敬遠してましたが、してからは、とりあえずわからないなりに読みすすめていくことができるようになりました。

また、「数式は数理現象を世界中の言葉で表してたら、長すぎるし、間違いが起きるので使われている。関係をあらわす簡略化した世界共通語で、英語や「ギャル語」みたいなもの。「1+1」は「ひとつとひとつをあわせたら」、「Σ」は、「後のを全部たしなさい。」みたいなもので、言葉なんだから、単語と文法を覚えたら、得意にはならなくても、全然だめからは抜けられるだろう。」みたいに思えるようになりました。

また、「難しく見える見たことない言葉や記号がたくさん並ぶ教科は、そうでないものよりは絶対に簡単」などのある種の原理に行き着きました。

だって、歳食ってから、見たことない記号とかたくさん覚えて短期間でやるんだから内容が薄くないと、他のそうでない教科とカリキュラムの時間が一緒である限り、矛盾があるじゃないですか。
見たことないものがずらりと並んで、内容も深かったら、同じ時間数のはずがないし、見慣れたものを扱う教科は始める前からの長い年月で差がついてるけど、見たことないものは、スタートの差がないから、抜け出るのも簡単だろうと思うようになりました。

たみ家が何か、高い到達度にいけたかどうかは不明ですが、何が来ても、逃げなくて済む気持ちは手に入れられたような気がします。

そっからは、「自分は勉強が好きだなあ。絶対に人の役に立つし、それで人を助けられる実感も日ごろ感じられるし、やってて気持ちがいいなあ。」と思うようになりました。

「船が好き」の方が書いてないなあ。
  

Posted by たみ家 at 11:53Comments(0)

がんばれるときとは

2008年04月26日

目標を立てて、それにきちんとしたがって、がんばり続けられてるときって、「ああ、自分。がんばってるなあ。」って思って、またがんばれたりしませんか?

褒められたときも、がんばれるってよく聞くなあ。

「自分ってすごいなあ!」とか思えるときもがんばれそう。

自分がやってることが価値があるって思えるときもがんばれそうだなあ。

練習や勉強して、力をたくわえて、成果を外に出したいと思えるときもそうかなあ。

やってて自分に合ってるなあと思うときもそうかなあ。

ほんとにほしいもののためならがんばれるかなあ。

好きなことをやってるときもそうだろうなあ。

切迫したときもまあがんばれますよね。

やってて気分がいいときもがんばれるけど、ときには、苦痛から逃れたいときもがんばれることはあるかなあ。

「がんばれる」って、よくいう「モチベーション」と同じだろうか?

壁をやぶれそうな感触のときもがんばれると思う。

「あしたさぬき」には、医療とか生理学に詳しい方が多そうですが、「熱が40度でも、どんなに疲れてても、眠くても、脈拍を上げることさえできれば、その間は寝込んでても、立ち上がって、とりあえず動くことはできる。」と聞いたことがある。

ほんとだろうか?たみ家のこれまでの経験ではほんとうっぽい。
ただ、それは一時しのぎで、そんなん続けたら、どうやっても脈拍上げられなくなると思うけど。

誰かに支えられてる安心感を感じるときもがんばれるってないやろうか?
誰かのためを感じられるときとかもどうか?
同じ意味で
報酬が保障されてる安心感とがんばれると関係あるかなあ。
家族を自分が支えてるんだって気分もがんばれるに関係ありそうだなあ。

いろいろ書いているうちに、何となく公式化できそうな気がしてきましたが
当面それを止めて、いろんな「がんばれるってどんなとき?」の表現をブレインストーミング的に増やしてみたい。

たぶん、心理学や経営学や人事の本に、そういうことっていっぱい書いてあったと思うけど、それらは、当然のようにまとめてしまっているので、生のいろんな人の表現はあんまり期待できないかな。
まあ、まとめを見た方が、生のいろんな表現に早くたくさん行き着けるかもしれないけど。

意味の重複するものがどんどん出てきそうだけど、気にせずに、何百と増やしていきたい。

いろんな人の「がんばれるとき」を増やすことが、地域の魅力や活力の源になるかもしれないなあ。

その辺りから、数字や資源の裏づけのあることを結びつけて、考えを立体化させていきたいなあ。
  

Posted by たみ家 at 19:42Comments(0)

遺族の処罰感情とリスクをとる社会 2

2008年04月26日

1980年代に、明治維新以降の殖産興業、富国強兵のモデル、戦後も、経済戦争における富国強兵をしてきたという意味では、同じようなモデルが限界に来たと聞く。

電力、通信などのインフラの整備がつくされたが、国の内なる活用・消化エネルギーが頭打ちになり、「もうお腹いっぱい」になってしまったのではないだろうか?

雑誌にもそれらしいことが書いてあったが、ガソリン税の問題も、道路をつくって、一丸となって、議員さんや自治体を巻き込んで、土建屋さんを中心にお金を地方に流しこんで内需を喚起させてきましたが、「もうお腹いっぱい」になってしまったので、「つくらんでええから、高速道路料金やガソリンを安くしてや。」となってきたのだと思う。
つくっても活用するエネルギーがもう興らんし、払う方のふところも寒くなってる。

1980年代という意味では、それまで、国家一丸となって、社会制度のために個人の感情を押し殺してきて、それが反映されなかったけど、ある程度物質的には満たされて、国家とか社会よりも個人の価値に目が行くようになったことで、刑罰においても、感情に重きを置くように社会がシフトしてきたのかもしれない。

個人的な推測によるところが大きいですが、消費の成熟と似たような意味があると思います。

さて、これまでの殖産興業、富国強兵モデルについては、欧米にそのモデルがあった。

しかし、Japan as No.1 といわれるようになり、外にモデルを求めることができなくなり、みんなで同じ方向を向くような上昇志向が頭打ちになった。
リゲインのあの懐かしの歌「24時間戦えますか♪ビジネスマーン。。。。。ジャパニーズ・ビジネスマーン♪」が、最後の花火だったのかも。

その後、日本は迷走に向かい、市場の自由化やITなどで再度、欧米のマネをしたけど、今のところ国民の気持ちが盛り上がるような形での成果は見えてこない。
もちろん、便利にはなったけど。

先般、インドやブラジルの少子高齢化が来ると書きましたが、日本は、将来の世界情勢の変化に向かって、少子高齢化社会のフロントランナーとして、あるべきモデルを示すことはできるかもしれないと思います。
それは、外に付加価値を発信し、内需を喚起するのではないかと、個人的に期待をこめて、考えていきたいと思ってます。

特に四国は少子高齢化が進んだ日本の中でも、地方ブロックとしては、ずば抜けて進んでいるからより不安もあるんですが、それがゆえに世界のリーダーになれんものか、逆手にとれんものかと夢想したりするわけです。

そして、それらがもたらす富が、きめ細かく配分され、事情によりそれがしにくい状況にある多くの人が結果としての幸福追求の自由を手に入れることで、活力と公益が満たされるのではないかと頭の体操をしておるとこです。

さて、日本は、古くは中国、明治以降は欧米のモノマネをしてきたとよく言われます。

じゃあ、それまで、日本がモデルとしてきたとこは、どうやってきたのか?

