Q 国会議員しかできないことは何?
2009年05月31日
国会議員の仕事が何か考えたことのある人って、どれぐらいいるでしょうか?
たぶん、法学部では必ずやると思いますが、中学の世界史でもちょっとやったと思います。
教えてはもらうけど、考えないから、いざ聞かれると「?」ってなりませんか?
国会の仕事は
①国民の権利を制限し、義務を課すこと。
ほぼこれだけと考えていい。
もう一つ言うなら
②租税を課すこと。
これも①みたいなもんですが、歴史的に、王様に好きなように税金をかけさせないために、国民の代表からなる議会の承認なしで、税金を決められないようにしたという権力闘争の産物です。
権利を与えることは、誰がやってもいいんです。
強制力がないなら、害はないから、普通の人が甘え声で要望するだけなら罪はないです。
「ぼくのハニーが、バーキン買ってくれないと別れるって言うんです。」いちおう、これには強制力がないことになっている。
暴力を伴わない強制は、強制とは言わないことになってて、国家以外がやると、脅迫とか暴行とかになる。
国家が強制する場合だけルール(国会議員が集まって決めた法律)にのっとってやれば犯罪にならない。
だから、国家と国家でないものを分かつのは、義務の履行に暴力が使えることしかなく、国家とは暴力が本質という。
また、人が得しかしないことなら国民の代表の資格は必要でないから、自分の財産を人にあげちゃうことは、誰がやってもよろしい。
生活保護という給付は、税金でひっぺがした財産を給付するもので、ただあげるのでなく、ひっぺがして他の人にあげることだから、国会の決めた法律の根拠を要します。
そして、
③予算を通すこと
も国会の役割ですが
根源には、国民に義務を課して、財産を取り上げていることがあります。
だから、その目的と使い方は、国民の代表でやってくださいということになる。
国会議員のそもそもは
王様から取り上げた、国民をしばりつける権能を、国民の代表のものにしようとしたところです。
これに、経済的自由の一つ「職業選択の自由」が通用するでしょうか?
国民に義務を課すことに、職業として一般的な自由が認められないのでは?
ただ、立候補する側の参政権というものは、一般的な職業選択の自由よりは重いかもしれない。
さて、この部分の続きは。。。次回かなあ。
よく、麻生さんとかが、「職業選択の自由」って言うけど、国会議員を職業と言ったり、世襲の問題に、職業選択の自由と憲法違反を持ち出すって、的を射てないのではないだろうか?
王権の民を抑圧する権能を分割して、国民の代表からなる議会のものにしたものについて、世襲などによる固定化反動が進むことは、貴族制への接近。
そして、「貴族」って職業でしょうか?
また、もろもろの不公平に比べて、世襲の場合は、多選の弊害も併せ持ってます。
権力者はルールを在任中に自分の都合の良いものにつくりかえたり、自分に都合の良い情報を流し続けることができるでしょ。
団長は、こんな簡単な基礎の基礎にも触れてない。
憲法学でも出ますが、あらゆる不公平や差別の中で、生まれた運だけで決まり、代々による継続の可能性が最も大きい世襲が、一番民主主義に反するって、習わないとわからないことなのかなあ?
貧富や学力なら後天的努力も入るとか、子孫に継がれるかどうかわからない差別がたくさんあるなかで、世襲は、先天のみで固定性が大きいというキングオブ不平等、キングオブ民主主義の敵なわけです。
(私有財産制については、人間がオスメスという本能の動物であること、ブルジョワによる市民革命の権力闘争の産物であること、経済の手段として各人の欲任せが優れているなど、民主主義の話とは重なりながらも別の議論を要する。こっちもいずれ、念入りに。)
団長のは、制度や問題点について知識が足りてないし、始終論理が通ってないし、問題がありながらどうせなくならないからええんちゃうって書いてて、倫理的にも問題。
また、おぜにさん持ちやタレント議員の増加も、同じように貴族制への接近です。
立候補する側の参政権は重大である。
しかし、極めて重大なものだけに、形式的な自由や平等でなく、実質的な自由や平等のための不断の努力が求められる。
ヒトラーも議員として能力が高く経済対策で成功して、合法的に、民が選んで地位に押し上げられた。
国会議員の仕事の本質が、民の抑圧と言うが、ただ抑圧するのではない。
たいていは、多くの人が国の中で、または国と関わって生きていくなかで、多数の利害と個人の権利との間で、抵触・背反があるから、それの調整を国民の代表に委ねた結果としてのことなのだ。
だから、常に、公共目的と個人目的の対立ぐらいは最低、どの話題についても含まれているのだ。
公共とか社会の問題は、常に、複数の目的の抵触・背反によってもたらされる。
だから、たくさん物を売るとか、面白おかしくってのと違って、一つの目的と手段の整合によって解決ができないのだ。
ああれえ。
ネットカフェのパソコンだと不調だし、落ち着いて推敲ができん。
次の用事も押してるし、後で携帯で読み返して次回補足したり、読者の方にとって疑問がありそうなところや、考え方のよりどころとなっている論理などについて、どんどん書いていきたいと思います。
たぶん、法学部では必ずやると思いますが、中学の世界史でもちょっとやったと思います。
教えてはもらうけど、考えないから、いざ聞かれると「?」ってなりませんか?
