KYの半分側

2008年04月18日

たみ家が最初に、社会のことに深く心を動かされたのは、小学校3年ぐらいのときに

「アンネの日記」をテレビで特集してたのを見たときです。

それまでは、割と、大人は子供よりもいつも正しくて、大人の言うことを聞いてて間違いない。
社会は、大人がきちんとやってくれてて、うまくいくぐらいに何となく思ってました。

誘拐とかあるのは、たまたま突発的に悪い人が出てくるだけだと思ってて、社会の問題とは思ってませんでした。

少なくとも、自分が何か真剣に考えないといけないことがあるなんて、まったくイメージもありませんでした。

どうして、ドイツでは、あんなことが起こったのか、正しいはずの大人がたくさん集まって、どうしてああなったのか?
どうして、途中で止めようと言わなかったのか。
アンネが自分とそう大きく歳が離れていなかっただけに、衝撃でした。

この後、さっそく、図書室で本を借りて読みました。

内容自体はあんまり覚えてないのですが、この中で、よく覚えているのは、アンネが誰かに恋をしたなあってのと、何か周囲が沈んでるときに、アンネがはしゃいでみせたときに、周囲からしかられたことについて、「沈んでるときに、みんなで沈み続けてもだめだわ。そういう空気を破らないと。」みたいなことを書いていたことです。

たみ家は、それはそうだと思いました。
以後、何につけ、そのようにしたいと思い続けてきたことが多いのは、やっぱり、ここに原点があると思う。

部活で、怪我をするような上級生のしごきの習慣や行事についても、自分たちの代で絶対に終わらせてやると強く思い、自分が上になったら自分もしたいと思う人とバトルをしたこともありました。

KYの「空気 読めない」には
大雑把にわけて、

①周囲に配慮しない。気配り足りない。

②長いものに巻かれたり、少数派なのに主張して力関係に従うことをしない。

のようにかなり違った半面ずつが、両方多く使われているような気がします。

もし、②の意味で空気を読むなら、少数派や弱者は黙れ、スポンサーのご機嫌を取り続けろ、強い者につきしたがえ、集団の流れに対しては間違ってても、自分の良心に合わなくても異を唱えるな。
ということになります。

①の意味については、もともと日本語に、いろいろ思いやりとか気配りとか他にもいい言葉がたくさんあるはずです。
あえて、「KY」とか「空気を読む」という言葉に必要性はなく、あるのは害だけではないでしょうか?

というより、集団の空気が間違っていても、空気の流れに従わないと、力づくでいじめられて、正義の味方なんて当てにならないんだという若者の間の処世術というか、平和に見えても実は平和でない世の中での生き残り策として言われているのかもしれません。

たみ家は、「空気は読む」でもいいと思いますが、意味を理解して、破るべきときは破るために読むものだと思ってます。
たみ家は、けっこう読める方だと思うのですが、良心にしたがって、破るかどうかをときどき考えています。
大事でないときはだいたい黙ってますが、言った分確実に良くなると思えば言います。
また、破るのが良いと思うときでも、やはり摩擦はでることは少なくありません。
そういうのに疲れるから、できるだけ、大事なことで摩擦を恐れないエネルギーを蓄えるために、その他のことで争いたくない気持ちは持ってます。

「空気を読め」と言う人が、好戦的とは限りませんが、戦争を支持する人はたいてい「空気を読め」と言います。

「KY」と戦前の「非国民」は似た意味を持っています。
また、②の意味の「空気を読む」の反対は、「良心に従う」「志を持つ」「冷静になる。」「創意を発揮する。」ということではないでしょうか?

集団心理は、常に、過激な方、怒りや感情に任せたもの、強い者などの大きな声に染められ、傾き出すと止められなくなる傾向があります。

たみ家は、リンチが死ぬとこまでいきかけても止める者がいないとか、ホームレスのダンボールハウスに死ぬのがわかっていても火までつけるのは、「空気を読む文化」の結果ではないかと思っています。

「孫や子供を戦地に赴かせないためにも、孫にKYと言われてひるんだらいけません。」とパートの人に、昨日、長く思ってたこととからんでいたので、言ってしまいました。

と思ったら、奇しくも

名古屋高裁の航空自衛隊のイラク派遣についての判決にからんで、某与党側の党の幹部が、「KYな判決だ。」と、政治から独立して、良心に従って判決を下すべき、裁判官に対して、信じられないことを言ったと新聞報道で見ました。
三権分立や司法の独立や裁判官が良心に従うことについて、考えてもらいたいと思いました。

戦争したい人は「KY」って絶対に言うんです。
なぜなら、先も書いたとおり、攻撃する場面では「KY」と戦前の「非国民」はほぼ同一記号だからです。

アンネの日記に触れてから、何年か経って、1年生を怪我させるまでしごく部活動を高校、大学で見て、大学で何人も病院送りになるような一気飲みを見続けて、大きな職場での事なかれ主義の犠牲になる人々を見て、周りに「あれどうなの?」と聞いて、「よくあることやん。」「しょうがないだろ。」「俺らには何もできん。」こういう回答しか返ってこない日が続き。

日本は、ずっと戦前の空気なんだなあ。
と思い続けてきました。

いったい、「いつの生まれ?」と思われるかもしれませんが、たみ家には、何か考えるときの原点にはいつも「あの戦争」があります。


さて、なぜ集団心理は怒りにまかせたものになるのか、集団の空気というのは良いから悪いには簡単に変わるけど、いったん悪いになったら良い方にはまず戻らないのか、これも数学的な証明をやれるのではないかと思ってます。

さて
おまけですが、最近、本がめっきり読めないので、食の検定について、以前の地名シリーズのように、ここでネタを小出しにしようと思います。

「すだち」って「酢橘」って書くそうです。
酸っぱい、たちばな。

ホウレンソウは、くさかんむりの下に、波、稜、早(草)の並びで、ホウレンソウ。
だそうです。

ご存知の方も多かったかもしれませんが、たみ家にとっては意外でした。



この記事へのコメント
とても共感しました。わたしも、『空気を読め』という言葉に抵抗がありました。
 たしかに戦争したい人が使いそうですね。
Posted by 柳下玲優 at 2008年04月20日 14:15
柳下さま
ブログ発見しましたよ。
同じ時期に同じようなことを感じてましたかっ。

知床って、北海道の方ですか?
Posted by たみ家たみ家 at 2008年04月20日 20:24
 
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    コメント(2)