昔の中国は強大な皇帝が富と権力に飽かせて、いろんなことをやってきたのでしょうが、これは今の日本にどこまで参考になることやら?

では、産業革命以降の欧米はどうかというと、民衆や個人がいろいろと権力と戦ったり、リスクをとって新しい試みをどんどん行い、社会がそれを奨励してきたのではないでしょうか?

じゃあ、リスクをとって、新しい試みをするのは、やっぱり経費もかかるし、失敗のロスも出るわけです。

それを負担することが能力的にも気持ち的にもできんことには、何であれ、マネはできてもフロントランナーにはなれんのだと思う。

ここまでは、多分に、個人の頭の体操的なところがあるのですが、リスクをとれる環境を整えるための気風のためにも、法のモノサシが客観性に基づかずに変わることや、以前に書いた、KY のような言葉がつくる委縮ムードが、抵触するのではないかと思うわけです。
  

Posted by たみ家 at 07:52Comments(2)

遺族の処罰感情とリスクをとる社会 1

2008年04月26日

最近、遺族の処罰感情というキーワードがよく出てくる。

光市の事件については、あれは死刑でもいいのかもしれない。

ただ、遺族の処罰感情が量刑に影響するというのは、危険だと思う。
遺族の処罰感情を刑罰に反映させることが、世論なのかもしれない。
世論の背景には国民の願いがあるのかもしれない。

しかし、国家の刑罰権や司法制度全体の問題として考えたときの危険性は無視できないと思う。

たぶん、光市のは、もし被害者が母子家庭で遺族がいなかったり、夫婦関係が冷え切っていて遺族ががんばらなかったら、無期懲役で終わっていた可能性がある。
これは今まで誰も否定しなかった。

もともと死刑なら死刑でもいいのだが、被害者に家族がいるとか愛されていたとか、そういう事情が、国家の強大な刑罰権に影響して、ときに人の生死を分けたり、事件の重みに軽重の判断がつくことが危険なんです。

お金を持っていて、多くの人に施しをした慈善家が被害者であるのと、施しができない普通の人やホームレスの人が被害者であるので、残された人の思いが違うかもしれない。
美人とそうでない人では、愛され方が違うかもしれない。

遺族の感情は大事なことではあると思う。
国家や社会よりも、自分の愛する人は重いというのも、当事者にとってはやむをえないところだと思う。

しかし、それが反映されることは、国家の刑罰権と司法制度にとって危険性をはらむことは間違いないだろう。

また、人権や教育の問題としても、国家が人の命の軽重に違いをもうけることにもつながる。

社会と個人の問題のバランスはかなり哲学的な論争も含むだろうが、社会制度に感情を反映させない社会ほど社会そのものはうまくいくだろう。

国民感情とか、県民感情とか、感情が政治に反映されるのは、政治がうまくいってない証拠、もしくは、政治をうまくいかせない要素になるだろう。

ただ、憲法は日本は、個人主義の国で、個人が幸福になるために国があって、国が個人をしばるのは、個人間の利害がぶつかったり、多くの個人が幸せになるためにつくった大きな共同体のやることともぶつかるので、こういうときは調整したり、ときには我慢してもらいましょうというもので、社会が究極目的でなく、個人の幸福が究極目的だと言ってます。

だから、感情を満たすことが国民の願いなら、それが正しいのかもしれない。
しかし、それが行き過ぎたら、日本は、食べていけん国になる可能性が高い。

罪刑法定主義は何のためにあるのかについてもよく考えてほしい。
漢が秦を打倒したときに、咸陽(だったかな?)で「法は三法」と、宣言し、法を簡素化したと聞く。

「処罰の相場はここまでですよ。」と安定してない国は、経済が立ち行かんのです。
処罰の安定は法の安定であり、それが情状で左右されやすい国は、理論上も歴史的にも、国家の富の生産と配分のシステムの根幹がやられるんです。
リスクがとれんのです。
国家のモノサシの中でも国民を害することができる刑法のモノサシが変わるんは、将来最も、国民を害する結果につながりやすいんです。

権力は、国民の感情を国民自体のために配慮なんか絶対にせんよ。
するのは、ときの政権か、政府に何か都合がいいから、それを利用するわけです。
政権に都合が悪いことで、政府が国民の感情のために法の執行を変えたりしますか、政府に都合が悪かったら、淡々と「お気持ちはわかりますが、法や制度はこうなってますんで。」と感情に左右されずに執行していくでしょう。
政府と裁判所は別だけど、どうも現実はリンクしているようです。
すくなくとも、検察側の求刑の重さと追求の強さは裁判の結果に反映されるでしょう。

さて、政府は、国民感情を尊重すると、どう自分たちにとって都合がいいのか?

刑罰のモノサシが変わることの危険性については
殺人事件と、経済活動の自由は意味がまったく違うと思う人は、悲しいかな、法と歴史をある程度勉強してきてほしい。
強者にとって、変えられるということは、どんな場合でも変えられるということです。
ほぼ同じです。

昨今、裁判員制度がいろいろ言われている。

昨日、ある方に、これはアメリカが弁護士の市場を求めて、日本の司法制度をアメリカ型に近づけようとした「市場開放」ならぬ「司法開放」だという話をちらっと聞いた。
確かめてはないけど、ありそうな話だとは思う。
アメリカは、たみ家が知る範囲では特にクリントン政権下でバリバリにそういうことをやってきた。

マスコミがおもしろく悲劇として取り上げやすい事件を感傷的に報道して、裁判員に影響を与えるのでは、司法制度としては極めて危険だ。
特に、性的なものや、家族の情愛にからむものはそうなりやすそうだ。

行為の態様など客観性がある事実に比べて、客観性の低い、行為の時点でとらえようのない事柄、また、直接には犯行自体の当事者でない遺族の有無や感情、ときには、被害者が周囲に行ってきたことの態様などが、裁判の結果に違いを与えるのでは、国民活動が委縮してしまう。

このへん、わかってもらえるだろうか、殺人事件も金融商品や保険商品の販売などに関わる消費者保護的な事件もほぼ同じで、殺人事件の裁判のモノサシが変われば、経済活動も委縮するんです。

医療過誤の被害なんか、過失や故意の認定にからめれば、これなんか、殺人と経済活動に類似の意味を持つのでわかりやすいと思います。
怖くて、手術なんかできん世の中にもうなってるでしょう。

マスコミの感情的な論調に左右されて、未必の故意の認定や量刑が変わったら、遺族がいないなら治療するけど、愛妻家の奥さんは治療せんとか言いたくもなるかもしれません。

社会の活力が弱まるって、こういうことなんです。
  

Posted by たみ家 at 07:18Comments(3)