国会の仕事は
①国民の権利を制限し、義務を課すこと。
ほぼこれだけと考えていい。
もう一つ言うなら
②租税を課すこと。
これも①みたいなもんですが、歴史的に、王様に好きなように税金をかけさせないために、国民の代表からなる議会の承認なしで、税金を決められないようにしたという権力闘争の産物です。
権利を与えることは、誰がやってもいいんです。
強制力がないなら、害はないから、普通の人が甘え声で要望するだけなら罪はないです。
「ぼくのハニーが、バーキン買ってくれないと別れるって言うんです。」いちおう、これには強制力がないことになっている。
暴力を伴わない強制は、強制とは言わないことになってて、国家以外がやると、脅迫とか暴行とかになる。
国家が強制する場合だけルール(国会議員が集まって決めた法律)にのっとってやれば犯罪にならない。
だから、国家と国家でないものを分かつのは、義務の履行に暴力が使えることしかなく、国家とは暴力が本質という。
また、人が得しかしないことなら国民の代表の資格は必要でないから、自分の財産を人にあげちゃうことは、誰がやってもよろしい。
生活保護という給付は、税金でひっぺがした財産を給付するもので、ただあげるのでなく、ひっぺがして他の人にあげることだから、国会の決めた法律の根拠を要します。
そして、
③予算を通すこと
も国会の役割ですが
根源には、国民に義務を課して、財産を取り上げていることがあります。
だから、その目的と使い方は、国民の代表でやってくださいということになる。
国会議員のそもそもは
王様から取り上げた、国民をしばりつける権能を、国民の代表のものにしようとしたところです。
これに、経済的自由の一つ「職業選択の自由」が通用するでしょうか?
国民に義務を課すことに、職業として一般的な自由が認められないのでは?
ただ、立候補する側の参政権というものは、一般的な職業選択の自由よりは重いかもしれない。
さて、この部分の続きは。。。次回かなあ。
よく、麻生さんとかが、「職業選択の自由」って言うけど、国会議員を職業と言ったり、世襲の問題に、職業選択の自由と憲法違反を持ち出すって、的を射てないのではないだろうか?
王権の民を抑圧する権能を分割して、国民の代表からなる議会のものにしたものについて、世襲などによる固定化反動が進むことは、貴族制への接近。
そして、「貴族」って職業でしょうか?
また、もろもろの不公平に比べて、世襲の場合は、多選の弊害も併せ持ってます。
権力者はルールを在任中に自分の都合の良いものにつくりかえたり、自分に都合の良い情報を流し続けることができるでしょ。
団長は、こんな簡単な基礎の基礎にも触れてない。
憲法学でも出ますが、あらゆる不公平や差別の中で、生まれた運だけで決まり、代々による継続の可能性が最も大きい世襲が、一番民主主義に反するって、習わないとわからないことなのかなあ?
貧富や学力なら後天的努力も入るとか、子孫に継がれるかどうかわからない差別がたくさんあるなかで、世襲は、先天のみで固定性が大きいというキングオブ不平等、キングオブ民主主義の敵なわけです。
(私有財産制については、人間がオスメスという本能の動物であること、ブルジョワによる市民革命の権力闘争の産物であること、経済の手段として各人の欲任せが優れているなど、民主主義の話とは重なりながらも別の議論を要する。こっちもいずれ、念入りに。)
団長のは、制度や問題点について知識が足りてないし、始終論理が通ってないし、問題がありながらどうせなくならないからええんちゃうって書いてて、倫理的にも問題。
また、おぜにさん持ちやタレント議員の増加も、同じように貴族制への接近です。
立候補する側の参政権は重大である。
しかし、極めて重大なものだけに、形式的な自由や平等でなく、実質的な自由や平等のための不断の努力が求められる。
ヒトラーも議員として能力が高く経済対策で成功して、合法的に、民が選んで地位に押し上げられた。
国会議員の仕事の本質が、民の抑圧と言うが、ただ抑圧するのではない。
たいていは、多くの人が国の中で、または国と関わって生きていくなかで、多数の利害と個人の権利との間で、抵触・背反があるから、それの調整を国民の代表に委ねた結果としてのことなのだ。
だから、常に、公共目的と個人目的の対立ぐらいは最低、どの話題についても含まれているのだ。
公共とか社会の問題は、常に、複数の目的の抵触・背反によってもたらされる。
だから、たくさん物を売るとか、面白おかしくってのと違って、一つの目的と手段の整合によって解決ができないのだ。
ああれえ。
ネットカフェのパソコンだと不調だし、落ち着いて推敲ができん。
次の用事も押してるし、後で携帯で読み返して次回補足したり、読者の方にとって疑問がありそうなところや、考え方のよりどころとなっている論理などについて、どんどん書いていきたいと思います。
Posted by たみ家 at 18:02│Comments(0)