五教科の関係
2009年04月29日
思考のトレーニングとして、スポーツのように、柔軟性、スピード、スタミナ、正確さ、強さなどを身につけるもの。
これは、国語、英語、数学、理科、社会どの教科にもその要素がある。
世の中が何であるか、自然においては、理科で、人間のやることについては社会科で知ること。
コミュニケーションとして、日常のことは国語で、世界中に広がりのあることについては英語で、自然界の法則や量的関係や空間関係などにおいては数学で。
少数間で行われることはパーソナルコミュニケーションとして、マスメディアが関わることについては、マスコミュニケーションとして。
みたいな感じで
トレーニング、コンテンツ、コミュニケーション
これが五教科を伝統的な縦割りでなく、有機的に機能面から見たとらえ方でないでしょうか?
五教科の勉強をしてるとき、これは国語だとか、理科だとか思わずに
「トレーニングだ。コンテンツだ。コミュニケーションだ。」または、その複数を同時にとか、思ってみてはどうでしょうか?
SVOCとか「こ・き・く・くる~」とかは、スクワットや腕立てに近い意味があって地味なもんでしょう。
数学なんかには、ストレッチとして、関節の可動域を広げるような役割りもあるかもしれません。
スポーツにおいて、右投げだから、左腕は鍛えないとか、投げるのは腕しか使ってないから腹筋はいらないとか、試合では100球しか投げないから、100球以上は投げないとか、「打って、三振とったらええんや。チームプレーとかサインとか作戦なんかいらんよ。」と言えないように。
国語、算数、英語、理科、社会も、そういう関係だと思うんです。
世の中のことを考えたり、活躍するのに、何がいらないとか、何が関係ないとか、あるはずないんです。
確かに、低いレベルの野球で、素人相手だと、作戦なしでも、疲れずにスタミナとか関係なしで外野は寝てても勝てますが、おおよそどんな分野でも、社会で行われることは、コンテンツとコミュニケーションと、思考のトレーニングの裏づけが、レベルが上がるにつれて必要になると思うんです。
スポーツではもうかなり研究が進んでいるのにね。
勉強も
全部がつながっていて、全部が役に立つに決まってるんです。
短距離走の選手が上半身の筋肉量が多いのは誰でも知ってます。
競輪選手に最も必要な体力数値の3つ目までにはベンチプレスの数字が出てきます。
この程度のことさえ、勉強においてはほとんどの人がわかってないような気がする。
たみ家も、30歳をかなり過ぎて、この辺りの境地に来たような気がするので、大したことはないんですが。
ただ、階級闘争的な言い方でいうと、支配階級に属するような人に聞いてみたら
「はあ?勉強が大事なんか、10歳になったらわかれよ。俺は6歳でわかったよ。それがわからんヤツとわかるヤツではレベルが違い過ぎるんだよ。世の中で第一線で活躍したり、一流といわれる人は、ほとんど6歳ぐらいでわかってる。」
ウソかホントかわからんけど、こういう答えが返ってきたこともあります。
確かに、歌舞伎役者とか家元とかいわれる世界ではそういうのありそうだ。
それが、政治や財界の世界でもあっても不思議ではないかもしれない。
勉強においては、「走るのは脚でやるんやから、上半身の筋肉はいらん。」レベルのことをものすごくたくさんの人が言います。
「外国の言葉よりも日本語が大事だ。」
なんて、論点が外れ過ぎてる。