させていただいている

2008年04月24日

たみ家は、営業関係のことは「している」でなく「させていただいている」と意識できるときは意識しようと思っています。

なかなかできてないことが多いのですが、そうだからこそ、ときに意識しようと思っています。

「商売している。」は自分発ですが、「商売させていただいてる。」となると、「何に?」「誰に?」が意識されます。

そうなると、人によって色々ですが、「家族に」「この地に」「ご近所の人に」「取引先に」「従業員に」「原材料生産者に」もちろん「お客様に」と対象が意識されてきます。

広くは、水道工事の人や電力会社の人や、道路や橋をつくった人も入るかもしれません。

すると、「あれはしとかないかんな。」「もっとていねいにやらんといかんのやろな。」、あまりできてないけど、「もうちょっとあの人に気を使ってあげないかんな。」とか、思えてきます。

朝、配達の人が来たときに、たみ家は準備の合間の食事中だと、時間がないので、座って食べたまま、あいさつはしても、相手側から見たら失礼な態度に見えてるかもしれません。
まあ、ある程度、しょうがないかなと思うけど、やっぱりあれはまずいのかなとちょっと省みたりする。

同じような意味の「感謝の念を持つ。」もすばらしいのですが

「させてもらっている。」というとらえ方の方がより明確に、周囲や具体論が見えやすくて、訓示として優れているとこはあると思います。

なかなかできてないと思うことを書いて、若干身につまされ気味ですが、やっぱり棚に上げんといかんですよね。

最近ある急成長してる会社では「会議では、みんな自分のことは、棚に上げることをルールにしなくちゃならない。」ってことになってると、日経ビジネスに書いてありました。

たみ家も、これ、10数年前から思ってました。

誰かが立派なことを言うと、すぐに陰に回って、それとまったく関係ない欠点をあげつらってる人、勤務先にたくさんいましたから。

みんな、目立つことをいうと、欠席裁判の飲み会やら、陰で「欠点をあげつらわれ大会」されることを恐れて、言いたいことを黙って、物事を良くしようとする気持ちや力を殺されてるように思えました。

あんまりひどいとどうかと思いますが、良くしあう力の方をより大事にするようにしたいですね。

棚に上げてでも、言うと、「言霊」とか、言葉が人を引っ張るというか、言っちゃったら、「あんまり反してたらまずいぞっ」て、引き締まることもありますからね。

組織や社会は、個に働くこういった作用を大切にすべきだと思います。

場所によっての、これの派生形が「地位が人をつくる」みたいなことかもしれません。

ありゃ。。。取り留めなく、書いてるうちに、タイトルが「棚に上げるのススメ」がふさわしいようになってきました。
  

Posted by たみ家 at 22:45Comments(2)

クーラー運転 コインパーキング

2008年04月23日

今年になって、はじめて店内でクーラーを運転しました。

4月23日か。。。
去年は6月に運転開始したのに、今年は早いなあ。

ここ、2日続けて、「あしたさぬき」の関係者の方がお見えになりました。
うんうん、いいことだなあ。

さて
うちの店の20m西に、近日タイム(コイン)パーキングができます。

某ご意見番の教えに従い。
先日、設置会社の担当の方にこちらから、連絡して、「基本料金100円じゃなく、基本時間短くてもいいから昼も50円にしてください。カードも使える機械入れてください。うちもカードどんどん買いますし、営業努力して、御社に損はさせませんから。」と頼んでみた。

その場では、色よい返事のような感じだったが、会社に帰ってどういう結果になったことやら。

うまく行くかどうかわかりませんが、周囲の環境の変化に対してこちらから働きかけたり、提案するってのは、いいことだなあと思う。
  

Posted by たみ家 at 20:36Comments(2)

カーナビへの応用は?

2008年04月23日

donguriblackさまからコメントでもいただいてる通り、「あれなに。さぬき」は、「あしたさぬき」でもでき、いろんな有志ブロガーの方が、道すがらの「?」なものを「これなに?」とやったり、知ってる方が「それはな。」と返し、自分が紹介したいもんを「これはな。」とやれば、どんどんできていきます。

また、高松からよそに行くのは機会がいるけど、三豊や東かがわなどの有志ブロガーの方なら、ここに投稿するような方は活動的なので、車で高松まで出てくる用事は逆よりはあるかもしれません。

ここでも、勝手に例に出して申し訳ないですが、綾川やまんのうや多度津や塩江や牟礼などをご紹介されてる方がいらっしゃいます。
たぶん、この方たちは、そこを紹介されたいわけですから、そこへ来るまでの途中にあるものを紹介することについても、悪い気はされないかもしれません。

この方たちには、動機があり、機会があり、能力があることがもうわかってるわけです。

だから、仕事持ちの草野球のチームがリーグ戦に数試合出るぐらいの人員と結束と優先順位があれば、夏休みまでには楽に印刷・製本まで終わりますね。

できたら、実費ぐらい回収して、打ち上げして、まだちょっとお小遣いが出るぐらい売れればいいんだけどね。

こういうことやる人って、儲けないことを美徳とし過ぎていて、それで逆に長続きしないんじゃないかと思うことがあります。

また、観光会社に聞いてみたら、バスガイドさんは、高松から出発して、けっこう小さい名も無いような山の解説してますよ。
ネタ帳はそっからもひっぱってきていいと思います。

大昔、知り合いに新人バスガイドがいて、ドライブの間に延々、練習聞かされたことありますが、高松から観音寺まででも、引田まででも、何十以上解説ネタ持ってましたよ。
もちろん、全部、車から見えるものでです。

商売ダネだけに、有料か、協力拒否かも知れませんが、あれぐらいのネタ帳は今ぐらい情報がある時代なら、簡単につくれると思いました。


「あれはな。」の応用で、カーナビでも、県境を越えたり、観光地の近くに来たら、その解説や、県の名産の解説がバスガイドのようにナレーションで始まったり、したら、見るだけのカーナビよりも、消費を喚起しないでしょうかね?

カーナビ会社が、各県で、観光協会あたりに紹介文やナレーション作成を下ろしてお互いでフィードバックする。

各県や各県観光協会や地元商工会は喜ぶと思う。
それで、おもろい商品になったら、カーナビ会社もいいと思うし、観光や出張で行く人も的がしぼれて困らない。

で、県とかの依頼なら、出身の有名人、たとえば、香川なら中野美奈子さん、高知なら広末涼子さんなんかも格安で読んでくれるかもしれないし、各県に入るときに「香川県丸亀市出身の中野美奈子です。」とか始まったら、相互の利益になるかもしれませんし、普通の人に言われても行かないとこにも行ってみたくなるかも。

標準語度90%ぐらいで、全国の人が意味はわかるけど、軽く、語尾に方言をまじえたら、また味のあるものになるかもしれませんね。

岐阜は、「高橋尚子」さんと「熊田曜子」さんのどっちにも読んでもらいたく、軽いジレンマに。。。
  

Posted by たみ家 at 08:25Comments(0)

「あれはな。さぬき」簡単にできます。

2008年04月22日

たみ家が「さぬきドライブウンチク本」を書き始めたときは、デジカメも高嶺の花だし、インターネット参加者も少なく、高速で画像処理するなんてダイヤルアップではとてもとても。

今ならいろんなつくり方があると思います。
たとえば
①気合入れるなら、取材隊を組んで、道路や歴史や都市計画や農業や漁業などに詳しい人を数人、車1、2台出して、多くの分野に強い人と素朴な疑問を持つ人が「ああだ。こうだ。」言いながら、何じゃ?とか、不思議・おもろいと思うものどんどん写真にとって、「あれはな。」と易しい解説を入れる。

