法のものさし

2010年04月01日

前々記事の「微妙な判決」の追加例だけど

ホステスと客が店外でデートしてホテルでホステスが何らかの男女間のもつれで客を刺したとする。

男女が疑似恋愛することで、同伴出勤などで、売上をあげることが常態化している場合、店外デートは店の業務執行の一環といえるかもしれません。

むしろ、塾講師と児童の不仲が原因での殺傷など、これよりも業務の執行の度合いが低いかもしれない。

施設の外か中か
被害者が成人か児童か

そういうことは、法的な話として、違いはわかるけど、決定的な違いといえるかどうか微妙なわけです。

店外で客とホステス間の刃傷沙汰での被害を店側がやった人と同程度同額の責任を負うというレベルを世の中のあらゆる範囲で求められたら仕事がしにくいわ。

「裁判は、法の口である。」みたいな言い方を18歳のときに憲法の違憲立法審査権のところで読んだわ。

法って、何なのか、責任とか過失とかどういうものなのかって、具体的な裁判の結果によってわかると。

裁判は具体的な紛争の解決のためにあるのですが

同時に、「使用者責任とはこういうもので、類似の状況はこの判決から考えて判断してください。そして、それを考慮して、雇用や勤務体制などを整えてください。」と世の中に宣告する機能を持つわけです。

そして、この手の判決が理屈的にきちんと一貫してなくて、ころころ変わるようだと新しいサービスも考えにくいし、既存のサービスでもどういう追加投資をしないといけないかわからなくなるわけです。

理屈に基づいて、さまざまな場面で何をしたらセーフなのか、はっきりさせる判決が出せないのでは、その裁判官は世の中を害してることになるわけです。

法が、裁判を通して、人々が世の中でやっていいことの範囲や、不幸にもリスクが実現してしまった場合の責任を明らかにして、リスク管理ができるものとすることで、より国力が充実しやすい状況になるわけです。
使用者の責任があいまいで過度に広い法的不安定は、国力を毀損する意味合いがある。

種々の法的安定性は、長期的な投資を適確に行わせやすくし、ひいては、人々の福祉を充実させるのです。

裁判自体は具体的な個々の紛争の解決を図るものであることが第一義でしょうが、それ以外で通用する話をしてもらわんと困るわけです。

法は社会のものさしで、六法全書の類でなく、裁判の集積によって国民に語られる意味の方が大きいわけです。
曲がったり伸縮するものさしって使えないわけで、それがそうなるからには、よほどの事情がないといかんわけです。

京進さんは、ええ加減に、この事件で何度もニュースになると困るからうんざりでしょう。
塾講師雇うにも、生徒集めるにも億円以上のマイナスでしょう。
億円で幕引けるなら引きたいと思っても不思議でない。
でも、この判決がこのまま確定したら、社会的に、雇用者と被用者の間での責任関係というあまりにも遍く広く影響を持つ事柄なので、もっと理論的に詰めたレベルの高い「法の宣告」をしてもらわないと世の中に害が大きいと思う。

法的には、控訴してもいいはずだけど、理不尽なまでに不利な状況なことは気の毒で、このことは法の限界の一つだと思う。
大方、感情論で、「責任を取らない冷酷で往生際の悪い企業」のようにとられてしまいがちな話だ。
後に法で勝っても、トータルで実質的な得は取れそうな気がしない。



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学習塾の小学生刺殺事件について、会社には使用者責任に基づく賠償責任があるとして、
使用者責任【営業・情報・独り言】at 2010年04月01日 17:47
 
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