遺族の処罰感情とリスクをとる社会 1

2008年04月26日

最近、遺族の処罰感情というキーワードがよく出てくる。

光市の事件については、あれは死刑でもいいのかもしれない。

ただ、遺族の処罰感情が量刑に影響するというのは、危険だと思う。
遺族の処罰感情を刑罰に反映させることが、世論なのかもしれない。
世論の背景には国民の願いがあるのかもしれない。

しかし、国家の刑罰権や司法制度全体の問題として考えたときの危険性は無視できないと思う。

たぶん、光市のは、もし被害者が母子家庭で遺族がいなかったり、夫婦関係が冷え切っていて遺族ががんばらなかったら、無期懲役で終わっていた可能性がある。
これは今まで誰も否定しなかった。

もともと死刑なら死刑でもいいのだが、被害者に家族がいるとか愛されていたとか、そういう事情が、国家の強大な刑罰権に影響して、ときに人の生死を分けたり、事件の重みに軽重の判断がつくことが危険なんです。

お金を持っていて、多くの人に施しをした慈善家が被害者であるのと、施しができない普通の人やホームレスの人が被害者であるので、残された人の思いが違うかもしれない。
美人とそうでない人では、愛され方が違うかもしれない。

遺族の感情は大事なことではあると思う。
国家や社会よりも、自分の愛する人は重いというのも、当事者にとってはやむをえないところだと思う。

しかし、それが反映されることは、国家の刑罰権と司法制度にとって危険性をはらむことは間違いないだろう。

また、人権や教育の問題としても、国家が人の命の軽重に違いをもうけることにもつながる。

社会と個人の問題のバランスはかなり哲学的な論争も含むだろうが、社会制度に感情を反映させない社会ほど社会そのものはうまくいくだろう。

国民感情とか、県民感情とか、感情が政治に反映されるのは、政治がうまくいってない証拠、もしくは、政治をうまくいかせない要素になるだろう。

ただ、憲法は日本は、個人主義の国で、個人が幸福になるために国があって、国が個人をしばるのは、個人間の利害がぶつかったり、多くの個人が幸せになるためにつくった大きな共同体のやることともぶつかるので、こういうときは調整したり、ときには我慢してもらいましょうというもので、社会が究極目的でなく、個人の幸福が究極目的だと言ってます。

だから、感情を満たすことが国民の願いなら、それが正しいのかもしれない。
しかし、それが行き過ぎたら、日本は、食べていけん国になる可能性が高い。

罪刑法定主義は何のためにあるのかについてもよく考えてほしい。
漢が秦を打倒したときに、咸陽(だったかな?)で「法は三法」と、宣言し、法を簡素化したと聞く。

「処罰の相場はここまでですよ。」と安定してない国は、経済が立ち行かんのです。
処罰の安定は法の安定であり、それが情状で左右されやすい国は、理論上も歴史的にも、国家の富の生産と配分のシステムの根幹がやられるんです。
リスクがとれんのです。
国家のモノサシの中でも国民を害することができる刑法のモノサシが変わるんは、将来最も、国民を害する結果につながりやすいんです。

権力は、国民の感情を国民自体のために配慮なんか絶対にせんよ。
するのは、ときの政権か、政府に何か都合がいいから、それを利用するわけです。
政権に都合が悪いことで、政府が国民の感情のために法の執行を変えたりしますか、政府に都合が悪かったら、淡々と「お気持ちはわかりますが、法や制度はこうなってますんで。」と感情に左右されずに執行していくでしょう。
政府と裁判所は別だけど、どうも現実はリンクしているようです。
すくなくとも、検察側の求刑の重さと追求の強さは裁判の結果に反映されるでしょう。

さて、政府は、国民感情を尊重すると、どう自分たちにとって都合がいいのか?