②(仮に高松からだと)有志が徳島や松山や高知などに行ったり、仁尾や長尾とか行ったついでに、気にとめたものをチェックしたり、デジカメに撮っておく、それに「あれはな。」と解説を入れる。

所詮、デートやこどもへのウンチクだから、たいていのものはネット検索ですぐに解説が出てきます。

名前も目的もわからないようなものはデジカメで、撮って、「あしたさぬき」ででも「これなに?」とやったら、誰かが「そ(あ)れはな。」とやってくれると思います。

あくまで多くの人が車で動きながら自然と見えてくるもので学んだり楽しもうというものなので、ある程度以上の道路だけでよいし、止まって見るようなものはよほどおもしろいものやオイシイものは入れていいと思いますが、それ以外は載せなくてよいと思います。


実は、この企画は、生きるうえでの他者や社会との関わりを意識するものであったり、納税意識を高め、議会制民主主義の本旨にもすごく適うものだと思ってます。

生きてたら、意外にコストがかかってたり、自分の知らないことで助けられているものだと思います。

道路の下には、電気のケーブルや水道管が走っているし、ただの山のように見えるけど、送電線やら砂防ダムやらいろいろあって、生活できたり、安全だったりする。
道路標示もわざわざつける必要があるし、補修もいる。

海や山や川や田畑を見ても、船が安全に行き来しながら、漁業もできるように、洪水を防ぐための施設や灌漑のための施設があり、護岸があり、そこにまた景観や生き物への配慮があったりと。

団地開発してたら、学校増やさないといけないし、下水もせんといかんし、混雑緩和のために右折レーンつくったり、切土をしたら、水脈が変わったり、ガケ地は安全か確かめたり、街灯もいるなあとか。

今は内海ダムが話題になってますね。

道から見えるようなものには、社会のもろもろの関係や生業が凝縮されてたりします。

これが生きるための社会との関係だったり
納税の意味を考えることだったり
選挙などの争点を、タレント性じゃなくて、言ってる内容で判断するための基礎になるのだと思います。

といって、それは、あくまで間接的なものです。

こどもへの教育目的も間接です。

あくまで、遊んで、ウンチク覚えて、カノジョやこどもにエエかっこして、エエ気分になって、のためのものです。
  

Posted by たみ家 at 19:30Comments(2)

「さぬきドライブウンチク本」構想

2008年04月20日


自治会総会の宴会で、20歳以上年長の大集団に囲まれたので、いつに増して文章があやしい。

本題と関係ないけど、賽銭ドロボーの被害届を出さしてくれんらしい。つかまる見込みがないんで検挙率が下がるので署が受付を拒否するらしい。本末転倒やなあ。
他で余罪を吐かせたら捕まえるらしい。そしたら理論上、受け付けてない事件も検挙できるんで、検挙率101%もありえるんでないだろうか?
そうそう、神社で思い出した。
サンポートに神社つくったら、春の大祭とか、いろんな集客イベントを打てるで。
錦の御旗言いますけど、神威は、大事です。

さて本題ですが
「家庭に教育力を」とか言う人がいる。
たみ家もそれは思わなくもない。
でも、ネタと機会に悩んだりしないだろうか?

まち歩きの考えと似た考えに基づいて、「さぬきドライブウンチク本」を8年前にたみ家は70P執筆したとこで、ある事情でやめました。

カノジョとデートドライブのときに、こどもをイオンでもゆめタウンでもレオマでもええんですが連れて行くときに。

幹線道路ドライブで見える風景でさりげないウンチクを語るための本です。

今とっさにタイトルできました。

「あれはな。さぬき」
いいでしょ。
飲んでる方がセンスええなあ。

子「お父さん、なんでさぬきは、おにぎり形の山が」 父「あれはな。ピュートゆうてな。。。。」

子「お父さん。あそこ山が削れてるの何?」 父「あれはな。庵治石いうお墓とかに使う石切場でな。。。」
or「あれはな。花崗岩とかあま土を採掘したんじゃ。学校のグラウンドとかに使う土じゃ。あそこには天霧城の遺跡があるんやけどな。」

子「お父さん。あそこの海に浮かんどるん。何ぃ?」 父「ああ、あれはな。海苔の養殖しとってな。」

という、お父さんやカレシが、いついかなるとこでもドライブ中にさりげに、ウンチクを披露できるように、幹線道路から肉眼で見えるものに範囲をしぼって、ウンチクネタを尽くした本です。

目次は「国道11号線」「国道32号線」。。。。。「県道1号線(引田~板野)」。。。。「県道10号線(いわゆる長尾街道とその仲間たち。。。じゃなくてバイパス)」というように、大きな距離を移動する道路や交通量の多い道路ごとに章を分けます。

ドライブ本だけに、立ち寄って気分がいいトイレマップとかも付いてます。
「山に上がってもトイレはあるが、手入れがしてない汲み取りなので、マルナカ○○店でおやつを買うと見せかけてさりげにトイレ休憩をしとけ。。。」みたいなネタもあってよし。

8年前と違って、今はただで使えるコンビニトイレが多いですが、「コンビニよりl、こっちのがおやつが安いし種類が多い。」とかはいらん話です。

お店の紹介本では一切ありません。
さぬき固有の風土や都市や市街地の形成の過程の中で生まれた風景についてのみウンチク垂れてお父さんいいかっこしつつ、教育目的も満たす本です。

歴史エピソードやその辺りにゆかりの和歌や山に植えてある農作物や樹木などの植生や公共工事の影響などや河川の運動が生んだ地形や地質の特質から来るものなどドライブ中に肉眼で見えて「あれはな。。。」といえるものなら、何でもかんでも触れていきます。

電柱に特徴があれば電柱の特徴までやります。

「あれはな、景観に配慮した電柱で。。。あれは、野生動物の移動に配慮して溝に動物の通り道がつくってあるんじゃ。。。野鳥の飛ぶルートに配慮してな。。。国立公園やから規制があって、あんな形にしたんじゃ。」

「砂浜や海岸沿いの傾斜地は潮風もあるし、根もはりにくいんで、マツやウバメガシがなあ。」「あそこは山火事があって。。。」「スギの花粉がひどいから、住民できめてあの辺全部伐採したんじゃ。」

「あの山は高瀬茶いうてな。。。。」などなど。

わざわざ社会見学的なことはしにくい人でも、普通にイオンやゆめタウンに連れて行く途中にあるものを説明するなら、時間はかからず効率がいい。
しかも、県内の主要幹線道路や観光道路は完全網羅だ!