未だに、「短距離走るのは脚でやるから、上半身の筋肉はいらない。」と言ってるようなもので、そんな幼稚な考えが、教育論争に未だ根強くまかり通るってことは、これから、貧困や環境問題など様々なことに取り組んでいかなければならない国の進路にどっかりと障害物を置くようなもの。
英語の勉強は、言葉の勉強というよりは脳のトレーニングの意味が大きいと思う。
・他の回路で複線的に考える力。
・細部がわからんままでも大枠で理解して前に進む力。
・未知のものに自然に取り付ける力。
・情報のアンテナを世界中に向ける感度。
ほかにもいろいろあるけど、英語って、言葉を使うか使わないかよりもほとんどの国民にとって、こっちが大事。
昔、司法試験が400人合格時代は、四国の大学からは、何年にも渡って1人も合格者が出てませんでした。
私大だと司法試験に特化したカリキュラムのとこも多いかもしれなせんが、国立ではそういうところはあまりなかったと思う。
田舎にはいい司法試験向けの予備校みたいなのがなかったというのもあるでしょう。
そして、国立においては、数学が二次試験にあるところになると、急に合格者が出てくるんです。
司法試験に直接的に見た感じでは数学関係ないんです。
確かに、法学部で数学を二次に要求するところは難関大学が多いのでもともとレベルが高いとも言える。
しかし、法律の勉強について、大学でまじめにやって追いつけないような差をそこに求めるのは難しいと思う。
・文系でも、文系に一般的な苦手分野がやれるバランスや論理的明晰さや頭脳強度
・もともと、苦手から逃げる感覚が少ないこと。
「理数ができないから文系になった」ってのと、そこでレベルが違ってくるのだと思いました。
「何々は役に立つけど、何々は役に立たないって、学生時代にいうと、絶対に、レベルが上がらんと思う。」
仮に、それで受験は通り抜けて、難関大学に合格して、高給取りになれたとしても、世の中でそれを役に立てられる人になれないと思う。
そうして、支配階級の間だけで補完しあって、自己保身に走り、庶民の暮らしの中にある問題に取り組んだり、良くしていこうと考えられない人になる。
それは、今の政治家、公務員、財界人に共通して流れる病理につながっている。
ロシア革命なんかも、そういうことで、共産党官僚による独裁的搾取につながっていったと思える。
で、逆に言うと、被支配階級である労働者とか庶民側にこの手の自覚がないと簡単に独裁や恐怖政治を許してしまうってのもある。
最近、歴史のことを軽く探ってると、そういうことを感じるなあ。
これは、国語、英語、数学、理科、社会どの教科にもその要素がある。
世の中が何であるか、自然においては、理科で、人間のやることについては社会科で知ること。
コミュニケーションとして、日常のことは国語で、世界中に広がりのあることについては英語で、自然界の法則や量的関係や空間関係などにおいては数学で。
少数間で行われることはパーソナルコミュニケーションとして、マスメディアが関わることについては、マスコミュニケーションとして。
みたいな感じで
トレーニング、コンテンツ、コミュニケーション
これが五教科を伝統的な縦割りでなく、有機的に機能面から見たとらえ方でないでしょうか?
五教科の勉強をしてるとき、これは国語だとか、理科だとか思わずに
「トレーニングだ。コンテンツだ。コミュニケーションだ。」または、その複数を同時にとか、思ってみてはどうでしょうか?