刑罰のモノサシが変わることの危険性については
殺人事件と、経済活動の自由は意味がまったく違うと思う人は、悲しいかな、法と歴史をある程度勉強してきてほしい。
強者にとって、変えられるということは、どんな場合でも変えられるということです。
ほぼ同じです。

昨今、裁判員制度がいろいろ言われている。

昨日、ある方に、これはアメリカが弁護士の市場を求めて、日本の司法制度をアメリカ型に近づけようとした「市場開放」ならぬ「司法開放」だという話をちらっと聞いた。
確かめてはないけど、ありそうな話だとは思う。
アメリカは、たみ家が知る範囲では特にクリントン政権下でバリバリにそういうことをやってきた。

マスコミがおもしろく悲劇として取り上げやすい事件を感傷的に報道して、裁判員に影響を与えるのでは、司法制度としては極めて危険だ。
特に、性的なものや、家族の情愛にからむものはそうなりやすそうだ。

行為の態様など客観性がある事実に比べて、客観性の低い、行為の時点でとらえようのない事柄、また、直接には犯行自体の当事者でない遺族の有無や感情、ときには、被害者が周囲に行ってきたことの態様などが、裁判の結果に違いを与えるのでは、国民活動が委縮してしまう。

このへん、わかってもらえるだろうか、殺人事件も金融商品や保険商品の販売などに関わる消費者保護的な事件もほぼ同じで、殺人事件の裁判のモノサシが変われば、経済活動も委縮するんです。

医療過誤の被害なんか、過失や故意の認定にからめれば、これなんか、殺人と経済活動に類似の意味を持つのでわかりやすいと思います。
怖くて、手術なんかできん世の中にもうなってるでしょう。

マスコミの感情的な論調に左右されて、未必の故意の認定や量刑が変わったら、遺族がいないなら治療するけど、愛妻家の奥さんは治療せんとか言いたくもなるかもしれません。

社会の活力が弱まるって、こういうことなんです。



この記事へのコメント
はじめまして、ポルテといいます。
遺族の感情がどうこうより、こう言う犯罪を犯して一審で死刑にならなかった事自体が私はおかしいと思います。

人を殺して数年~10数年でまた元の生活に戻る事も理解出来ないです。

自分の親、兄弟、子供達が同じような目で殺されてもあなたはそう言って他人事のように言ってられるのですか?
その方がよっぽど心が荒んでいると私は思います。

勝手言ってすみませんm(_ _)m
どうぞ削除してください。
Posted by ポルテポルテ at 2008年04月26日 08:09
ポルテさん
はじめまして
なぜに、わたくしが非常に受けが悪そうなことを、わかっていて書くと思いますか?
わたくしも慎重に言葉を選んだつもりですし、当事者としての気持ちがとくにポルテさんと変わるとは思ってません。

今の刑法は、フランス革命が源流っぽいので、割りに、国と個人の対立で、国の刑罰権が危険という発想で、つくられています。

法学って、けっして浮世離れしたものでなく、世の中の人がよく生きるためにあるわけだと思います。

それは普通、個人の問題としてじゃなく、社会の問題として処理する必要があって、それを個人の問題とどう折り合いをつけるかってことではないでしょうか?

もし、いっぺん、遠い目から見て、流れに逆らってでも、物事の持つ裏の面や危険性についてアラームをならさなかったら、本当に社会は危険になります。

ポルテさんが、今の社会の危険をどう見てるかわかりませんが、わたしは、今の世の中は、大戦前の空気に似ていると思います。

このことについては、20年近く、悩むほど考えてきました。

わたくしは、本分の中でポルテさんのコメントにあることについては、すでにお答えしていると思います。

もともとが死刑ならいいんです。
たみ家は特に死刑廃止論者でもありません。
不明確なことで変わるのが危険だといってるわけです。

ただ、先進国では死刑やってるのは日本だけともいわれます。
また、従来、殺人が死刑になってこなかったのも事実です。

それが間違ってるのかもしれませんが、なぜ、そうなっているのかは、ただ間違っているではすまないと思います。

他人事ではないんです。
受けが悪いことを覚悟して、必死で言わないといけない事情があると思って書いているわけです。

たぶん、今、社会で何が危険なのか、これまでもこれからも書き尽くすことも、説明することもできないと思いますが、おそらく、その人生の中で、それぞれ見てきたものが違うのだと思います。

それらの間の意見の違いについては、ある程度の尊重をお願いできたら、それでかまわないと思います。
Posted by たみ家たみ家 at 2008年04月26日 08:32
あっ!はじめましてでなかったです。
栗林公園のお花の写真をすごくきれいに撮られた方でしたね。
Posted by たみ家たみ家 at 2008年04月26日 08:33
 
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