たみ家、今、時間的にも車持ってないことでも、もう書けません。
誰か、遺志(死んでないけど)を継いでくれ。
この企画は絶対におもろいよ。
「世の中に、絶対はない」と言いますが、それでも絶対と思うので、もし取材して書き始めておもろくなかったら、うちの年間うどんパスポート出しましょう(2玉までOK)。

たぶん、そんなに手間もお金もこの本つくるのにはかからないと思いますよ。
売れるかどうかはわからないけど。
  

Posted by たみ家 at 21:13Comments(3)

道路のUD 信号番号構想

2008年04月20日

今まで長いお付き合いの方には、「ついにここでもかっ!」と思われそうな、5年目を迎える構想ですが、やります。

信号番号構想の要旨は
香川の主要幹線道路の信号交差点に番号をつけて、番号パネルを車両用信号灯の信号のそばにつけて、地図上などにも記載し、カーナビにも載せてタイアップするというものです。


香川には車両用信号灯がざっと9000基あって、設置場所はだいたい2000ぐらいです。
この設置場所の数百につけるだけでも充分効果があがるでしょう。

香川の幹線道路はほとんど東西か南北に走っていて、交差しているものが多いんです。
各パネルには、西から何番、北から何番とわかるようなプレートにします。

これは、アメリカの道路をかなり参考にしてます。
アメリカの高速道路などは常に、今、東西南北どっちを向いているかを表示してますし、インターチェンジは番号表示で、地図でも番号しか載ってません。

また、アルファベット表示は長くなります。
道路で視認するには向きません。

たとえば「観光」が「Sight seeing」など、字数が5倍ぐらいになります。
それに、移民や外国人が自動車を運転することも多いので、とにかく、色分けや記号づかいがすごく発達してます。

たみ家も常に東西南北向きが沿線に表示してなかったり、地名表示ばかりで番号表示が少なければ迷いまくったと思います。
番号と東西南北向きがあることがわかりやすい道路の絶対条件だとアメリカで痛感しました。
アメリカの道路地図見てください。
うちの店に全米道路地図をしばらく置いてました。
地名じゃなく番号で埋め尽くされています。


使い方の例ですが、自分の家や店を教えたり、広告の地図に表示したりと極めて多用途に使えます。

国道11号線には信号が引田から豊浜まで、たみ家数えで、246車両用信号があります。
半分弱ぐらいは点滅です。

東から志度で30番台、松島町で80番台、四国新聞社から栗林公園辺りが100番ぐらいで、ゆめタウンのあたりが110番ぐらい、記録どっかいったので、うろ覚えですが、丸亀の陸上競技場あたりが160番台ぐらいだったかも。

大阪から車で来た人に、うちのお店の場所を教えようとしてもなかなか教えられません。
地名なんかピンと来ないし、四国新聞社って言っても、近くに来たかどうかわかりません。
カーナビも新車の搭載率で40%ぐらいだし、営業など経費ケチる車にはなかなか付きませんし、高齢者でカーナビ使えてない人が多いんです。
たぶん、付いてても付いてることすら忘れてるぐらい使えてない人がほとんどでしょう。

三木町の喫茶店の人に、「カーナビ付いてる車に乗ってる人の多くが、香川大学医学部附属病院の場所がわからないと言って降りて聞いてくる人が多い。もう2kmもないのに。」とよく聞きました。

カーナビみたなハイテクはどこまで行っても一部の人にしかあてにならんのです。
ローテクこそ、ユーザーインターフェイスに優れています。

カーナビのようなハイテクは万人には役に立たないし、電話で自分の家を説明したりできません。
カーナビでは、絶対に、単純に番号パネルを信号につけるというユーザーインターフェイスに優れた素朴なローテクにはかないません。
このローテク重視こそがUDなんです。

ビデオの予約録画さえほとんどの人はしないし、したくない人が多い。
QRコードなんか、たみ家は使いたいのに使ったことがない。
使い方知りませんし。
たみ家もボケてる方かもしれませんが、QRコード今までに一回も使ったことない人は人口の多数派でしょう。

また、カーナビがあるからこそ、カーナビとタイアップして、さらにパワーアップできるかもしれません。

信号番号は、たみ家最大の地域課題なので、これからも長いです。


ついでに、恋愛神社の続きで、
全国からサンポートの地で、連絡船時代からの出会いや別れなどにまつわる思いをつづったエピソードを募集したら、その原稿やデータなどを奉納するという名目なら神社をつくってもおかしくないと思います。
日本の神はいろいろだから、そういう思いの塊をご神体にするってのはありだと思う。

募集事業の中でマスメディアを通して認知されるし、参加した人はご神体の一部をつくったことになって当事者意識の高い人も多くできるので、賛成する人も多くできて、参拝し続ける人も確保できるのではないでしょうか?
優秀作品などは、テレビやラジオや新聞のようなマスメディアにも乗せていけば、そうとう泣けるんが出てくるので、人々の意識も反対に向きにくくなると思う。

少なくとも、外堀を埋めて、神社をつくる唐突感はかなりなくなると思う。
ここで、おみくじやお守りを販売して、そこそこ収益が上がるようなら、サンポートで除夜の鐘ならぬ、明けましておめでとうカウントダウン花火大会でもやったらどうやろうか。

初詣もサンポートってことにしてみる。

神社はきちんと勧請するべきなのだろうか?
田村神社か石清尾八幡かこんぴらさんか、これはシンボルタワー株式会社が考えるようなことで、直接は県や市の話ではないやろうなあ。
募集事業は県が主体でやったらいいようなことでしょうが。
  

Posted by たみ家 at 09:26Comments(0)

KYと経営学と英語学習

2008年04月19日

昔、アメリカ北東部の小さな町で、向こうの地元紙を読みました。

中小企業経営者や管理職向けのメッセージで、「イスラム教徒が勤務時間にお祈りを始めるようなことに理解を示し、寛容であれ。」

そんな見出しがありました。

これから日本がとるべき道は少子高齢化の中で、違和感のある習慣に対して不寛容な状況から、外国からの移民受け入れの大先輩であるアメリカをある程度見習って、様々な未知の習慣に対して寛容にシフトすることではないでしょうか?

そうであれば、「KY」のように、狭いお友達空間の中で通用する感覚にすがりつくような言葉は、当然、偏狭な認識や世界観から来るわけでよろしくないということになる。

去年の流行語大賞の賞の中にあったか知りませんが、今年の賞に「KY」が入るようであれば、また日本は危なっかしい国になったと思えるわけです。

また、名古屋高裁の裁判長が誰かに襲われるようなことになれば、まさに、「2.26」や「5.15」の再来です。
名古屋高裁の裁判長が感情の爆発によって襲われるようなことが起こらないことを深く祈りたい。


また、経営学の最初の立てりで、マネジメントを「外部に対するマネジメント」と「内部に対するマネジメント」に大別します。

外部マネジメントは、主に市場、次いで取引先、経済動向や政治動向や人口動態など組織の外側の変化への対応について。

内部マネジメントは、組織内部の人事を中心とした対応について。

ここで、すべての組織の崩壊の最も多い理由は、内部の価値を優先しているうちに外部への感覚が麻痺することと言われたと思います。

外部への価値よりも内部の価値を優先したときに組織は崩壊するってことです。

最近、従業員価値を高めるとか、従業員満足を高めるという会社が増えてますが、これらは、それが外部への価値を高める手段になるからそうすると言ってるに過ぎません。

すると、学校に行ってる、ガキンチョさんたちが「KY」って言って、内部のものさしを最優先して、良心に基づく善悪やルールを無視できるのは、構造的になぜか?という疑問が氷解します。

ガキンチョさんたちは、外部からの暴風からは、すべて親や学校の保護で守られているんです。
だから、ぬるま湯の中で、狭い感覚の中で、「KY」なんて甘ったれて言えるわけです。

そういう甘ったれさんのお子ちゃま言葉を、マスメディアや政治家や大の大人が意味合いも考えずに軽々しく使うんはおかしいのよ。

人生の先輩は、自分たちの狭い仲間内の感覚から離れて、外の感覚に触れていき、良心に基づいて行動するように、毅然として、ガキンチョさんたちに諭さなければならないのではないでしょうか?