SVOCとか「こ・き・く・くる~」とかは、スクワットや腕立てに近い意味があって地味なもんでしょう。
数学なんかには、ストレッチとして、関節の可動域を広げるような役割りもあるかもしれません。
スポーツにおいて、右投げだから、左腕は鍛えないとか、投げるのは腕しか使ってないから腹筋はいらないとか、試合では100球しか投げないから、100球以上は投げないとか、「打って、三振とったらええんや。チームプレーとかサインとか作戦なんかいらんよ。」と言えないように。
国語、算数、英語、理科、社会も、そういう関係だと思うんです。
世の中のことを考えたり、活躍するのに、何がいらないとか、何が関係ないとか、あるはずないんです。
確かに、低いレベルの野球で、素人相手だと、作戦なしでも、疲れずにスタミナとか関係なしで外野は寝てても勝てますが、おおよそどんな分野でも、社会で行われることは、コンテンツとコミュニケーションと、思考のトレーニングの裏づけが、レベルが上がるにつれて必要になると思うんです。
スポーツではもうかなり研究が進んでいるのにね。
勉強も
全部がつながっていて、全部が役に立つに決まってるんです。
短距離走の選手が上半身の筋肉量が多いのは誰でも知ってます。
競輪選手に最も必要な体力数値の3つ目までにはベンチプレスの数字が出てきます。
この程度のことさえ、勉強においてはほとんどの人がわかってないような気がする。
たみ家も、30歳をかなり過ぎて、この辺りの境地に来たような気がするので、大したことはないんですが。
ただ、階級闘争的な言い方でいうと、支配階級に属するような人に聞いてみたら
「はあ?勉強が大事なんか、10歳になったらわかれよ。俺は6歳でわかったよ。それがわからんヤツとわかるヤツではレベルが違い過ぎるんだよ。世の中で第一線で活躍したり、一流といわれる人は、ほとんど6歳ぐらいでわかってる。」
ウソかホントかわからんけど、こういう答えが返ってきたこともあります。
確かに、歌舞伎役者とか家元とかいわれる世界ではそういうのありそうだ。
それが、政治や財界の世界でもあっても不思議ではないかもしれない。
勉強においては、「走るのは脚でやるんやから、上半身の筋肉はいらん。」レベルのことをものすごくたくさんの人が言います。
「外国の言葉よりも日本語が大事だ。」
なんて、論点が外れ過ぎてる。
未だに、「短距離走るのは脚でやるから、上半身の筋肉はいらない。」と言ってるようなもので、そんな幼稚な考えが、教育論争に未だ根強くまかり通るってことは、これから、貧困や環境問題など様々なことに取り組んでいかなければならない国の進路にどっかりと障害物を置くようなもの。
英語の勉強は、言葉の勉強というよりは脳のトレーニングの意味が大きいと思う。
・他の回路で複線的に考える力。
・細部がわからんままでも大枠で理解して前に進む力。
・未知のものに自然に取り付ける力。
・情報のアンテナを世界中に向ける感度。
ほかにもいろいろあるけど、英語って、言葉を使うか使わないかよりもほとんどの国民にとって、こっちが大事。
昔、司法試験が400人合格時代は、四国の大学からは、何年にも渡って1人も合格者が出てませんでした。
私大だと司法試験に特化したカリキュラムのとこも多いかもしれなせんが、国立ではそういうところはあまりなかったと思う。
田舎にはいい司法試験向けの予備校みたいなのがなかったというのもあるでしょう。
そして、国立においては、数学が二次試験にあるところになると、急に合格者が出てくるんです。
司法試験に直接的に見た感じでは数学関係ないんです。
確かに、法学部で数学を二次に要求するところは難関大学が多いのでもともとレベルが高いとも言える。
しかし、法律の勉強について、大学でまじめにやって追いつけないような差をそこに求めるのは難しいと思う。
・文系でも、文系に一般的な苦手分野がやれるバランスや論理的明晰さや頭脳強度
・もともと、苦手から逃げる感覚が少ないこと。
「理数ができないから文系になった」ってのと、そこでレベルが違ってくるのだと思いました。
「何々は役に立つけど、何々は役に立たないって、学生時代にいうと、絶対に、レベルが上がらんと思う。」
仮に、それで受験は通り抜けて、難関大学に合格して、高給取りになれたとしても、世の中でそれを役に立てられる人になれないと思う。
そうして、支配階級の間だけで補完しあって、自己保身に走り、庶民の暮らしの中にある問題に取り組んだり、良くしていこうと考えられない人になる。
それは、今の政治家、公務員、財界人に共通して流れる病理につながっている。
ロシア革命なんかも、そういうことで、共産党官僚による独裁的搾取につながっていったと思える。
で、逆に言うと、被支配階級である労働者とか庶民側にこの手の自覚がないと簡単に独裁や恐怖政治を許してしまうってのもある。
最近、歴史のことを軽く探ってると、そういうことを感じるなあ。
Posted by たみ家 at 10:48│Comments(0)