迎合したり、意味も考えずにおもしろがって、大人が使うもんじゃあないでしょ!

今日、新聞報道で、それなりの地位にある人が高裁判決に対して「そんなの関係ねぇ」とか言ったとか、たみ家は「2.26」「5.15」にだけはつながって欲しくないと思いました。

そういや、英語学習との関連に触れてませんでしたが、英語学習には健全な世界観を養う意味もあると思うし、広く世界のニュース、特に世界に資本と軍を送っているアメリカの問題意識に基づく、広く当事者的な世界への関心に近づく意味があると思います。
日本の国際ニュースは遅すぎるし、選ばれる題材へのバイアスがかかり過ぎているように思えます。
  

Posted by たみ家 at 21:27Comments(2)

インド・ブラジルの少子高齢化

2008年04月19日

先日、「ソ連の崩壊」で、世界情勢を考えて、ある程度20、30年先の予測をしておかないといけないし、できると書きました。

それぐらい先じゃないと、船体に大穴が開いて水が入ってからの活動になってしまいます。
世論とか民意って、世の中の複雑な危機に対しては、水が入らないと盛り上がらないものです。
そこから対策をとっても実効が上がるまでにタイムラグができるのでもう遅いです。

ときにレース中に、マラソンやトライアスロンされてる方が筋肉痛を起こしたり、空腹や渇きを感じたりしますが、そこからではもう間に合いません。
もう忘れたけど、そっから補給してもグリコーゲンやカリウムはもう身体で使えるまでになりません。

大きな問題は、その予兆が可視化にいたってからでは大抵もうアウトです。
たいてい、既得権益と戦ったり、他の利益を奪わないと、対策に回れないので、合意にもすごく時間がかかる。

「場の空気を読むな。そういう文化に浸ったら、船が沈むよ。」といいたいのはそれもあります。
穴が開く前に、厳しい航路をぶつからないように慎重に進むことが大事だし、その前に航路を見定める必要も出てくる。

よく、少子高齢化の日本の人口予測をしてますが、それは財政の出を考えるのが中心になります。
世界市場の中で、インドやブラジルなどが都市化し、富裕層が増えた後に、少子高齢化が必ず来るので、そのときの状況の中で、日本はどうなるのかを考えないとまずいと思います。

韓国は、ちょっと前までは日本よりもかなり合計特殊出生率が高かったけど、日本以上に集中的に都市化し、受験戦争も過熱したなどを受けて、今では日本より少子化してます。
大幅な逆転にかかった時間はほんの数年のことだったと記憶してます。

インド・ブラジル・もちろん、中国やロシアが富裕化した後に少子高齢化し、ナイジェリアなどアフリカンパワーが人口増やオイルマネーを背景に、現在のブリックス化したような情勢の中でのエネルギー事情や環境問題から逆算して、もろもろの国策、産業づくり、まちづくり、福祉などについて、今すぐにできることは見つけにくくてもある程度視野に入れたり、頭の体操的に心の準備をして、観察したり勉強したりする必要があるのではないかと思ってます。

インドやブラジルは成長国のとき以上に、成熟国となったときにこそ、大勢がぜいたくするうえに、そこの稼ぐ力である産業の足腰が弱ってしまっているので、より日本の情勢、そうなれば、市民生活に、脅威を与える可能性が高いのではないかという警戒心は軽くでも継続的に持っておくべきだと思う。

たみ家は、バイオエタノール/ガソリンという言葉を初めて聞いたときに、間違いなく食料危機を加速するという、環境問題でいうところの悪影響を直接的に出すのに、エネルギー代替効果はかなり低く、アメリカの現政権や大規模農業やエネルギー・自動車産業を助けることにしかならないので、日本では導入をやめ、自治体でももちろん、それらに加担すべきでない旨書き、市長座談会で、アンケートに書いて提出しました。

後だしジャンケンと言われたことはありませんが、ここらで、今からの予測をときおり頭の体操的に始めて本文に交えてみたいと思います。

どこからなら、タイトルの問題に対して、対策を考え始められたのかというと、もうかなり遅いのかもしれないけど、今まじめにこのことに取り組んだところが、次世代のチャンピョンになれるのでないかと思ってます。  

Posted by たみ家 at 08:33Comments(0)

KYの半分側

2008年04月18日

たみ家が最初に、社会のことに深く心を動かされたのは、小学校3年ぐらいのときに

「アンネの日記」をテレビで特集してたのを見たときです。

それまでは、割と、大人は子供よりもいつも正しくて、大人の言うことを聞いてて間違いない。
社会は、大人がきちんとやってくれてて、うまくいくぐらいに何となく思ってました。

誘拐とかあるのは、たまたま突発的に悪い人が出てくるだけだと思ってて、社会の問題とは思ってませんでした。

少なくとも、自分が何か真剣に考えないといけないことがあるなんて、まったくイメージもありませんでした。

どうして、ドイツでは、あんなことが起こったのか、正しいはずの大人がたくさん集まって、どうしてああなったのか?
どうして、途中で止めようと言わなかったのか。
アンネが自分とそう大きく歳が離れていなかっただけに、衝撃でした。

この後、さっそく、図書室で本を借りて読みました。

内容自体はあんまり覚えてないのですが、この中で、よく覚えているのは、アンネが誰かに恋をしたなあってのと、何か周囲が沈んでるときに、アンネがはしゃいでみせたときに、周囲からしかられたことについて、「沈んでるときに、みんなで沈み続けてもだめだわ。そういう空気を破らないと。」みたいなことを書いていたことです。

たみ家は、それはそうだと思いました。
以後、何につけ、そのようにしたいと思い続けてきたことが多いのは、やっぱり、ここに原点があると思う。

部活で、怪我をするような上級生のしごきの習慣や行事についても、自分たちの代で絶対に終わらせてやると強く思い、自分が上になったら自分もしたいと思う人とバトルをしたこともありました。

KYの「空気 読めない」には
大雑把にわけて、

①周囲に配慮しない。気配り足りない。

②長いものに巻かれたり、少数派なのに主張して力関係に従うことをしない。

のようにかなり違った半面ずつが、両方多く使われているような気がします。

もし、②の意味で空気を読むなら、少数派や弱者は黙れ、スポンサーのご機嫌を取り続けろ、強い者につきしたがえ、集団の流れに対しては間違ってても、自分の良心に合わなくても異を唱えるな。
ということになります。

①の意味については、もともと日本語に、いろいろ思いやりとか気配りとか他にもいい言葉がたくさんあるはずです。
あえて、「KY」とか「空気を読む」という言葉に必要性はなく、あるのは害だけではないでしょうか?

というより、集団の空気が間違っていても、空気の流れに従わないと、力づくでいじめられて、正義の味方なんて当てにならないんだという若者の間の処世術というか、平和に見えても実は平和でない世の中での生き残り策として言われているのかもしれません。

たみ家は、「空気は読む」でもいいと思いますが、意味を理解して、破るべきときは破るために読むものだと思ってます。
たみ家は、けっこう読める方だと思うのですが、良心にしたがって、破るかどうかをときどき考えています。
大事でないときはだいたい黙ってますが、言った分確実に良くなると思えば言います。
また、破るのが良いと思うときでも、やはり摩擦はでることは少なくありません。
そういうのに疲れるから、できるだけ、大事なことで摩擦を恐れないエネルギーを蓄えるために、その他のことで争いたくない気持ちは持ってます。

「空気を読め」と言う人が、好戦的とは限りませんが、戦争を支持する人はたいてい「空気を読め」と言います。

「KY」と戦前の「非国民」は似た意味を持っています。
また、②の意味の「空気を読む」の反対は、「良心に従う」「志を持つ」「冷静になる。」「創意を発揮する。」ということではないでしょうか?

集団心理は、常に、過激な方、怒りや感情に任せたもの、強い者などの大きな声に染められ、傾き出すと止められなくなる傾向があります。

たみ家は、リンチが死ぬとこまでいきかけても止める者がいないとか、ホームレスのダンボールハウスに死ぬのがわかっていても火までつけるのは、「空気を読む文化」の結果ではないかと思っています。

「孫や子供を戦地に赴かせないためにも、孫にKYと言われてひるんだらいけません。」とパートの人に、昨日、長く思ってたこととからんでいたので、言ってしまいました。

と思ったら、奇しくも

名古屋高裁の航空自衛隊のイラク派遣についての判決にからんで、某与党側の党の幹部が、「KYな判決だ。」と、政治から独立して、良心に従って判決を下すべき、裁判官に対して、信じられないことを言ったと新聞報道で見ました。
三権分立や司法の独立や裁判官が良心に従うことについて、考えてもらいたいと思いました。

戦争したい人は「KY」って絶対に言うんです。
なぜなら、先も書いたとおり、攻撃する場面では「KY」と戦前の「非国民」はほぼ同一記号だからです。

アンネの日記に触れてから、何年か経って、1年生を怪我させるまでしごく部活動を高校、大学で見て、大学で何人も病院送りになるような一気飲みを見続けて、大きな職場での事なかれ主義の犠牲になる人々を見て、周りに「あれどうなの?」と聞いて、「よくあることやん。」「しょうがないだろ。」「俺らには何もできん。」こういう回答しか返ってこない日が続き。

日本は、ずっと戦前の空気なんだなあ。
と思い続けてきました。

いったい、「いつの生まれ?」と思われるかもしれませんが、たみ家には、何か考えるときの原点にはいつも「あの戦争」があります。


さて、なぜ集団心理は怒りにまかせたものになるのか、集団の空気というのは良いから悪いには簡単に変わるけど、いったん悪いになったら良い方にはまず戻らないのか、これも数学的な証明をやれるのではないかと思ってます。

さて
おまけですが、最近、本がめっきり読めないので、食の検定について、以前の地名シリーズのように、ここでネタを小出しにしようと思います。

「すだち」って「酢橘」って書くそうです。
酸っぱい、たちばな。

ホウレンソウは、くさかんむりの下に、波、稜、早(草)の並びで、ホウレンソウ。
だそうです。

ご存知の方も多かったかもしれませんが、たみ家にとっては意外でした。
  

Posted by たみ家 at 22:38Comments(2)

シンボルタワーに図書館の受取窓口

2008年04月16日

最近、昔から思っていたことをもう一度人に話して、世に問うてみたいと思うことが多い。

これも、5年以上前に書いたことそのままですが、e-とぴあ か県民プラザぐらいに、県と高松市の図書館の本を端末で予約して、翌日か翌々日ぐらいに受け取りができて、そこで返却できるサービスってできないんだろうか?

忙しい人は図書館なんか行けないまま、しばらくいかないうちに、存在すら忘れて何年も行かなくなるからなあ。
シンボルタワーなら夜まで開けて、受け取りできる施設があるし、職場から駅までの間しか行き来できないような忙しい人でも、本を借りて、電車の中で読めるようになるかも。

ロッキーがビデオを全店で返せるようにして、大幅に業績を伸ばしました。
宮脇書店もそれぐらいのことはやってます。

シンボルタワーにしぼってやるなら、むちゃくちゃに簡単で追加の費用も人員もほとんどかからんことでしょう。
高松市の図書館に至っては、移動図書館ララ号の巡回で、本館に行き来する途中で、サンポートに寄って、台車下ろして、貸出しと返却の本のコンテナを出し入れするだけ。

県も多少費用負担して、あんな車持ちでない人が行けんような林町に行けない交通弱者や無駄に車を走らせない環境対策や中心市街地活性化などのために、シンボルタワーで本の貸出し返却ができるようにできんもんだろうか?

この効果を計るためには、JR高松駅とコトデン築港駅の1日の乗降客数と、サンポート周辺の昼間人口などを知る必要がありそうですね。
費用がほとんどかからない非常に簡単なことだから、どれだけであっても、充分効果はありそうに思えますが。

高松駅前の好立地のシンボルタワーには公共スペースにけっこう余裕があるように思える。
1日の本の貸出しと返却なんか、最大でもコンテナ2、3個分あれば充分だからスペースなんか問題にならないけど。
それに、必ずしも毎日巡回しないといけないわけでもなく、隔日でも良いし。

人員なんか、専門知識は一切いらないし、新たに雇う必要もないぐらいの業務量にしかなりませんよ。
蔵書の選定などに専門知識がいるのであって、貸すのにはいらないでしょう。

公用車の運転手が行財政改革で、やむなく図書館の窓口職員に転身されてる例は多々ありますが、すぐに活躍されてますから。


シンボルタワーはマンションに似てて、あらかじめ、高松市と県が一定部分を買い受けることを約束したうえで、シンボルタワー株式会社が建設し、シンボルタワー株式会社、高松市、県が3者で区分所有してて、イベントをやってるエレベーターやエスカレーターあるデックスガレリアなんかが、マンションの共有部分にあたる玄関のようなものです。

つまり、シンボルタワー株式会社の持ち物スペースか、市のか県のかです。

空いてそうなのは県部分だなあ。
でも、サービスとしては本来的には市のサービスに近いなあ。

県や市や言わずに、住民や公共の利便のために、協働したり義務にない新しいことを発想していこうとすると、やって良さそうな気はするが、意志と気持ちの余裕があるかどうか?

まあ、費用以上に利便性は増しそうですが、費用だってゼロではないし、そっから収益は上がりませんし、多少、制度を整えたり、協議がいるでしょうから、まあ、外圧がないとやりたくないでしょうね。
  

Posted by たみ家 at 21:29Comments(0)

メートル法と六曜

2008年04月15日

メートル法はフランス革命発らしい。
平等な世の中をつくるには、職能集団の習慣などからくる単位を廃止して、誰にとっても共通の地球とか重力や時間を基準にし、特権や差別につながるものを排除していかないといけないという考えだったと覚えている。

大国、アメリカやイギリスは、フランス革命の政治的影響の流入を避けたかったから、メートル法を拒否し、今でも、マイルやらガロンやらポンドやら使ってる。

大安やら仏滅やらの六曜は、カレンダーから消すように、いろいろ人権団体から要請され、役所がつくるカレンダーやカレンダー入りの手帳などでは、六曜は消されていたはず。
今また復活してるかどうかはしらないけど、巷でも、明らかに後に消されて六曜がなくなったと思われるカレンダーは、けっこうあったような気がする。
でも、商売しだしてから、商売の人はみんな六曜みたいな縁起気にする人が多いから、もらうカレンダーで六曜ないの見たことない。

たみ家は六曜あってほしいと思う気持ちもあるけど、排除する考えにも理解を示したい。

ひのえうまとか、前後の年と比べて、江戸時代から、何十万人も出生数が違う。
前後が150~190万人ぐらい生まれた年に、ひのえうまが130万人とか。

避妊や中絶の技術が進んでなかった時代だけに、この5、60万人の差の中の何十万人は、産まれてすぐに。。。と言われてます。

まったく科学的な根拠のない迷信で、むちゃくちゃにひどい目にあってたりするんですね。

韓国なんかは風水がすごいから、西やら南やら、縁起が悪いと出た方向に家があるというだけで、親から結婚反対されてできないとかあると聞きます。

仏滅に生まれたから呪わしい子だとか言われたくないですよ。
午前に生まれたとか午後に生まれたとか。。。もう勘弁してや。
もし、そんなんで不利な思いしたら誰でも思うでしょう。


六曜とかひのえうまとか、その他の占い全般のような科学的な根拠に基づかないものは、傾向として、誰もが平等に生まれたことを祝福されるという人としての基本を害する危険をはらむ。というか、事実としてもろに大きな実害を出してきました。

その線からいくと、血液型とか、星座とかも、どうなんかいなと思わんでもない。
まあ、遊んでる人にどうこう言おうとは普段は思わないけど。

人権とか平等って、文化や娯楽と、摩擦を起こすことがけっこうある。
このヘンは、注意やな。

日常会話で、「人権」とか「平等」って言うだけで、うさんくさいというか、びっくりするというか、浮きまくるというか、それらの絶妙なミックスが生まれると思いませんか?

札所番号は、遊びとしておもしろいと思う。
遊びだけに、たみ家は現段階ではOKかなと思っている。

ただ、どこかに危なっかしいものが潜んでいて、何か出るかもなあという軽い警戒心はもっておいていいと思う。

当面は、遊ぶ方向で考えたいけど。
  

Posted by たみ家 at 20:42Comments(4)

州都と宿毛

2008年04月15日

今の担当大臣は、2018年か年度までに、道州制の完全実施を言っている。
区割りは、まだだが、これから逆算すると、州都争いは、その数年前には決着がついてないといかんことないだろうか?
あまり、よく知らないんだけど、松山って、その気あるんですか?
既成事実をつくる高松に対して、白旗を挙げてるのか、そうでもないのか、情報がまったく入らないので。

そもそも、州都なんか誘致する必要がないじゃないかと言いたいとこですが、今の制度や、街の状況などを考えるに、ならないと切実に困りそうだから、なっといた方がいいと思う。

ただ、高松は州都になるにふさわしいですか?

今まで、高松は四国の中枢拠点性を担ってきたといわれてきました。

港湾の位置に恵まれていただけじゃないですか?
担ってきたのは、よそから来た支店の人や国の機関の人で、高松の人がどれほど中枢拠点性に貢献しましたか?

じゃあ、今、高松が州都になろうとするのは何のためですか?
高松市民が四国の中枢にふさわしい拠点をつくり、四国全体のことを考え、四国全体をひっぱり上げる原動力になろうとしてますか?
自分たちのことで、精一杯で、四国全体のことを良くするためのリーダーシップを発揮しようなんてどれだけの人が考えているのでしょうか?

たまたま、宿毛の話が出ましたが、四国霊場の札所番号を生活や習慣の中に溶け込ませようと考えるのも、一つには、その脈から考えてのものです。
四国の中で、リーダーシップを発揮するということは、宿毛のことも考えるってことじゃないでしょうか?
欲するのみでなく、与えるエネルギーを外に発していくことによってしか、中心になりえないのでは?

ブラックホールじゃあるまいし、中枢に名乗りを上げることが、お金が無くて困ってるから、中央から来る富の源泉を独り占めしようとして、四国の方を向かずに、中央から来るお金持ちや権力に近い人々の入るところを住民から集めたり国からもらったお金でつくって招き入れるところに力は入れたけど、肝心な、住民の側には、その心を持つ余裕が今の経済情勢もろもろの中でない。

目標を高くもって本気でやったら案外、低めで設定した時期の目標はその中で通過できることはあると思う。

自分たちや高松を良くしようとして、その線を狙ってたんでは、ときに怠けたり、予想外のうまくいかないことが出たりするんで、どうしても届かない。
四国全体を良くする気持ちや力を持とうとして、そのように街をつくっていけば、案外、高松を良くすることについてはいい線いけたりするんでないかと思う。

今は、物をもらうために州都を目指しているとよそから言われても否定できんのでは?

特権的な地位を自分の欲得のために手に入れようとする人は、ときに卑しまれますが、今、そうでないと言い切れるだろうか?

アメリカも慈悲深く、寛容なリーダーであるときは、魅力的だが、一たび、自分の権益のために、外国を戦地にすると、世界全体がおかしくなる。

東京も、全国の富を集めているのに、全国を良くしようとする視野や寛容さについて、疑わしさを感じさせる。

何でも、そうだと思う。
集団の中で、地位のある者、力のある者、自信のある者などが、全体に目配りしないところはうまくいかない。
今の高松が州都になって、リーダーシップを発揮しようとしても、国からの上位下達を脱することはできないし、独自のあるべきビジョンももてず周囲と綱引きするだけだろうし、まず、発揮するべき力がない。
その力がなくて、自分のことで精一杯だから、周囲に対して力を与えていけるはずがない。

そうすると、州都には、中心性なんか持たせなきゃいいのに。
ニューヨーク州の州都がニューヨークでなく、人口10万もないようなとこになってることを参考にできんもんかなどと、総論では思う。
でも、やっぱり、各論では、四国支社なくなったら、うち、店閉めないといけないかもしれないから、やっぱり州都誘致大賛成!
。。。するしかないわな。

じゃあ、せめて、総論の理想に近づこうと思って、毒にも薬にもならんような、頭の体操の中で、一番遠い宿毛の観光振興のことなど考えてみた。
  

Posted by たみ家 at 20:00Comments(0)